結局、昨日の晴翔は一時間も休まずに起きて仕事をこなし帰宅した。
本日も、いつものように朝から出勤している。
「休んでも良かったのに。医療機関を受診しなくて良かったの?」
PC作業の傍らで声を掛ける。
同じようにPCに向かって作業しながら晴翔が返事した。
「只の寝不足なので、平気です。ご心配おかけしました」
仕事する横顔は昨日より血色が良さそうだ。
とりあえず、理玖は安堵した。
「保健室経由で処方を出してあげられるから、辛いときは僕に相談するんだよ」
何となく、大学内で他の医者に晴翔を診せるのも気分が悪い。
一緒にいる理玖が一番よくわかっている、と思いたい。
「はい、その時は、よろしくお願いします」
晴翔が振り返り、良い笑顔を向けた。
理玖が好きなイケメン王子様スマイルだ。その顔で素直な言葉を言われると、何も言えない。
(いつものキラキラが戻ってきてるし、大丈夫かな。冷汗もチアノーゼもなさそう)
遠巻きに見てわかる範囲の診察をして、理玖はまた自分の作業に戻った。
しばらく無言で仕事していると、研究室の扉がノックされた。
理玖は顔を顰めた。このノックの仕方は、折笠だ。
「はい、今開けます」
理玖の研究室は件以来、在室中も施錠している。
晴翔が扉を開けると、案の定、折笠の姿が見えた。
「やぁ、向井君。色々大変だったみたいだけど、元気そうだね」
部屋に入ってきた折笠が意味深な言い回しをする。
(弁当窃盗の話かな。何を何処で誰に聞いたのやら)
色んな伝手を持っている折笠だから、不思議でもない。スルーすることにして、理玖は椅子から立ち上がって礼をした。
折笠の後ろにもう一人、男がいる。
(例の助手とかいう奴か。なんか、チャラいな)
年の頃、三十は有に超えているだろうが。やけにオレンジ色の長い髪と着慣れない感じの白衣姿が浮いて見える。
地味で若い男が好きな折笠にしては珍しいチョイスだと思った。
晴翔がさりげなく理玖の後ろ隣に並んだ。
「遅くなったけど、挨拶をと思ってね。俺の助手に入った佐藤
名前を聞いて、理玖の心臓が下がった。
佐藤が理玖に向かって軽く会釈した。理玖に向いた目が歪に笑んだ。
その目に、一瞬、ぞわりとした。古い記憶がフラッシュバックする。
(よくある名前だ。歳だって、きっと彼の方が若い。他人の空似だ)
佐藤を見詰めて固まっている理玖を、晴翔が覗きこむ。
晴翔の視線で、我に返った。
「よろしくお願いします。直接的な関わりは、あまりないと思いますが」
佐藤に握手を求められ、一瞬、躊躇した。
手を下げてくれないので、理玖は仕方なく手を出して、佐藤の指先だけを軽く握った。
「佐藤です、よろしく~。前は、地方の研究所でWOの生体検査とかしてたんで。向井センセの研究にも、ちょっとは役に立てるかなぁと思いますけど」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、握った手を振る。
軽薄な言葉や軽い話し方、何かを含んだ笑み。どれをとっても気持ちが悪い。
離そうとした理玖の手を佐藤が強く引いた。
理玖の体が前に傾く。佐藤が理玖に耳を寄せた。
「色んな意味でデッカクなったねぇ、向井くん。十四年も経ったもんね、当然だよな。教え子が有名になって、嬉しいなぁ。つーか俺、誰かさんのせーで三年しか教員、やってないけど」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
鼓動が少しずつ早くなる。血の気が下がって、目の前がグラついた。
佐藤が手を離す。理玖の体が、くらりと傾いた。
「向井先生?」
晴翔が咄嗟に支えてくれた。その腕に凭れるように立った。
「大丈夫? 気分が悪いのかい? タイミングが悪くて、すまなかったね」
折笠が珍しく殊勝な言葉を吐いている。
余裕の笑みが、理玖を見下していた。
(もしかして、中学の時のレイプ事件を、折笠先生は知ってるのか。佐藤に話を聞いてるのか)
折笠の表情は、優越感が滲んで見える。
「調子悪いんじゃねぇの? 帰りましょっか、折笠先生。慌てなくても、これから絡む機会、増えるっしょ」
理玖を眺める佐藤の目が歪に笑んだ。
「ああ、そうだね。それじゃ、向井君。お大事に」
意味深な言葉を残して、二人があっさりと部屋を出ていった。
理玖を椅子に座らせて、晴翔が部屋に鍵をかけた。
「先生、大丈夫ですか。顔が真っ青です。体も震えているし……」
理玖は無意識に晴翔の腕を掴んでいた。
「あの男は、嫌だ。怖い……」
自分の声とは思えないくらい震えた声が出た。
晴翔が理玖の体を抱き包んだ。
「俺がいます。大丈夫。先生に何もさせません」
晴翔がゆっくり背中を撫でてくれて、気持ちが少しずつ落ち着いてきた。
(あれ……、こんなに晴翔君に触れられてるのに、平気だ。晴翔君も、発情してない)
自分も意識を保っているし、晴翔も辛そうじゃない。
理玖は晴翔の胸に、すりっと頬擦りして顔を寄せた。
「横になりますか? ベッドまで運びますよ」
「うん……」
小さく返事をすると、晴翔が理玖を抱きかかえた。
(僕は何回、晴翔君に御姫様抱っこされているんだろう)
抱き上げてもらうたびに晴翔を好きになっていく気がする。
隣の部屋のベッドに理玖を降ろすと、晴翔が布団を掛けてくれた。
「今日は講義がない日だから、辛いようなら早退しましょう。帰るのが大変なら家まで送りますから」
「うん……」
「今は、ゆっくり休んでください」
離れていきそうになる晴翔のシャツを掴んで引いた。
「少しの間でいいから、ここにいて。僕に触れていて」
一人になるのが心細くて、思わず晴翔を引き留めた。
振り返った晴翔が息を飲んだ気配がした。
理玖の頬に手を置いて、晴翔の指が優しく撫でる。とても気持ちが良くて、理玖は晴翔の手に手を重ねた。
「晴翔君の手は、気持ちがいいね……」
フワフワした気持ちになって、晴翔の指を甘く食む。
晴翔の指が大袈裟にびくりと跳ねた。
「……そういうこと、すると、勘違いしますよ」
何のことかと顔を上げたら、晴翔の顔が間近にあった。
晴翔の柔らかくて熱い唇が、額に押し付けられた。
「俺に理性があるうちに、寝てください。じゃないと、喰いますよ」
理玖の目を手で遮る。目の前が暗くなって、理玖は目を瞑った。
「ん……、わかった。食べても、いいよ」
フワフワして気持ちが良くて、握った手もくれた唇も温かくて、眠気が襲う。
晴翔の手を握ったまま、理玖はゆっくりと眠りに落ちた。
「……理玖さんのそういうとこ、いつも狡い。ちゃんと好きって伝えてからじゃなきゃ、食べませんよ」
晴翔の指が理玖の唇をなぞっている。
とても嬉しい言葉が聞こえた気がしたのに、眠気の方が強くて聞き返せなかった。