磐梯山に出現した不思議なダンジョンへの探索が始まって一週間。初回の探索から戻った翌日の夜のことだった。消防団の詰所から少し離れた場所にある小さな喫茶店で、二人の隊員が向き合って座っていた。窓の外では、春の夜風が桜の花びらを舞わせていた。
「やっと二人きりで話せるね」
広報・地域連絡担当の
「そうね。今日はありがとう、こうして誘ってくれて」
医療担当の
「どう? ダンジョンの中は」
乃絵が静かに尋ねた。昨日の初回探索では、橘のチームが内部へ、乃絵のチームは外部での待機だった。
橘はカップを置き、少し考え込む様子を見せた。
「言葉にするのが難しいの…」
彼女は視線を宙に漂わせながら続けた。
「あの中は、時間の流れも空間の感覚も、全てが違って感じられるの。私の言葉が、みんなに届いているのか不安になった」
乃絵は静かに橘の表情を観察していた。彼の専門は医療だが、人の心の機微を読むのも得意だった。
「何かあったの?」
乃絵の優しい問いかけに、橘の目に一瞬、迷いの色が浮かんだ。
「実は…あの中で一度、通信が途切れたの」
橘は少し声を低くして話し始めた。
「ほんの数分だったけど、私の声が誰にも届かなくなって…」
乃絵はゆっくりと頷きながら聞いていた。
「それで?」
「怖かった」
橘は正直に告白した。いつも明るく前向きな彼女が、弱さを見せるのは珍しかった。
「声が届かないって、私にとっては…存在している意味がなくなるような感覚なの」
橘の言葉に、乃絵は思わず手を伸ばし、彼女の手を優しく握った。
「理解できるわ。私も似たような経験があるから」
橘は少し驚いた様子で乃絵を見つめた。
「乃絵も?」
「私の場合は、看護師時代のことね」
乃絵は少し遠い目をして言った。
「瀕死の急患さんが運ばれてきて、私は必死に手当てをしていた。でも、気づいたら周りの医師たちは別の患者さんの処置を始めていて…私の声も、判断も届いていなかったの」
その記憶は、乃絵の心に残る
「その患者さんは?」
橘が恐る恐る尋ねた。
「助からなかった」
乃絵の声は静かだったが、その言葉の重みは橘の胸に
「もし私がもっとアピールしていたら、違う結果になったかもしれない…その思いが、今でも時々よみがえるわ」
橘は言葉を失った。彼女は乃絵の内側に秘められた深い傷を初めて知った。
しばらくの沈黙の後、橘が静かに口を開いた。
「乃絵は…どうやってそれを乗り越えたの?」
乃絵は小さく微笑んだ。
「完全には乗り越えていないわ。でも…」
彼はコーヒーに視線を落としながら続けた。
「届かない時があっても、それでも声を上げ続けることが大切だと学んだの。一度届かなくても、繰り返せば、いつか誰かの心に届く」
その言葉に、橘の目に光が戻った。
「そうね…」
「それに」
乃絵は再び橘の目を見つめた。
「あなたの声には特別な力があるわ。人々を勇気づけ、希望を与える声」
橘は少し照れたように目を伏せた。
「でも、それが通じない場所があるなんて…」
「だからこそ、私たちがチームなのよ」
乃絵の声には強い信念が感じられた。
「あなたの声が届かない時は、私の手が届く。私の手が届かない時は、加納さんの技術が助けになる。青山くんのデータが役立たない時は、佐久間さんの経験が道を開く…」
橘は乃絵の言葉に、少しずつ
「みんな、それぞれの方法で『声』を届けているのね」
「そうよ。形は違っても、私たちは皆、誰かのために声を上げている」
二人は静かに微笑み合った。夜の静けさの中で、お互いの内側に秘めていた弱さと強さを共有していた。
「乃絵さん…」
橘が真剣な表情で言った。
「明日から、あなたも内部探索に参加するけど…怖くない?」
乃絵は少し考えてから、正直に答えた。
「怖いわ。でも、それでもやらなければならないこともあるわ」
「私も同じ」
橘は力強く言った。
「怖いけど、私の声が届く限り、みんなの安全を守りたい」
乃絵は優しく微笑んだ。
「それに、最悪の場合は…」
「最悪の場合は?」
「声が届かなくても、私たちには『手』がある。触れること、抱きしめること、それも大切なコミュニケーションよ」
橘は乃絵の言葉に、深く考え込んだ。
「確かに…言葉だけが全てじゃないわね」
彼女は自分の両手を見つめながら言った。
「私たちには、声以外にも伝える手段がある」
乃絵は頷いた。
「だから安心して。あなたの声が届かない時は、私が手を差し伸べるわ」
「私も」
橘は力強く言った。
「あなたの治療が行き届かない時は、私の声であなたをサポートする」
二人は互いに
「ねえ、橘さん」
乃絵が少し
「男性ばかりの団の中で、時々孤独を感じることはない?」
橘は少し考えてから答えた。
「たまにはあるわ。でも、彼らなりのやり方で私たちを大切にしてくれているのは感じるわ、特に
橘はそう言って、少し微笑んだ。
「加納さんも、無口だけど、いつも装備を最優先で整備してくれるわ」
乃絵も思い出したように言った。
「そして
「佐久間さんは?」
「一度、私が体調を崩した時、何も言わずに栄養剤をくれたの。誰にも言わないでね」
橘は驚いた表情を浮かべた。
「えっ、あの
乃絵は小さく笑った。
「みんな、それぞれの方法で気持ちを表現しているのよ」
「そうね…」
橘は感慨深げに頷いた。
「だから私たちも、自分らしく声を届けようよ。たとえ、時々届かなくても」
「ええ、そうしましょう」
乃絵は笑顔で応じた。
時計は既に午後十時を回っていた。二人は会計を済ませ、喫茶店を出た。春の夜風は冷たかったが、二人の心は温かかった。
「また明日ね」
橘が手を振った。
「ええ、明日も頑張りましょう」
乃絵も優しく笑顔を返した。