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1-19 二周目

 ――二一一〇年十二月三日、正午。俺たち〈神威結社〉は、〈竹馬ちくばエリア〉に隣接する小さなエリア――〈淡墨うすずみエリア〉を訪れたところだった。


 自然に囲まれ、白い絹が敷き詰められたかのように降り積もった雪。澄んだ冬の空気の中、村はまるで時が止まったかのように静謐せいひつな美しさをたたえていた。


 数え切れないほどの寒緋桜かんひざくらがひっそりと咲き誇り、淡いピンクと白の花弁はなびらが冷たい風にそよぎ、朝の陽光を受けてきらめいている。その光景は、まるで春の名残が冬にそっと忍び込んだかのような幻想的な美しさを放っていた。


「ほー、綺麗なところだな……《淡墨エリア》」


「はい。素敵な雰囲気のエリアですね」


 村の家々はどれも古き良き日本の風情を残し、厚い茅葺かやぶき屋根が雪の重みに耐えながらも堂々とたたずんでいる。軒先のきさきには風に揺れる短冊のように、藁細工わらざいくや干し柿が吊るされ、微かに甘い香りを漂わせていた。


御宅おたくから連絡来てたぞ。この小川の先の家に住んでるらしい」


「かしこまりました。ではせつくん、そちらに参りましょうか」


 村の中央を流れる湾曲した小川は、冬の寒さにも負けず清らかな水を湛えている。川面かわもには桜の花弁がいくつも浮かび、ゆっくりと流れていく。その姿はまるで、春と冬が交わるこの村の時間の流れを象徴しているかのようだった。


「――せつくん、よろしければそろそろ〈淡墨エリア〉に来た本当の目的を教えていただけませんか?」


「全く……お見通しだな。勿論、御宅を仲間に引き入れるためって本来の目的もあるんだが……」


「それだけではない、ということですね?」


「ああ、どうもな……この〈淡墨エリア〉……何か気になるんだよな……」


「えっ……!?せつくんもですか……?」


「天音もか?」


「はい……。何が、と言われると難しいですが……」


「そうか……」


 玩具店のレジ袋を片手に、小川に沿って集落の中を進んでゆく。空を見上げれば、透き通るような青のキャンバスに、ふわりと白い雲が浮かんでいる。冷たい空気の中で、何処か遠くから風鈴の音が微かに響く。


 川に架けられた木の橋の先――川縁に立つ小さなほこらには、雪がうっすらと積もっているが、その前に置かれた灯籠には、誰かが最近供えたのだろうか、まだ新しい線香の香りが微かに残っていた。そして、その祠の背後から、肥満体の巨漢が姿を現した。


「――田中氏!鈴木女史!」


「御宅、待たせたな」


「いやあ迎えに行けず申し訳なかったですな」


「エリアをゆっくり見て回りたいって言ったのはこっちだ。気にするな」


 御宅 拓生は相変わらず深夜アニメの萌えキャラがプリントされたTシャツに丸眼鏡、バンダナを身に着けている。美しい寒緋桜が咲き誇る〈淡墨エリア〉の風景と不調和な様が、より御宅の珍妙な出で立ちを引き立てていた。


「御宅は何してたんだ?」


「この祠の掃除ですぞ」


 御宅が指し示した、満開の寒緋桜の根元に建てられた祠は、清潔に手入れされ、普段から大切にされているのがうかがえる。焼香の香りが鼻腔びこうに広がる。


「この祠は?」


「祖母のお墓ですぞ。この〈淡墨うすずみエリア〉が満開の寒緋桜の名所になっているのも祖母の功績ですな」


「へえ、お婆さんがこの満開の寒緋桜を……」


「素敵なお祖母ばあ様だったのですね」


「フフフ……自慢の祖母でしたぞ」


 御宅は目に涙を浮かべ、袖でそっと拭った。


 ――この祠……。


 俺は、その石の祠にそっと手を伸ばし、触れた。すると俺は、急速に大昔の記憶に引き戻された。まるで古い記憶の糸を手繰たぐり寄せられるように――。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「――痛いっ!」


「もっとやれるはずよ?何度言わせるの?」


 彼の母は感情のコントロールが極端に下手な人だった。思い通りに息子が動かないと、ぐにヒステリックを起こし、金切かなきり声でわめき散らすような人だった。


 ――夏瀬なつせ 雪渚せつな、二十二歳。彼の幼少期を端的に一言で表すならば、「地獄」であった。別に貧民街の生まれだとか、親に捨てられたとか、重い病気をわずらっていたとかそういうわけではない。何処どこにでもある、ありふれた、至って普通の、「地獄」であった。


 幼稚園の頃の彼はいたって普通の子どもであった。人並みに日曜朝の特撮とくさつや男児向けのキャラクターを好み、幼稚園では友達とアニメのごっこ遊びをしていた。


 一つだけ特筆とくひつするとすれば、彼は異常に賢かった。夕食時に家庭で流れるニュースを観て、彼は幼稚園を卒園する頃には、高校レベルの漢字までであれば既にマスターしていた。そして、彼は自宅近くの、至って普通の小学校に入学する。


「夏瀬くんすごーい!また百点だ!」


 小学校に入学すると、当然のようにテストで満点を連発した。彼はそれが当然、皆そうなのだろうと考えていたが、次第に彼は、そうではない周りの子どもを見て、自身が優秀であることに気付いてしまった。


 学歴に強いコンプレックスがあった彼の母は、息子に同じてつを踏ませまいと、早くから教育に力を入れることにしていた。その手始めとして、彼が小学一年生の冬、まず中学受験対策の塾の体験授業に息子を参加させた。


「夏瀬君、もうこんな漢字も書けるのかい?賢いねえ」


「こんなのも書けますよー!」


 体験授業で褒められ、良い気になってしまった彼は、その塾――能進塾のうしんじゅくに興味を持ち、母の思惑おもわく通りに、通いたいと言ってしまった。


「雪渚ちゃん、授業はどうだった?」


「楽しかった!」


「通ってみる気はない?」


「えー、でもゲームしたいー」


「ふふ、ゲームならいつでも出来るわよ」


「うーん、それならいいよ!」


 体験授業の帰りの車で交わしたこの言葉が、母の期待を引き出す引き金となってしまった。


 相変わらず当然のように満点を連発する小学校のテストは、彼にとっては酷く退屈なものだった。


 ――小学三年生になった頃、塾で毎週土曜日に行われるテストが始まった。通称「特別テスト」……国語、算数、理科、社会の四科目のテストが全国のその塾――能進塾のうしんじゅく教場きょうじょうで一斉に行われる。全国の上位成績者五十名が順位表に掲載され、各教場に貼り出された。小学校とは比べものにならないほど高いレベルのテストだった。


 その初回となる「特別テスト」、彼はその日を一生後悔することになる。彼は「あやまって」しまったのだ。


「すごいじゃない雪渚ちゃん!偉いわ!」


「えへへー、簡単だった!」


「雪渚ちゃんはい大学に入って立派な医者になるのよ」


 合計四百点満点中の、堂々の四百点満点。平均点は二百点前後と非常に難易度の高いテストで、結果、彼は順位表の一番上に名前が掲載された。そのことを母は誇り、彼もまた、既にそのとき、自身の頭の良さに誇りを持っていた。母は彼に医者になって欲しいようだった。彼らがそれに足る可能性を感じたその日、彼にとっての「地獄」が始まったのはそこからだった。


「お母さーん、もう眠いー」


「まだ社会と理科が終わってないでしょ?一位取れないわよ?」


「別に一位とか興味ないー!眠いー!」


 まだ幼い彼が泣き言を吐くと、母はリビングのテーブルに置いてあったボックスティッシュを彼に投げ付けた。


「痛いっ!」


「もっとやれるはずよ?何度言わせるの?」


 塾は火曜、木曜、土曜と週三日あったが、火曜と木曜は小学校の帰りの会が終わると母が小学校の正門の前まで車で迎えに来ており、そのまま塾に向かわされた。二十二時に終わる塾が終わると、再び迎えに来た母の車に乗り帰宅。食事と入浴を済ませた後、母は彼のかばんから塾のテキストを取り出し、深夜二時頃までつきっきりで勉強させた。当然塾のない日は、小学校から帰宅後、夕食と入浴を済ませるとそのまま深夜まで母との勉強が始まった。


 クラスメイトが皆夢中になっているような、流行りのゲームを遊んだり、流行りのアニメを観たりという娯楽は一切許されなかった。恐らく、彼にそれほどの勉強を強制せずとも、彼は母の望みを叶えられたであろうに。彼の母は、万全ばんぜんを期したのだ。彼の母は、彼が勉強していない時間を作ることが怖かったのだ。


「その問題集が一周終わるまで今日は眠らせないからね」


「……………………」


 一方の父は、一言で言えば仕事人間であった。県外で単身赴任たんしんふにんをしていた。たまに帰って来ては、無口な父は、夕食の後に直ぐに休んでしまう。数日居座った後にまた県外の社宅へ戻る。彼の父は、彼が塾に通っていることは知っていても、母の暴走を知るよしもなかったのだ。母の暴走を止める者は誰一人いなかった。


 このとき、夏瀬 雪渚――彼はまだ僅か八歳であった。


 彼は最初の頃はそれほどその生活を苦痛に感じていなかった。塾で毎週土曜日に行われていた「特別テスト」……この順位によって彼は近くのカードショップでトレーディングカードゲームのカードを母に買ってもらえることになっていたのだ。一位ならば五千円分、二位ならば四千円分、三位ならば三千円分といった具合だ。母はそうしてあめむちを息子に与え、彼を自身の都合の良いように飼い慣らした。何より他の家庭を知らない彼にとって、その生活は「普通」なのだと思っていた。当時の彼には母の思惑など知る由もなかったのだ。


 その頃から小学校での彼は、無意識的な勉強へのストレスからか、鼻につく言動が増え、傲慢ごうまんになっていった。友達が一人、また一人と彼から離れていった。小学校や塾で話の合う友達はほとんどいなかった。


 しかし、母は小学校を休ませてまで勉強させるということはしなかった。くまで両立を図らせていた。大方、保護者会で鼻が高いからといった平凡な理由だろう。


 学年が上がるごとに日に日に縮まっていく睡眠時間に、彼は気付かぬうちに限界を迎えていた。小学校のクラスメイトに些細ささいな理由で暴力を振るったり、弱気なクラスメイトを揶揄からかったりしていた。厳密に言えば勉強のストレスを彼らにぶつけていたのではない……。学校が終われば友達の家に集まってゲームをして遊ぶ、好きにテレビを観る、休日は家族で遊びに行ける。そんな自由な他の子がただただうらやましかったのだ。


「どうせまた夏瀬が一位だろ……」


「なんだよあいつばっかり褒められやがって」


 塾でもねたそねみからか、彼を悪く言う生徒が多かった。その度に彼は、お前らが相応の努力をしていないからだろ、と思っていた。


 彼は不幸だったのだ。たまたま、賢かった。それが彼を苦しめた。


  結局のところ母は、彼の才能を理解出来なかったのだ。母親すら理解し得ない領域の天才。その点に酷い恐怖を覚えたのだ。


 母は彼を完璧な人間に育てようとした。大学受験で挫折した過去を持つ母にとって、彼は、母の承認欲求を満たす道具。母にとって彼は「母親の優秀さ」を示す道具。彼が自身の思い通りに動かないのならば、それは自身の否定に繋がる。だからこそ理解し得ない恐怖には、恐怖をもって支配しようとした。


 ――ある日、僅か十歳になったばかりの彼は、行動を起こすことにした。母に対する脅迫である。夜、塾に迎えに来た彼の母。彼はその車に乗らず大通りまで走った。大事な息子――いな、自身の「二周目」を必死に追い掛ける母。大通りの路上、クラクションが鳴らされる中、彼は言う。


「僕、もう死ぬから」


「雪渚ちゃん、何言ってるの!帰るわよ!」


「……もう勉強したくない」


 賢い彼は、勉強が出来る環境が如何いかに恵まれているか、ということは頭では理解していた。だが、頭で理解していただけだった。彼にとって現状が「地獄」であることは変わらないのだ。だから逃げようとした。


 しかし、まだ幼い彼に一人で生きる力はなかった。そして、彼に死ぬ勇気もなかった。だから「脅迫」……。今思えばもっと他に方法など色々あっただろう。しかしこれが彼が選んだ手段だった。


「うっ……ぐすっ……僕も他の子みたいに遊びたいよ」


「大丈夫、大丈夫だから。絶対にお母さんに感謝する日が来るから」


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」


 クラクションが響く街中で、母はそっと彼を抱き締めた。彼はまただまされてしまった。いくら賢くとも、幼い少年少女にとって、親は全てなのだ。彼はこうして、再び地獄の日々に戻ることになる。

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