気付けば、紅の屋敷に来て二週間が過ぎていた。
今夜はニコが紅に呼ばれて、添い寝していた。
蒼は、久々に芯と枕を並べて寝た。
「多分、朝には溶けてると思うぜ、ニコ。羨ましいなぁ。俺も早く紅様の中に溶けてぇな」
夢心地に話す芯に、返事ができなかった。
紅に芯の事情を聴いてから、逃がしてほしいとも術を弱めてほしいとも言えなくなった。
術を弱めれば病で苦しい思いをするか、屋敷から抜け出して危ない目に遭うかの二択だ。
だったら、このまま夢の中で気持ち良く酔っていた方がいいだろうと思った。
(本当はどうするのがいいかなんて、わからない。自分の状況を知ったら、正気の芯はどんな選択をしたかな)
考えてもわからない。
今更、芯本人に伝える訳にもいかない。
(保輔なら、どうしたかな。正気の芯に事実を伝えたかな。このまま夢心地にしたかな)
きっと保輔みたいな人なら、正しい選択ができるんだろう。
蒼には正解が、わからなかった。
次の日の朝。
起きると、紅が一人、庭でシャボン玉を吹いていた。
ニコが溶けたんだと思った。
「おはようございます、紅様」
声をかけると、ちょっとぼんやりした目で紅が笑んだ。
「おはよう、蒼」
いつもなら先に気が付いて声をかけてくれる。
ニコが溶けたのが、悲しかったのかもしれない。
色の時も、悲し気な表情をしていた。
(優しいというより、お人好しだ。わざわざ死期が近い子供を金を出して買い取って、気持ち良くして逝かせてやって、自分はしっかり悲しくなって辛い思いをするなんて)
本当に馬鹿なんじゃないかと思う。
自分でもよくわからない怒りが蒼の中に湧き上がった。
蒼は、シャボン玉の液を持つ紅の手を握った。
「僕も、シャボン玉、吹きたいです。やらせてください」
見上げる蒼の顔を眺めて、紅がストローを手渡した。
「いいよ。一つしかないから、蒼がシャボン玉を吹いて。俺は紙風船を飛ばすから」
頷いて、ストローに石鹸液を付ける。
いっぱい吹けるようにたくさん付けた。
強く吹くと、シャボン玉は一つも出なかった。
「もしかして、シャボン玉、初めて?」
「聞いたことしかないです。実際やるのは、初めてです」
紅が蒼の手を掴んで、ストローに石鹸液を馴染ませた。
「付け過ぎてもシャボン玉、膨らまないんだよ。少なくてもダメ。これくらいかな」
ストローを蒼の口元に持っていく。
「強く吹くとシャボンになる前に弾けちゃうから、優しく、そぉっと息を吹くんだ。やってごらん」
言われた通り、そっと息を吹き込む。
シャボンがゆっくり大きくなって、ストローの口から離れた。
「できた! できました!」
年甲斐もなく燥いでしまい、恥ずかしくなる。
そんな蒼の頭を、紅が慈しむように撫でた。
「シャボン玉、沢山作ってね。紙風船と一緒に飛ばすから」
「はい!」
気合の入った返事をして、慎重にシャボン玉を吹く。
紅が、クスリと笑った。
「蒼は根が真面目な子なんだね。何でも一生懸命で、可愛いよ」
真面目という自覚はないが、つい夢中になる癖は、あるのかもしれない。
理研にいた頃も、本棚の少ない本を読みつくして三周くらい同じ本を読んでいた。
(良かった。紅様、笑ってくれた。少しは辛い気持ち、紛れたかな)
段々、慣れてきて、沢山のシャボン玉を飛ばせるようになってきた。
空にシャボン玉が増えたタイミングで、紅が紙風船を膨らませた。
息を吹き込み、ニコの魂の一部を包んで大きく張った風船が空に舞い上がる。
シャボン玉と一緒に登っていく紙風船は、綺麗だった。
「いつもは一人でしてるんだ。術を掛けてる子には見せないようにしてるから」
どうして、と聞こうとして、言葉を飲み込んだ。
(シャボン玉と紙風船を飛ばしている理由を聞かれたら、紅様はきっと正直に教えるんだろうな。けど本音は、話したくないんだ)
妖術で心をかどわかしていると、かどわかした相手に伝えてしまうような妖狐だ。
理由なんか聞かれても答えなければいいのに、紅にはそれができないんだろう。
何より、一人で静かに見送りたいのだろうとも、思った。
「蒼がいてくれて良かったよ。色とニコも、きっと喜んでるよ」
色が喜んでいたかはわからないが、ニコとはそれなりに話した。
(あやとりしたり、鞠で遊んだり、一緒にお風呂に入ったりも、したから)
顔を知っている仲間がいつの間にがいなくなるなんて、理研ではよくあった。
事情がどうであれ、理研においては、いなくなった時点で大概は死亡している。
そういう別れなら、何度も経験してきた。
(慣れてるはずなのにな)
一緒にご飯を食べて、風呂に入って、眠る。
理研と同じはずなのに。どうしてこんなにも、胸が苦しいのだろう。
蒼は空に昇っていく紙風船を見詰めたまま紅に寄り添った。
そっと、大きな手を握る。温もりに安堵した。
「蒼の手は温かいね。握ってくれると、安心するよ」
紅が蒼の手を握り返した。
その横顔を見上げる。
紙風船から目を離さない紅の目は、いつもより暗く見えた。
「僕はニコと色を紅様より知りません。だから、紅様が悲しくないといいって、思います」
蒼が手を握って、紅の悲しみが少しでも癒されてくれたらいい。
「蒼がいてくれたら、悲しくないよ」
そう話す紅の声は沈んで聞こえる。
優しい妖狐は、蒼が思うよりもずっと人間が好きで、もしかしたら守りたいと思ってくれているのかもしれない。
何となく、そんな風に思った。