緊張が高まるある夜の前日、地元の小さな居酒屋で二人の消防団員が杯を交わしていた。
店内はほぼ空いており、カウンター越しに見える古びたテレビからは、磐梯山の異変についてのニュースが小さな音で流れていた。二人はカウンターに並んで座り、それぞれの前には熱燗が置かれていた。
「明日か…」
村瀬はぽつりと呟いた。彼の声には、普段の落ち着きとは少し違う、緊張感が滲んでいた。
「ああ」
佐久間は短く応じた。彼が寡黙なのはいつものことだが、この夜は特に言葉少なだった。彼の
二人は長年コンビを組んできた仲だった。数々の火災現場、災害救助の最前線で共に汗を流し、命の危険と隣り合わせの現場を何度も乗り越えてきた。
もうちょと平和な依頼だと、近所のドブさらいや、詰まった排水管をポンプ水流で掃除する事も何度かあった。
しかし、明日からの任務は今までとは全く違った。未知の空間、理解不能な現象、そして一般的な消火活動や救助作業の常識が通用しない可能性がある"あの場所"への探索。
「若い衆は準備万端らしいな」
村瀬が話題を切り出した。若手団員たちの熱心な姿勢を思い浮かべながら、彼は微笑んだ。
「…熱いな」
佐久間の言葉は少ないが、その中に若手への評価が込められていた。
「特に青山は驚いたよ。あいつ、ダンジョン内部の温度変化のデータを元に、独自のマッピングシステムを考案したらしい」
「……GPSも効かない環境で役に立つか?」
佐久間は疑問を呈した。彼は最新技術よりも、長年の経験と勘を信じるタイプだった。
村瀬は熱燗を一口飲んでから答えた。
「どうだろうな。でも、あいつなりの戦い方だ。認めてやりたい」
会話が一瞬途切れ、二人の間に静かな間が流れた。テレビからは、専門家たちが磐梯山の異変について議論する声がかすかに聞こえる。
「村瀬」
珍しく佐久間から話しかけた。普段は必要最低限の言葉しか発しない彼だが、今夜は何か言いたいことがあるようだった。
「なんだ?」
「明日…全員、無事に戻れるか?」
その問いに、村瀬は少し目を見開いた。佐久間がこのような不安を口にするのは極めて珍しかった。彼の言葉の裏には、長年現場で培った
「正直なところ、わからない」
村瀬は率直に答えた。副団長として、部下たちに"絶対に大丈夫"と言い聞かせることもできただろう。しかし、この古い相棒の前では、そんな
「だが、だからこそ俺たちがいるんだ」
村瀬の声には静かな決意が宿っていた。佐久間は黙って聞いている。
「若い連中には、それぞれの役割がある。青山のデータ分析、橘の情報伝達能力、白石の医療技術…」
「…俺たちの役目は?」
「背負うことだ」
村瀬の答えは簡潔だった。その言葉に、佐久間はわずかに頷いた。
「若い奴らに、死なれちゃいかん」
佐久間のぶっきらぼうな言葉に、深い意味が込められていた。村瀬はそれを理解し、静かに頷いた。
「あの時のようにはさせない」
その一言で、二人の脳裏には同じ光景が浮かんだ。五年前、大規模な森林火災での出来事。新人団員を失いかけた、あの
「俺のせいだった」
村瀬が静かに言った。五年前、彼は現場指揮官として判断ミスを犯した。その結果、若い団員が重傷を負い、長い闘病生活を余儀なくされた。
「違う」
佐久間は珍しく強い口調で否定した。
「あの状況では誰も…」
「いや、俺が全部背負う。それが副団長の仕事だ」
村瀬の声には
「分けてくれ」
「え?」
「責任を…分けてくれ」
佐久間の言葉に、村瀬は驚いた表情を浮かべた。
「お前は現場の指揮官だった。だが俺は、現場の安全確認の責任者だった」
佐久間は普段の三倍ほどの長さの文章を話した。それだけ、彼の中で長年溜まっていた思いがあったのだろう。
「俺も、あの時の責任を背負っている。だから…明日は、絶対に全員を守る」
村瀬は黙って佐久間を見つめた。そして小さく笑った。
「ありがとう、仁」
珍しく下の名前で呼びかけた。二人が名前で呼び合うのは、極めて稀なことだった。
「…気にするな、悠介」
二人は静かに杯を重ねた。言葉は少なくとも、長年の付き合いで育まれた絆が二人の間にはあった。
「実は、ある決断をした」
村瀬が切り出した。佐久間は静かに彼の言葉を待った。
「明日の探索では、チームを二手に分ける。俺と青山、白石のチームと、お前と橘、加納のチームだ」
「なぜ?」
「万が一のときに、片方のチームが助けに行ける体制を作っておきたいんだ」
佐久間は黙って考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。
「わかった。俺のチームは万全の装備で行く」
「ああ、頼む。俺たちの役目は若い命を守ること。それだけだ」
二人は静かに酒を飲み干した。カウンターに置かれた時計は、すでに午後十一時を回っていた。
「帰るか」
村瀬が立ち上がると、佐久間も無言で続いた。会計を済ませ、二人は店を出た。外は静かな夜で、遠くに磐梯山の
「俺はこの山を守ってきた」
佐久間が突然言った。「この地域で生まれ育った彼にとって、磐梯山は特別な存在だった。
「今度は、山が俺たちに何かを伝えようとしているんだろうか」
村瀬も山を見上げながら呟いた。
「さあな…」
佐久間は肩をすくめた。
「だが、聞く準備はできている」
その言葉に、村瀬は小さく笑った。二人は別れ際、珍しく固い握手を交わした。言葉なき約束、明日も全員で無事に帰ることを誓う
「明日、詰所で」
「ああ」
短い別れの言葉を交わし、二人はそれぞれの家路についた。明日からの未知の冒険に向けて、彼らの心には静かな決意が宿っていた。責任の重さを知るからこそ、彼らは立ち止まらない。それが、長年消防団で培ってきた彼らの誇りだった。
家に帰ると、村瀬は机の上に置かれた明日の探索計画書に最後の確認を入れた。全員の安全を最優先に考えた入念な計画だ。彼は深く息を吐き、窓から見える磐梯山の方角を見つめた。
一方、佐久間の家では、彼が静かに装備の最終チェックを行っていた。安全ロープ、ヘルメット、通信機器…一つひとつを丁寧に確かめる手つきには、長年の経験から来る確かな信頼があった。