ベッドにぐったりと横たわった晴翔は、大きく息を吐いた。
(失敗した。初日だからって、気合入れ過ぎた)
これからは理玖と二人きりで一日中、同じ部屋で仕事をする。
理玖の強すぎるフェロモンに対抗すべく、阻害薬はギリギリの量を内服してきた。ピアスに仕込んである皮下注射の抑制剤も強めの処方を貰っている。
(軽くオーバードーズになってるんだ。しかも理玖さんに見破られた、多分)
講師とはいえ、理玖も医師なのだから、当然と言えば当然だが。
せめてSAフェロモン受容体阻害薬とPOEフェロモン抑制剤のオーバードーズだとバレていないことを祈るばかりだ。
(無理かな。きっと気が付くよな。記憶が曖昧なあの状況を不審に思わないわけない)
肩を抱き寄せただけで、理玖のフェロモンが強くなったのは、あの時、晴翔にもわかった。
自分のフェロモンに酔って蕩けた理玖の顔を見たら、抱き締めずにはいられなかった。晴翔のフェロモンに煽られて更に大量に理玖のフェロモンが放出されていた。そのせいで、理玖の記憶は曖昧なのだろう。
あの時の状況を冷静に振り返れば、理玖なら自分の記憶が曖昧な理由に辿り着く。今の晴翔の症状と結び付けて考えれば、答えは容易に導き出せる。
(俺がotherだって気が付いたら、理玖さんはきっと怖がる。傍にいられなくなる)
理玖の研究室への常駐を志願したのは晴翔自身だった。
犯罪者疑いのotherが学内にいるかもしれない状況で、理玖を狙って事件が起きた。たとえ軽微な犯罪だったとしても、後に大きな事件に繋がる可能性だってある。
今のうちに、打てる手は打っておきたかった。
(こんな危険な場所にいつまでも置いておくくらいなら、いっそウチに来てもらったら……)
晴翔が慶愛大学に就職したのも、理玖に近付いたのも、総てはそのためだ。
新規事業として立ち上げる研究所の所長誘致のための協業大学への潜伏転職だった。
晴翔の本来の肩書はSky総研副社長だ。副社長とは言っても父親である社長の補佐程度の立場だが。学長以外の大学関係者にも肩書は秘密にしている。
晴翔の潜伏転職は、向井理玖をヘッドハンティングするためのリサーチが目的だった。
(リサーチはもう充分だ。あとは理玖さんが望んでくれたら。問題は、どうやって切り出すかだけど)
ヘッドハンティングとはいえ、立場を偽り探るような関わり方をしてしまったから、切り出しづらい。
しかも真実を伝えるためには、もれなく晴翔がotherである事実を告げなければならない。
(気付かれてるだろうけど、どう考えても気付かれているだろうけど。まだ気付かれてない可能性もなくはないわけで)
自分の口から自分がotherだと面と向かって告げるのは、辛い。
社会的イメージのために犯罪者扱いされ差別されるotherは、onlyには特に怯えられる。本来、otherを求めているはずのonlyが、性犯罪においては一番の被害者なのだから。
(誰に差別されようと構わないけど、理玖さんが離れてしまうのは、嫌だ)
だから、自分がotherであると告げるのが怖かった。
Sky総研にWO特化の研究所を設ける提案をしたのは晴翔自身だ。WOが安心に便利に暮らせる社会を作りたくて、学生の頃から提起し続けた。研究所が開設すれば、晴翔は管理者として深く関与する。WOのための研究所で、所長候補の理玖相手に自身の第二の性を隠す真似はしたくない。
(でも、今はまだ、怖い)
理玖への気持ちが育ってしまった今は、言い出す勇気がない。
更に、躊躇う理由はもう一つある。
理玖がonlyでrulerである可能性を確認しなければならない。
それは社長である父親から出された、研究所開設のための最低限の条件だった。
向井理玖を所長として引き込むために、世間一般に第二の性を公表していない向井理玖の
(親父は、
研究所の所長に向井理玖を押した晴翔にリサーチを提起したのは、社長だ。医療業界に深く関わるSky総研だからこそ、WO界隈の噂には敏感になる。
WO関連の研究や事業に関わっていると、時々聞く有名な噂話がある。
『WO学術界の権威と呼ばれる向井理玖はonlyの中でも特別なruler、だからこそ天才足り得る。孤高の天才ぶって本当の性を誤魔化しているのはrulerが人間を狂わせる存在だから』
羨望と嫉妬が生み出した面白おかしい噂話。
きっと誰もが、その程度にしか思っていないだろう。
rulerという生態自体、国際WO連盟が認めない存在だ。WO研究が盛んな北欧ですら懐疑的な概念だ。WOの数も少なく研究も未発達な日本においては、都市伝説でしかない。
晴翔も、ただの妬みだろうと思っていた。
あのフェロモンに直に触れるまでは。
(onlyのフェロモンを感じた経験は何度もあるけど。あんなに強いのは、初めてだった)
自我が飛びそうになるほど濃くて香ばしく、甘い。思考を放り出して貪りたくなる衝動は、薬などでは抑え込めなかった。
フェロモンに飲まれてしまいそうになる。中毒になりたいと、本能が望む。衝動的に、あの体が、理玖が欲しくなる。あんな経験は初めてだ。
(俺の知ってるonlyのフェロモンじゃなかった。もっと特殊な、惹き付ける怖さがあった)
きっと理玖も自覚があるのだろう。
だからこそ、人との距離を一定以上に離して、その距離感を崩さない。今までも、自分がonlyでrulerだと勘付かれないように、ひた隠しに隠して生きてきたんだろう。
(世の中には、自分の性を公にして生きてるonlyやotherもいるけど、理玖さんはその辺、かなり繊細だ)
有名人や芸能人の中には第二の性を公表して飯のタネにしている人間もいる。
一般人は隠して生きている場合が多いが、理玖ほど神経質ではないと感じる。
(他の人より仲良くなったつもりだけど、やっぱりまだ、理玖さんが遠い)
本当はこの一年の間で理玖がrulerであると確認できれば、その時点で父親を説得するつもりだった。
出来なかったのは理玖に隙が無かったからだ。
rulerと確信した今は、安全性の点で父親を説得できない。
(俺は理玖さんの人柄を知ってる。不器用だけど、可愛くて優しい人だって、知ってる。でも、あのフェロモンが……。いっそ、俺の理玖さんにしてしまえたら……)
もし晴翔が理玖のspouseになれたら。理玖の安全性を証明できる。父親の懸念を払拭できる。otherの晴翔にしかできない解決策だ。
しかし、その為には、晴翔がotherであると告げる必要がある。
(傷付けたくない、守りたい。俺の理玖さん……。俺をspouseにして……)
枕に顔を埋めて、また深く息を吐いた。
「そういや考えてなかったけど、理玖さんはゲイかな……」
晴翔はゲイだ。とはいえ、公言している訳でもないが。
onlyには、ゲイやバイが比較的多い。onlyは男でも妊娠できるから、国も同性婚を認めている。だから、あまり考えていなかったが、性的嗜好は生まれ持った性とは、また別の問題だ。
一年間、観てきた感想としては、理玖はゲイだ。だが、確証はない。
「理玖さんとの間には、問題しかない……」
言葉にしたら、余計にへこんだ。
晴翔は、理玖の腕を掴み上げた自分の手を眺めた。
(理玖さんから触れてくれたの、初めてだ。フェロモン感じなかったけど、薬が効いてんのかな。それとも医者として触れただけだから、そういう時は放出しないのかな)
むしろ晴翔の方が興奮しそうだった。
だから咄嗟に理玖の腕を掴んでしまった。
(顔、に、手が触れて。指で撫でられて。首にも、理玖さんの指が……)
感触を思い返していたら、股間が反応した。
思わず自分に布団を被せた。
(嘘⁉ たったあれだけで俺、興奮しちゃってんの? 嬉しかったけど、でも!)
フェロモンのせいなのか、一年間の我慢のせいなのか、自分でもわからない。
「これじゃ、一日中、同じ部屋にいられねぇよ……」
未来に希望が見い出せなすぎて、へこむばかりだ。
「ダメだ、起きよう。仕事しよう」
ちょっと興奮したら元気になった気がする。
何回か深呼吸して、興奮を醒ます。晴翔は思い切って起き上がった。
ドアノブに手を掛けようとして、ドキリとした。
ドアが閉まり切らずに、薄く開いている。
第一研究棟は建物が古いから、リノベーションしたとはいえ古いまま使っているドアは建付けが悪い。締めたつもりが締まり切っていなかったらしい。
(ええ! 俺の独り言、聞こえてないよね)
何となく、隙間から室内を覗こうとして、晴翔は動きを止めた。
ドアの近くに気配を感じる気がする。
「……君を、求めても、いいだろうか」
吐息のような小さな声が聞こえた。
間違いなく理玖の声だ。
晴翔は固まった。
(誰に向けて、言ってる? 扉のこっち側には、俺しかいないのに。俺に、言ってくれてる?)
晴翔がotherだと気が付いた上で、だろうか。
normalだと思っての言葉だろうか。
(ヤバイ、どっちだろうと、嬉しい。理玖さんが俺を求めてくれるのが、めちゃくちゃ嬉しい)
すぐには動き出せなくて、晴翔はその場に蹲った。
速い鼓動と熱すぎる顔が戻るまで、晴翔はベッドにリターンした。