ダンジョン探索の初期段階、磐梯山の麓に出現した不思議な空間の本格調査が始まって三日目のことだった。消防団の詰所では、翌日の探索に向けた準備が進められていた。窓の外では、春の雨が静かに降り続けていた。
詰所の奥の作業スペースでは、装備・技術担当の
「加納さん、お手伝いします」
声をかけたのは新入りのIT担当、
加納は無言で頷き、隣の椅子を指さした。智也はそこに腰掛け、作業台の上の機材を眺めた。
「これは温度センサーの不具合ですか?」
智也は分解された小さな装置を手に取った。その装置は、ダンジョン内の急激な温度変化を測定するために特別に用意されたものだった。
「ああ。反応が遅い」
加納の答えは簡潔だった。彼は老眼鏡をかけ直し、
「診断ソフトを走らせれば、原因がすぐに分かるかもしれません」
智也はポケットからスマートフォンを取り出した。加納は眉をひそめ、わずかに首を振った。
「必要ない。この手の機械は、見て、触って、聴いて分かる」
加納は小さなドライバーで、センサーの中の微小な部品を調整し始めた。その手つきには長年の経験から来る確かな技術が感じられた。
智也は黙って見ていたが、すぐに我慢できなくなった。
「でも、デジタル診断なら数値化できて、より正確に…」
「青山」
加納が作業の手を止め、真剣な眼差しで智也を見た。
「機械には、数値では表せない『声』がある」
智也は少し戸惑った表情を浮かべた。
「声、ですか?」
「ああ。長く付き合えば、機械が何を望んでいるか分かるようになる」
加納はそう言って、再び作業に戻った。智也は半信半疑の表情を浮かべながらも、黙って加納の手元を観察していた。
数分後、加納が小さな
「難しいな…」
加納の言葉に、智也は再び提案した。
「やはり診断ソフトを使わせてください。接続アダプタがあれば、このセンサーとスマホを繋げられます」
加納は少し考え込む様子を見せた後、ゆっくりと頷いた。
「ああ…試してみるか」
その意外な譲歩に、智也は少し驚いた。彼は急いでバッグからケーブルとアダプタを取り出し、センサーとスマホを接続した。
「このアプリで診断できます。私が開発したんです」
智也は誇らしげに画面を操作した。画面上にはグラフや数値が次々と表示され、最終的に赤い文字で「感熱素子の抵抗値異常」と表示された。
「やはり感熱素子ですね。交換が必要です」
加納は黙ってスマホの画面を見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げて言った。
「俺も同じ結論だった」
智也は驚いた。
「え? でも、さっきまで…」
「目で見て、手で触って分かっていた。だが、『確信』が欲しかったんだ」
加納は作業台の引き出しから新しい感熱素子を取り出し、細心の注意を払いながら交換作業を始めた。
「自分で作ったのか?」
加納の質問に、智也は少し照れくさそうに頷いた。
「はい、色々な機器の診断ができるように設計しました。でも、まだ改良の余地はあります」
「なるほど…」
加納は作業を続けながら、ふと思い出したように話し始めた。
「俺が若い頃は、全て手作業だった。故障箇所を見つけるのに、時には一晩中かかることもあった」
その言葉に、智也は興味を示した。
「どうやって判断していたんですか?」
「経験と勘だ。それと…」
加納は作業の手を止め、耳を澄ます仕草をした。
「聴くんだ。機械の声を」
智也は少し首を傾げた。彼のような理論派には、「機械の声」という表現が理解しにくかった。
「もう少し具体的に教えていただけますか?」
加納はセンサーを持ち上げ、智也に差し出した。
「これを耳に当てて、スイッチを入れてみろ」
智也は言われた通りにした。微かな振動と、かすかな「カチッ」という音が感じられた。
「何か…音がします」
「正常な時は、もっと滑らかな音がする。この『引っかかり』が不具合を示している」
智也は感心した様子で頷いた。
「なるほど…デジタル診断では捉えきれない感覚的な部分があるんですね」
「ただ、お前のアプリも便利だ。特に複雑な機器には有効だろう」
加納の言葉に、智也は嬉しそうな表情を浮かべた。二人は静かに作業を続けた。年齢も経験も異なる二人だが、この瞬間、お互いの価値を認め始めていた。
「実は僕、子供の頃から機械いじりが好きだったんです」
智也が沈黙を破った。
「父が古い時計を集めていて、それを分解して遊んでいました。でも、大人になるにつれて、デジタルの世界に没頭して…」
「手の感覚を忘れかけていたのか?」
加納の鋭い指摘に、智也は少し驚いた様子で頷いた。
「そうかもしれません。データと数値だけを追いかけるようになってしまって…」
加納は小さく笑った。それは智也が加納から初めて見た笑顔だった。
「機械を理解するには、両方必要だ。感覚とデータと…。感覚はセンサーでデータ化できるし、データから違和感を感じるかどうかは感覚が必須になる」
その言葉は、単なる機械の話を超えた人生の教訓のように響いた。智也はしばらく考え込んでいたが、やがて決意したように話し始めた。
「加納さん、私の診断アプリをもっと改良したいと思います。でも、そのためには加納さんの『感覚』のノウハウが必要です。協力していただけませんか?」
加納はゆっくりと智也を見つめ、やがて頷いた。
「面白そうだな。試してみるか」
二人はその後、センサーの修理を完了させ、他の機材のメンテナンスにも着手した。智也は加納の作業を注意深く観察し、時々メモを取る。加納は時折、言葉少なに智也に助言を与えた。
作業の合間に、智也が不思議そうに質問した。
「加納さんは、なぜそんなに機械を大切にするんですか?」
加納は手を止め、遠くを見つめるような目をした。
「機械は裏切らない。正しく扱えば、必ず応えてくれる」
その言葉には何か深い意味があるように感じられた。智也は加納の表情から、さらに質問するのをやめた。
夕方になり、外の雨はやんでいた。二人の作業もほぼ完了していた。
「もうこれで大丈夫です」
智也が最後の機材をチェックしながら言った。加納は無言で頷き、作業台を片付け始めた。
「加納さん…」
智也が少し緊張した様子で声をかけた。
「明日の探索で、この温度センサーを使わせてください。私が責任を持ちます」
加納は少し驚いたような表情を見せた。
「…なぜだ?」
「データだけでなく、感覚も大切だということを学びたいからです。現場で、実際に使いながら」
加納はじっと智也を見つめた後、静かに頷いた。
「いいだろう。だが、常に機械の声に耳を傾けることを忘れるな」
「はい、約束します」
二人は片付けを終え、詰所を出る準備を始めた。そのとき、加納が小さな声で言った。
「明日、早めに来い。もう一つ、教えることがある」
その言葉に、智也の目が輝いた。
「必ず来ます!」
詰所を出る二人の姿を、窓際で
「いい組み合わせになりそうだな」
翌日の探索で、智也と加納は同じチームを組むことになっていた。世代も考え方も異なる二人だが、今日の機械メンテナンスを通じて、お互いを理解し始めていた。これからの冒険で、彼らの絆がどのように試され、深まっていくのか—それはまだ誰にも分からない。