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第14話《4/23㈬》芽吹きそうな想い 

 弁当の盗難については、大学に伝えただけで警察には通報しなかった。

 部屋に入って盗まれた事実はあるものの、中身を食べたのは事務員の伊藤だし、弁当箱は戻ってきている。

 何より、犯人は学生と思われる状況が大学側に二の足を踏ませた。

 目下の問題は不法侵入ということで、理玖の研究室の鍵を交換して様子を見る対策が打たれた。


「これからは俺が先生の担当事務兼助手として常駐します」


 大学側が打ったもう一つの対策が、事務員空咲晴翔を研究室に常駐させる手段だった。

 講師という肩書でありながら、理玖の待遇は教授並みに上がった。


(出向した時から研究室も研究のための時間も貰っていたから、講師の待遇ではなかったけど)


 ついに助手が付いた。しかも晴翔が仕事中、ずっと同じ部屋にいる。

 理玖としては願ったりだが、晴翔の顔色は冴えない。


「警備強化するっていいながら、こういう事件を放置するのって、どうなんでしょうね」


 晴翔の怒りは大学側の対応の方らしい。

 そういえば、折笠准教授の助手で入った男が犯罪集団と繋がりがあるかもしれないotherで、警察が介入するらしい話を、二月くらいにしていた気がする。


(今は四月だから、警察が既に入っているかもしれないのか)


 本当に警察が介入しているかはわからないが、四月から構内の警備を強化すると大学側から通達があった。日中の警備員が増員されたのだが、そこに覆面警官が紛れているらしいというのが、もっぱらの噂だ。


(only狩りは多発しているし、新年度に合わせて警備強化するのは理解できる。警察の介入があっても不思議ではないな)


 only狩りの被害は高校生や大学生といった若い世代に集中している。性を目的にした犯罪だけに、年齢層が下がるのだろう。標的になり易い世代をマークするには大学は最適だ。


(折笠先生の助手には、まだ会っていないから、どんな人か知らないけど)


 新年度の挨拶に行った時は会わなかった。そういえば、名前も知らない。

 とんでもない噂を引っ提げて入ってくる助手だけに注目度も高いだろうと思うが。警察が大学に介入を容認させる材料としては充分だろう。


(何にせよ、危うきには近寄りたくない)


 折笠には日頃から必要以上に関わらないよう避けている。その助手がotherなら、onlyである理玖は警戒すべきだし、会わないのが一番だ。


 それよりも、理玖としては受け取った晴翔のプロフィールの方が気になった。不法侵入対策とはいえ、建前は助手なので、晴翔の簡易なプロフィールを開示されていた。


(筑紫大の理工学部を出てるのか。大学の事務員じゃ、勿体ないな)


 国立大の中でも難関大学だ。研究開発方面なり大企業なり、学部の特性を活かした仕事にいくらでも付けそうだ。

 理玖の脳に良くないひらめきが過った。


(僕の所で助手の仕事を覚えてくれたら、出向が終了した時に理研に連れて帰れるんじゃないか)


 自然科学系の大学を卒業していれば、理化学研究所には就職できる。

 一緒に理研に戻れば、今と同じように一緒に仕事ができる。


(晴翔君が望んでくれたら、だけど。あくまで晴翔君の希望が大事、だけど。でも、肩書は助手なんだから、仕事を覚えてもらうのは、いいよね)


 間は離れているものの、机を並べて仕事ができる今なら、手取り足取り教えられる。

 理玖の隣でPCに向かう晴翔をちらちら窺いながら、良からぬ考えを巡らせた。


「先生、体調は大丈夫ですか?」


 タイピングの手を止めて、晴翔が振り返った。

 思わず目を逸らしてPCに向かった。


「た、体調? どうして?」


 言い淀んだ上に声が上擦ってしまった。

 晴翔が心配そうな顔をした。


「弁当が盗まれた日、その……。調子が悪そうだった、から。あれから、どうかなと思って」


 晴翔が目を逸らした。

 いつも真っ直ぐな視線を向けてくれる晴翔にしては珍しい。


「体調……。そう、だね」


 弁当が盗まれた日の理玖の記憶は曖昧だ。だから、確認しなければと思っていた。


 机の上に置かれた空の弁当箱を見付けて、晴翔が来てくれて。気が付いたらベッドで寝ていた。目が覚めたのは夕方で、ぼんやりしたまま帰宅した。

 あれから五日経過しているが、晴翔に会うのは事件後、今日が初だ。


「調子は、何ともないんだけど。あの日、空咲君と話していた途中から、記憶が曖昧で。気が付いたらベッドで寝ていたんだけど、空咲君が運んでくれたの?」


 顔を上げて口を開きかけた晴翔が、また目を逸らした。


「そう、なんですね……」


 躊躇う目が、言葉を選んでいるように見える。


「……ぼんやりしていたから、俺がベッドまで運びました。かなり怖がっていたから動転したんだと思います。体調、悪くないなら良かったです」


 顔を上げた晴翔は笑っているけど、やっぱり晴翔らしくない笑顔に見えた。


「僕はもう大丈夫だけど、空咲君の方が顔色が悪く見えるよ。大丈夫?」


 立ち上がり晴翔の隣に立つ。

 頬に手を添えて親指をするりと滑らせた。その手で首筋に触れる。


「やけに体温が低いね。少し汗ばんでる。血圧、下がっていないか?」


 手首の脈を確認しようとした理玖の手を晴翔が掴んだ。

 その手は少し震えて、やはり汗ばんで感じる。


「体調が悪い? 無理しなくていいから、休んで構わないよ。隣の部屋のベッドは自由に使っていいから」


 理玖を見上げる晴翔の顔が、驚いている。

 驚いているし、戸惑って見える。


(前にも、こんなことあった。胸ポケットに入るくらいのリスのあみぐるみが欲しいと言われて、胸ポケットを覗き込んで)


 あの時は無意識で、不用意に近づきすぎた自分を後悔した。

 理玖は、晴翔を見詰めた。

 晴翔が目を逸らして理玖の手を強く握った。


「先生は、こんな風に他人に触れるの、好きじゃないと思ってました」


 俯いた晴翔の声が震えて聞こえる。


「誰にでもはしないよ。今は、空咲君の調子が悪そうで、心配だったから。フィジカルアセスメントは診察の基本だよ」

「本当に、それだけですか?」


 理玖の手を握る晴翔の手に力が入る。


「……それだけだよ」


 晴翔が黙り込む。

 しばらくじっとしていた晴翔が、理玖の手を離した。


「それじゃ、お言葉に甘えて少し休ませていただきます。今日は朝から軽く吐き気があって。寝不足かなって思うんですけどね」


 立ち上がった晴翔がいつものように笑む。

 隣の部屋のドアを開けた。


「調子が戻らなければ早退しなさい。診断書や必要書類は僕が書いてあげるから」


 晴翔の背中に声を投げる。


「ありがとうございます」


 振り返らずに、晴翔は隣の部屋に入っていった。

 晴翔が入っていったドアを、理玖は眺めていた。


(血圧低下、冷汗、嘔気、嘔吐、気分不快、頭痛、手足の震え。中枢神経系に作用する薬の副作用やショック症状。onlyやotherの抑制剤のオーバードーズでも出現する症状だ)


 弁当の窃盗事件があった日の理玖の記憶は曖昧だ。それは、非常に不自然な状況だ。

 記憶が曖昧になるほどの状態に陥る理由なんて、自分のフェロモンが暴走するかotherのフェロモンに煽られる状況以外に考えられない。


(晴翔君に抱き締められて、僕のフェロモンが大量放出された。僕はそれに飲まれた。だけど、飲まれたのは僕だけじゃなくて、晴翔君もだったら? 晴翔君のフェロモンに煽られて更に僕のフェロモンが放出されていたら、記憶が曖昧になる状況も頷ける)


 理玖の仮説は晴翔がotherであると結論付ける。


(僕の研究室に常駐になって、予防的に抑制剤をいつもより多く飲んで来たのなら、オーバードーズで体調を崩している今の晴翔君は納得できる)


 理玖は自分の手を眺めた。

 汗ばんで冷えていた晴翔の手の感触が、まだ残っている。


(彼がotherなら、僕を抱きしめた時、僕がonlyだと気が付いたはず。僕のフェロモンは日本で処方されている阻害薬や抑制剤じゃ、薬効がほとんどない)


 rulerである理玖のフェロモンは一般のonlyより強くotherに作用する。好意を抱いている晴翔相手なら、尚更だ。

 だからこそ、普段は当たらず触らずな人間関係で感情を一定に保つように気を付けている。晴翔に対しても、不用意に近寄らないよう、触れないように注意してきた。


(彼は事務員で、講師の僕の助手まで担うのは職務規定を超える仕事だ。拒否だってできたはずだ)


 それでも晴翔は理玖の研究室に来てくれた。


 抱きしめられた、あの日。ベッドで目を覚ました理玖の衣服は乱れていなかったし、体に異常もなかった。性交した後のような違和感はなかった。


(意識が飛んで僕を犯したって不思議じゃない状態だったに違いないのに。晴翔君は耐えて、僕を安静に寝かせて去って。今日は抑制剤をオーバードーズして自分が体調を崩して)


 どうして晴翔が理玖のためにそこまでしてくれるのか、わからない。

 わからないのに、理玖の中の想いが芽吹いてしまいそうになる。


(僕の仮説が正しくて、本当に晴翔君がotherだったら)


 理玖は静かに隣の部屋のドアに寄り添った。


「……君を、求めても、いいだろうか」


 ドア越しの晴翔には絶対に聴こえないような小さな声で、囁いた。

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