――二一一〇年十二月三日、正午。俺たち〈神威結社〉は、〈
自然に囲まれ、白い絹が敷き詰められたかのように降り積もった雪。澄んだ冬の空気の中、村はまるで時が止まったかのように
数え切れないほどの
「ほー、綺麗なところだな……《淡墨エリア》」
「はい。素敵な雰囲気のエリアですね」
村の家々はどれも古き良き日本の風情を残し、厚い
「
「かしこまりました。ではせつくん、そちらに参りましょうか」
村の中央を流れる湾曲した小川は、冬の寒さにも負けず清らかな水を湛えている。
「――せつくん、よろしければそろそろ〈淡墨エリア〉に来た本当の目的を教えていただけませんか?」
「全く……お見通しだな。勿論、御宅を仲間に引き入れるためって本来の目的もあるんだが……」
「それだけではない、ということですね?」
「ああ、どうもな……この〈淡墨エリア〉……何か気になるんだよな……」
「えっ……!?せつくんもですか……?」
「天音もか?」
「はい……。何が、と言われると難しいですが……」
「そうか……」
玩具店のレジ袋を片手に、小川に沿って集落の中を進んでゆく。空を見上げれば、透き通るような青のキャンバスに、ふわりと白い雲が浮かんでいる。冷たい空気の中で、何処か遠くから風鈴の音が微かに響く。
川に架けられた木の橋の先――川縁に立つ小さな
「――田中氏!鈴木女史!」
「御宅、待たせたな」
「いやあ迎えに行けず申し訳なかったですな」
「エリアをゆっくり見て回りたいって言ったのはこっちだ。気にするな」
御宅 拓生は相変わらず深夜アニメの萌えキャラがプリントされたTシャツに丸眼鏡、バンダナを身に着けている。美しい寒緋桜が咲き誇る〈淡墨エリア〉の風景と不調和な様が、より御宅の珍妙な出で立ちを引き立てていた。
「御宅は何してたんだ?」
「この祠の掃除ですぞ」
御宅が指し示した、満開の寒緋桜の根元に建てられた祠は、清潔に手入れされ、普段から大切にされているのが
「この祠は?」
「祖母のお墓ですぞ。この〈
「へえ、お婆さんがこの満開の寒緋桜を……」
「素敵なお
「フフフ……自慢の祖母でしたぞ」
御宅は目に涙を浮かべ、袖でそっと拭った。
――この祠……。
俺は、その石の祠にそっと手を伸ばし、触れた。すると俺は、急速に大昔の記憶に引き戻された。まるで古い記憶の糸を
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「――痛いっ!」
「もっとやれるはずよ?何度言わせるの?」
彼の母は感情のコントロールが極端に下手な人だった。思い通りに息子が動かないと、
――
幼稚園の頃の彼は
一つだけ
「夏瀬くんすごーい!また百点だ!」
小学校に入学すると、当然のようにテストで満点を連発した。彼はそれが当然、皆そうなのだろうと考えていたが、次第に彼は、そうではない周りの子どもを見て、自身が優秀であることに気付いてしまった。
学歴に強いコンプレックスがあった彼の母は、息子に同じ
「夏瀬君、もうこんな漢字も書けるのかい?賢いねえ」
「こんなのも書けますよー!」
体験授業で褒められ、良い気になってしまった彼は、その塾――
「雪渚ちゃん、授業はどうだった?」
「楽しかった!」
「通ってみる気はない?」
「えー、でもゲームしたいー」
「ふふ、ゲームならいつでも出来るわよ」
「うーん、それならいいよ!」
体験授業の帰りの車で交わしたこの言葉が、母の期待を引き出す引き金となってしまった。
相変わらず当然のように満点を連発する小学校のテストは、彼にとっては酷く退屈なものだった。
――小学三年生になった頃、塾で毎週土曜日に行われるテストが始まった。通称「特別テスト」……国語、算数、理科、社会の四科目のテストが全国のその塾――
その初回となる「特別テスト」、彼はその日を一生後悔することになる。彼は「
「すごいじゃない雪渚ちゃん!偉いわ!」
「えへへー、簡単だった!」
「雪渚ちゃんは
合計四百点満点中の、堂々の四百点満点。平均点は二百点前後と非常に難易度の高いテストで、結果、彼は順位表の一番上に名前が掲載された。そのことを母は誇り、彼もまた、既にそのとき、自身の頭の良さに誇りを持っていた。母は彼に医者になって欲しいようだった。彼らがそれに足る可能性を感じたその日、彼にとっての「地獄」が始まったのはそこからだった。
「お母さーん、もう眠いー」
「まだ社会と理科が終わってないでしょ?一位取れないわよ?」
「別に一位とか興味ないー!眠いー!」
まだ幼い彼が泣き言を吐くと、母はリビングのテーブルに置いてあったボックスティッシュを彼に投げ付けた。
「痛いっ!」
「もっとやれるはずよ?何度言わせるの?」
塾は火曜、木曜、土曜と週三日あったが、火曜と木曜は小学校の帰りの会が終わると母が小学校の正門の前まで車で迎えに来ており、そのまま塾に向かわされた。二十二時に終わる塾が終わると、再び迎えに来た母の車に乗り帰宅。食事と入浴を済ませた後、母は彼の
クラスメイトが皆夢中になっているような、流行りのゲームを遊んだり、流行りのアニメを観たりという娯楽は一切許されなかった。恐らく、彼にそれほどの勉強を強制せずとも、彼は母の望みを叶えられたであろうに。彼の母は、
「その問題集が一周終わるまで今日は眠らせないからね」
「……………………」
一方の父は、一言で言えば仕事人間であった。県外で
このとき、夏瀬 雪渚――彼はまだ僅か八歳であった。
彼は最初の頃はそれほどその生活を苦痛に感じていなかった。塾で毎週土曜日に行われていた「特別テスト」……この順位によって彼は近くのカードショップでトレーディングカードゲームのカードを母に買ってもらえることになっていたのだ。一位ならば五千円分、二位ならば四千円分、三位ならば三千円分といった具合だ。母はそうして
その頃から小学校での彼は、無意識的な勉強へのストレスからか、鼻につく言動が増え、
しかし、母は小学校を休ませてまで勉強させるということはしなかった。
学年が上がる
「どうせまた夏瀬が一位だろ……」
「なんだよあいつばっかり褒められやがって」
塾でも
彼は不幸だったのだ。
結局のところ母は、彼の才能を理解出来なかったのだ。母親すら理解し得ない領域の天才。その点に酷い恐怖を覚えたのだ。
母は彼を完璧な人間に育てようとした。大学受験で挫折した過去を持つ母にとって、彼は、母の承認欲求を満たす道具。母にとって彼は「母親の優秀さ」を示す道具。彼が自身の思い通りに動かないのならば、それは自身の否定に繋がる。だからこそ理解し得ない恐怖には、恐怖を
――ある日、僅か十歳になったばかりの彼は、行動を起こすことにした。母に対する脅迫である。夜、塾に迎えに来た彼の母。彼はその車に乗らず大通りまで走った。大事な息子――
「僕、もう死ぬから」
「雪渚ちゃん、何言ってるの!帰るわよ!」
「……もう勉強したくない」
賢い彼は、勉強が出来る環境が
しかし、まだ幼い彼に一人で生きる力はなかった。そして、彼に死ぬ勇気もなかった。だから「脅迫」……。今思えばもっと他に方法など色々あっただろう。しかしこれが彼が選んだ手段だった。
「うっ……ぐすっ……僕も他の子みたいに遊びたいよ」
「大丈夫、大丈夫だから。絶対にお母さんに感謝する日が来るから」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」
クラクションが響く街中で、母はそっと彼を抱き締めた。彼はまた