目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

side talk:声が届かない夜 - 橘遥と白石乃絵のひみつトーク

磐梯山に出現した不思議なダンジョンへの探索が始まって一週間。初回の探索から戻った翌日の夜のことだった。消防団の詰所から少し離れた場所にある小さな喫茶店で、二人の隊員が向き合って座っていた。窓の外では、春の夜風が桜の花びらを舞わせていた。


「やっと二人きりで話せるね」


広報・地域連絡担当のたちばなはるかが、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら言った。彼女の表情には、日中の明るさとは少し違う、疲れの色が見えた。


「そうね。今日はありがとう、こうして誘ってくれて」


医療担当の白石しらいし乃絵のえは優しく微笑みながら応じた。消防団の中で、二人は年齢も近く、自然と親しい関係になっていた。しかし、忙しい日常の中で、ゆっくり話す機会はあまりなかった。


「どう? ダンジョンの中は」


乃絵が静かに尋ねた。昨日の初回探索では、橘のチームが内部へ、乃絵のチームは外部での待機だった。


橘はカップを置き、少し考え込む様子を見せた。


「言葉にするのが難しいの…」


彼女は視線を宙に漂わせながら続けた。


「あの中は、時間の流れも空間の感覚も、全てが違って感じられるの。私の言葉が、みんなに届いているのか不安になった」


乃絵は静かに橘の表情を観察していた。彼の専門は医療だが、人の心の機微を読むのも得意だった。


「何かあったの?」


乃絵の優しい問いかけに、橘の目に一瞬、迷いの色が浮かんだ。


「実は…あの中で一度、通信が途切れたの」


橘は少し声を低くして話し始めた。


「ほんの数分だったけど、私の声が誰にも届かなくなって…」


乃絵はゆっくりと頷きながら聞いていた。


「それで?」


「怖かった」


橘は正直に告白した。いつも明るく前向きな彼女が、弱さを見せるのは珍しかった。


「声が届かないって、私にとっては…存在している意味がなくなるような感覚なの」


橘の言葉に、乃絵は思わず手を伸ばし、彼女の手を優しく握った。


「理解できるわ。私も似たような経験があるから」


橘は少し驚いた様子で乃絵を見つめた。


「乃絵も?」


「私の場合は、看護師時代のことね」


乃絵は少し遠い目をして言った。


「瀕死の急患さんが運ばれてきて、私は必死に手当てをしていた。でも、気づいたら周りの医師たちは別の患者さんの処置を始めていて…私の声も、判断も届いていなかったの」


その記憶は、乃絵の心に残る忌々いまいましい出来事だった。


「その患者さんは?」


橘が恐る恐る尋ねた。


「助からなかった」


乃絵の声は静かだったが、その言葉の重みは橘の胸に鈍器どんきのように突き刺さった。


「もし私がもっとアピールしていたら、違う結果になったかもしれない…その思いが、今でも時々よみがえるわ」


橘は言葉を失った。彼女は乃絵の内側に秘められた深い傷を初めて知った。


しばらくの沈黙の後、橘が静かに口を開いた。


「乃絵は…どうやってそれを乗り越えたの?」


乃絵は小さく微笑んだ。


「完全には乗り越えていないわ。でも…」


彼はコーヒーに視線を落としながら続けた。


「届かない時があっても、それでも声を上げ続けることが大切だと学んだの。一度届かなくても、繰り返せば、いつか誰かの心に届く」


その言葉に、橘の目に光が戻った。


「そうね…」


「それに」


乃絵は再び橘の目を見つめた。


「あなたの声には特別な力があるわ。人々を勇気づけ、希望を与える声」


橘は少し照れたように目を伏せた。


「でも、それが通じない場所があるなんて…」


「だからこそ、私たちがチームなのよ」


乃絵の声には強い信念が感じられた。


「あなたの声が届かない時は、私の手が届く。私の手が届かない時は、加納さんの技術が助けになる。青山くんのデータが役立たない時は、佐久間さんの経験が道を開く…」


橘は乃絵の言葉に、少しずつうなずいていた。


「みんな、それぞれの方法で『声』を届けているのね」


「そうよ。形は違っても、私たちは皆、誰かのために声を上げている」


二人は静かに微笑み合った。夜の静けさの中で、お互いの内側に秘めていた弱さと強さを共有していた。


「乃絵さん…」


橘が真剣な表情で言った。


「明日から、あなたも内部探索に参加するけど…怖くない?」


乃絵は少し考えてから、正直に答えた。


「怖いわ。でも、それでもやらなければならないこともあるわ」


「私も同じ」


橘は力強く言った。


「怖いけど、私の声が届く限り、みんなの安全を守りたい」


乃絵は優しく微笑んだ。


「それに、最悪の場合は…」


「最悪の場合は?」


「声が届かなくても、私たちには『手』がある。触れること、抱きしめること、それも大切なコミュニケーションよ」


橘は乃絵の言葉に、深く考え込んだ。


「確かに…言葉だけが全てじゃないわね」


彼女は自分の両手を見つめながら言った。


「私たちには、声以外にも伝える手段がある」


乃絵は頷いた。


「だから安心して。あなたの声が届かない時は、私が手を差し伸べるわ」


「私も」


橘は力強く言った。


「あなたの治療が行き届かない時は、私の声であなたをサポートする」


二人は互いに微醺びしゅんとした笑顔を交わした。ワインを一杯ずつ飲んだ効果か、頬は少し赤く染まっていた。


「ねえ、橘さん」


乃絵が少し憂鬱ゆううつそうに尋ねた。


「男性ばかりの団の中で、時々孤独を感じることはない?」


橘は少し考えてから答えた。


「たまにはあるわ。でも、彼らなりのやり方で私たちを大切にしてくれているのは感じるわ、特に村瀬むらせさんは、さりげなく気を使ってくれるわ」


橘はそう言って、少し微笑んだ。


「加納さんも、無口だけど、いつも装備を最優先で整備してくれるわ」


乃絵も思い出したように言った。


「そして佐久間さくまさんは…」


「佐久間さんは?」


「一度、私が体調を崩した時、何も言わずに栄養剤をくれたの。誰にも言わないでね」


橘は驚いた表情を浮かべた。


「えっ、あの無口むくちな佐久間さんが?」


乃絵は小さく笑った。


「みんな、それぞれの方法で気持ちを表現しているのよ」


「そうね…」


橘は感慨深げに頷いた。


「だから私たちも、自分らしく声を届けようよ。たとえ、時々届かなくても」


「ええ、そうしましょう」


乃絵は笑顔で応じた。


時計は既に午後十時を回っていた。二人は会計を済ませ、喫茶店を出た。春の夜風は冷たかったが、二人の心は温かかった。


「また明日ね」


橘が手を振った。


「ええ、明日も頑張りましょう」


乃絵も優しく笑顔を返した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?