紅の屋敷に来て、一カ月が過ぎていた。
色もニコも芯もいなくなった屋敷には、紅と蒼だけが住んでいる。
二人で暮らすには広すぎる屋敷だが、この生活にも少しずつ慣れてきた。
蒼には、以前から不思議に思っていることがあった。
「この家の家事って、誰かやってるんだろう」
部屋に入れば準備されている食事も、いつも綺麗に整えてある着物も、ふかふかの布団も、誰がやってくれているのだろう。
(屋敷の中には紅様の気配しかないし、それらしい妖怪や人間の姿も見ない)
霊元が開いてから、気配で相手がわかるようになった。
人間か妖怪かは勿論、会った相手なら妖気や霊気で識別できる。
「霊力ってすごいな。本当に魔法みたいだ」
芯の言葉を思い出して、クスリと笑んだ。
蒼は自分の部屋から外を眺めた。
瑞穂国に来てから晴れた日しか知らない。
陽射しの暖かさも風の心地よさも土の匂いも、今なら感じられる。
(きっと紅様のお陰だ)
霊力とか魔法ではなくて、紅が愛してくれるから。
命と生活の保障があって、愛してくれる人がいる。
蒼の心が満たされて豊かでいられるのは全部、紅のお陰だ。
(餌として売られたのに、こんな生活が送れるなんて、思ってなかった)
一カ月前の自分に今の話をしても、きっと信じないだろう。
何だか不思議な気分だった。
「そろそろ昼餉の時間かな」
紅は蒼と同じ食事をしない。
時々には食べたりもするが、真似事らしい。
基本は蒼が食事している姿を見て楽しんでいる。
ちゃんと食事をしないと心配するから、決まった時間になったら食事処に行くようにしている。
いつもなら屋内の廊下を歩くのだが、今日は風が心地よいから縁側を通った。
客間に続く縁側の辺りに、誰かいる。
蒼の足が止まった。
真っ黒な髪と黒い着物。
耳と尻尾があるように見える。
(黒い妖狐かな。紅様と気配が近い。でも、嫌な感じじゃない)
蛇々のような濁った気配はしない。
黒い妖狐が振り返った。
蒼の姿を見付けて、目を止めた。
整った綺麗な顔は雄みを帯びて、線が細い印象の紅とは対照的に映った。
(瞳の色も、黒いんだ。紅様とは違うけど、宝石みたいで綺麗だな)
数秒、見詰め合う形になってしまった。
(あ、挨拶! 挨拶しないと!)
曲がりなりにも紅の番候補が、他の妖怪に不躾な態度をとる訳にはいかない。
蒼は小走りに近寄って、隣に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。今、紅様を御呼びしますので、お待ちください」
立ち上がろうとした蒼を、黒い妖狐が引き留めた。
「お前、名は?」
聞かれて愕然とした。
(そうだった! 自分の名前を名乗るの、忘れてた!)
紅の所に来るまで、個体識別番号しか持っていなかった蒼には、名前を名乗る習慣がない。
番号を確認されて頷く程度だった。
「蒼、と申します。名乗るのが遅れまして、すみません」
ぺこりと頭を下げる。
上げた頭を、大きな手が撫でた。
「ふぅん、お前が蒼か。可愛らしいガキだなぁ。如何にも、紅が好みそうだ」
健康的な肌色をした黒い妖狐が、にっかりと笑った。
「僕を、知ってるんですか?」
「あぁ、知ってるよ。紅が番にするかもしれねぇ人間だろ。俺ぁ、その為に来たんだからなぁ」
紅が蒼の話を方々でしているとは考え難い。
蛇々にバレた時も困っていたし、あの手の妖怪を警戒しているなら秘密にしているだろう。
(それでも話す相手って、もしかして、例の王様?)
瑞穂国の統治者の友人に蛇々の襲撃対策を相談すると話していた。
「あの、黒曜様、ですか?」
おずおずと聞いてみた。
「よくわかったなぁ。紅に聞いたのか?」
蒼は小さく頷いた。
「この国の王様……みたいな方だと、聞いてます」
「王様?」
繰り返して、きょとんとした黒曜が、豪快に笑った。
「王様かよ。なんつー教え方してんだ、アイツ。真に受けんなよ、蒼。皆がやりたくねぇ仕事、押し付けられてるだけだからよ」
楽しそうにカラカラ笑いながら注意されて、蒼は慌てた。
「いえ、あの。王様って勝手に思ったのは僕で、紅様はちょっと違うって。えっと、統治者って言い方をしていたと思います。すみません」
笑いを収めた黒曜が、慌てる蒼を興味深げに眺めた。
「謝る必要はねぇよ、面白かっただけだ。肩書なんざ、なんだって良いのさ。黒曜っていやぁ何やってる奴か、この国の民なら皆、わかる。人の世ほど小難しくはねぇのさ」
黒曜の説明が、蒼には不思議に聞こえた。
「黒曜様は、現世に御詳しいのですか?」
紅もそうだが、現世の人間の事情を良く知って、理解しているように感じる。
黒曜は統治者だからかもしれないし、紅は人を買うために繋がりがあるからなのかもしれないが。
「瑞穂国の妖怪は、ほとんどが元は現世に住んでいた奴らだ。俺も紅も、現世に長く住んでいたからな。そもそもがこの幽世は妖怪のために現世の人間が作った場所だ。繋がりは他の幽世より、深ぇのよ」
前に紅も、そんなような説明をしてくれた。
瑞穂国には、現世の文化も多く流れている。着物や日本家屋は、きっとその名残なんだろう。
(繋がりは深いのに、人間の価値は恐ろしく低い。やっぱり瑞穂国の妖怪は人間が嫌いなのかな)
現世で痛い目に遭って幽世に来た妖怪が多いから、と紅は話していた。
「あの、僕は、人間で……、価値のある存在ではないのですが、紅様の番になっても、良いんでしょうか。紅様がこの国で、悪い立場になったり、嫌われたり、しないでしょうか」
自分のせいで紅に悪い影響が出るのは、絶対に嫌だ。
大きな手が蒼の頭に乗った。
むんずと摑まえられて、顔を上向かされた。
「お前ぇは自分に価値がねぇと思うのか? 自分の存在が紅に悪影響だと?」
ぐっと黒曜の顔が近付く。
迫力があり過ぎて、怖い。
逃げたいのに、頭を掴まれて逃げられない。
「く、紅様にとっては、良いのかもしれないけど、その、この国では、どうなのかなって、思って」
怖いし焦り過ぎて、思ったように言葉が出ない。
「お前ぇの本音は、どうなんだよ。餌よりマシだから番になりてぇのか? この国で生きるために番の地位が欲しいか? 喰われたり奴隷になるより、ずっといいもんなぁ」
蒼の頭を掴まえた手に引っ張られて、体が前のめりになった。
「僕は、違う。そういうんじゃ、なくて」
間近に迫る黒曜が蒼を睨みつける。
とても平常心で話せる距離感と状況じゃない。
「紅様が大好きで、一緒の幸せを探すために、番になりたいです!」
芯と交わした約束を、大好きな紅と見付ける。
今の蒼にとっては生きる目標になっていた。
黒曜の手が、蒼の頭から離れた。
半分浮いていた体が、黒曜の前に落ちた。
「いいじゃねぇか、それ」
見上げると、黒曜が不敵に笑んでいた。
「確かに、この国において人間の命に価値はねぇ。だが、全員じゃねぇ。人を番にしている妖怪も多くいる。価値が付く人間もいるってこった」
「番になれば、価値が、上がるんですか?」
「そうじゃぁねぇよ。価値があるから番になれるんだ」
黒曜の言葉の意味が、いまいちわからない。
(霊元がある人間は価値があるって意味なのかな)
黒曜が、じっと蒼を眺めている。
「お前ぇは自分の価値に気が付いていなそうだなぁ。紅も教えてやらねぇのか」
ぶつぶつと言いながら、黒曜の手が蒼の顎に伸びた。
くいと上向かされて、黒曜の顔が近付く。
「ちぃっと、味見だ」
唇が重なって、吸い上げられた。
霊力が流れていくのがわかる。
「ふ……、んぅ……」
霊力を吸い上げるのに絡まる舌が、やけに気持ち良くて声が漏れた。
「流石に、美味いな」
うっすら目を開くと、黒曜の目が蕩けて見える。
まるで蒼の霊力に酔っている時の紅のようだった。
「黒曜!」
声と同時に、黒曜の顔が後ろに下がった。
いつの間にかやってきた紅が引っ張ったらしい。
そのまま勢いよく頬を殴った。
(ぅわっ、グーで殴った……)
紅が誰かに攻撃している姿を初めて見た。
蛇々ですら、威嚇しただけだったのに。
「蒼、大丈夫? 何されたの?」
必死の形相で、紅が蒼の顔を両手で包んだ。
「ちょっと、味見って……」
顔を引き攣らせた紅が蒼の唇に噛み付いた。
「紅さ、ま……ふぁ……、ん、んぁ……」
黒曜より深く舌が入り込んで、蒼の口内を舐め回す。
唇を丁寧に吸って、顔を離した。
後ろに座り込む黒曜を振り返って睨みつけた。
「次、やったらお前でも殺すぞ」
蒼からは紅の背中と頭の後ろしか見えないが、殺気は充分伝わった。
「だから、只の味見だろぉ。まだ番じゃねぇんだし、いいじゃねぇか」
黒曜の言葉には答えずに、紅が蒼に向き直った。
「蒼も、されるがままになっちゃダメでしょ。ちゃんと抗って」
抗え、と言われても、ちょっと困る。
黒曜はきっと大妖怪で、蒼が勝てるような相手ではなさそうだ。
「でも、紅様の御友人なんですよね?」
友人で統治者なら、蛇々のように本気で命まで取る訳ではないだろう。
(味見くらいなら別に、良い気がするけど)
どうやら、ダメらしい。
目の前の紅は、初めて見る勢いで殺気立っている。
「俺の友達だったら、味見させていいの? じゃぁ、蒼は、友達の番とまぐわって食事……」
紅が言葉を止めて考え込んだ。
「現世だとなんていうのかな、こういうの。んー……、友達の、恋人とキスしたり、セックスしたりするの? 友達の恋人の精液、飲んだりするの?」
蒼の肩をガクガク揺らしながら、紅が怒っている。
中々にパンチのきいた表現が飛び出して、流石の蒼でも紅の心情が理解できた。
(つまり、味見じゃなくて、キスした方を怒ってるのかな?)
蒼が黒曜とキスしたことや、気軽にそういう行為を受け入れてしまった行動の方を怒っているようだ。
(もしかして、嫉妬、とか? え? どうしよう、ちょっと、嬉しい、かも)
紅が蒼に独占欲を顕わにしてくれたのは、初めてな気がする。
叱られえているのに、胸が甘く締まって、紅が愛おしくなる。
蒼は紅に腕を伸ばして抱き付いた。
「紅様、ごめんなさい。もう絶対にしません。紅様を悲しませるような行為はしません」
抱き付いたまま、紅を見上げた。
「怒ってくれて、嬉しかったです。僕を自分のモノだと思ってくれて、嬉しいです」
叱られているのに、微笑んでしまった。
紅の動きが止まる。
見下ろす顔が見る間に赤くなって、蒼を抱き返した。
「そんな風に可愛いコト、言っても、ちゃんと怒るからね……」
言葉とは裏腹に声が弱々しい。
蒼を抱く腕も頭を撫でてくれる手も、いつもより優しかった。