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第16話

 早速、「四辻に行ってくる」と律儀に言い出した籠澤に、「じゃあ俺も」と長尾もついてきた。

 八千代が供花に来る前に、あの四辻を『清浄化』しておきたい気持ちがある。

 太家の家を出た二人は、その足で四辻の最寄り駅へ向かう電車に乗り込んだ。

 休日、昼前の車内は空いており、二人並んで座れるスペースを探すのに困ることはなかった。

 窓から日が差し込む方とは逆の座席に腰掛けた。遠慮がちに陽の光が靴先に触れている。


「そういえば」


 子どもの頃に比べれば、格段に振動が静かになった車内で、長尾はふと口を開いた。


「『昇』さんの変質については、結局聞きそびれてしまってたな」


 遭遇するたびに姿が変わっていった『昇』。

 梓葉になぜそうなっていったのかを聞きたかったのだが、先ほど彼女に尋ねたのは脅威の方に重きを置いてしまった。

 あれが『昇』自身ではなく、彼が焼き付けていった感情や意志だったとしても、それが変容するのはなぜなのか。

 長尾の問いに、籠澤も顎に手を当てながら考えていた。


「梓葉は、擦り切れていくビデオテープ、て言ってたよな」


 思案していた籠澤が、静かに応えた。


「昇さんの想いが繰り返されることで摩耗していって、一番強い部分が露出していった過程─── とか」


 あの、人の形にすらなれない影が?


 バンッ、と突然向かいの窓が大きな影に叩かれた。すれ違いの列車が通ったのだ。

 影になった窓が薄い鏡となって、座る二人を映した。

 長尾は普段の強面を大きく崩して驚愕していたが、それが突然の物音と衝撃のためだったのか、に対してだったのか、自分でも分からなかった。

 いや、籠澤は変わっていった『昇』を見ていないから、冷静に言えるのだ。

 批判ではなく、冷静な目を持つ人間がいることを安心材料として、長尾はそう思うことにした。


 やがて二人の乗っていた車両は目的の駅に着いた。

 改札を出た先の構内には、小さな本屋が入っている。通勤や通学の人たちが利用していくのだろう。

 軒先近くには週刊誌が平置きに並べられ、奥行きの浅い店内に数人の客が見えた。

 熱心に雑誌や文庫を読んでいる。長い立ち読みを真面目な長尾は推奨はしないが、彼らのその眼差しは目の前に並んだ文字列から、何かを掴もうとしているように見えた。


「長尾」


 足を止めてしまっていたらしい。行く先から籠澤が怪訝な顔をして呼んでいる。


「何か買うものあったか」

「いや、大丈夫だ」


 彼がこちらへ踵を返しかけたので、長尾は足早に籠澤のもとへ向かった。

 駅前の雑多な通りを抜けると、四辻までの道のりはひたすら住宅街の中を通る。

 昼ごはんの準備をしているらしい微かな音と香りが、穏やかな路地を包んでいた。

 つい先日味わった恐怖が嘘のような道だ。思えばこの道を陽が高いうちに通るのは初めてではないだろうか。

 その感覚は籠澤も同じだったようで、まるで初めて通る道のように辺りを見回していた。


「ずいぶん印象が違うもんだ」

「太陽の光って大事だな」


 などと他愛のないことを話していると、やがてあの四辻が見えてきた。

 二人が驚いたのは、そこに枯れかかった花が置かれていたことだ。仰々しいものではなく、数本の菊を束ねた控えめなものだったが。


「いつからあったんだろう。しずちゃんではないし」

「一昨日の夜に来たときには無かった気がするが……」


 そうなると、昨日のうちに置かれたことになる。

 だが、花の様子はほとんど乾いていて、数日経過しているようにも見えた。


「…… 家にあった仏花を、急遽持ってきた、みたいな」


 かなり強引な推測を籠澤は持ち出した。そうでも思わないと、たった一日で花が枯れたことになってしまう。


「いずれにしても、きっと誰かが『昇』さんを見たのかもしれないな」


 長尾の呟きに、籠澤も噛み締めるようにゆっくりと頷いた。

 危惧していたことが起こりつつある。梓葉は直接の危害はないと言っていたが、恐ろしいものを見れば誰だってストレスにもなるし、最悪トラウマになりかねない。


「影響が大きくなる前に、解消できればいいが」


 そう言いながら、籠澤は四辻の先を見た。いつも『昇』が走って来る方向だ。

 八千代の友人にしろ、これまで遭遇してきた時間にしろ、一定した時間ではなかった。つまり、見えないだけでずっと現象は繰り返されているのだろう。


「昇さんは、本当にしずちゃんを大事に想っていたんだな」


 ふと籠澤が呟いた。

 変容した『昇』を見ていた長尾は、その言葉に素直に頷けないでいた。人を大事に想う形には、到底見えないのだ。

 無言の長尾を見て、籠澤は小さく笑った。苦笑のようだった。


「相当なんだな。

 そんな悍ましいものを焼き付けていくくらい、ストーカーに対して憎悪を持っていたんだ。

 しずちゃんへの想いの反転だ。

 人って、何を残していくか分からないもんだ」


 できれば彼女に、優しい形を残していってほしかったな、と籠澤は言う。

 それを聞いて、長尾は「ああ」と腹に落ちたのだ。

 優しい人が、優しいものを残していくとは限らない。


 不意に、日の差した道が陰ったような気がした。

 長尾は空を仰いだが、雲一つない晴天である。陰るようなものはない。

 だが、確かに目の前の景色に薄いグレーのフィルターが掛かったような、の帳があるのだ。

 まだ明るいからと、油断していた自分に気付く。

 籠澤に声をかけようとしたのだが、先に彼の方が口を開いた。


「俺は何を残していくんだろう。

 何かを残せるのかな」


 籠澤のその呟きは、自分に問われたものではないと長尾は感じた。

 自分に宿っているものの力で、これからここに焦げついたを消そうとしているのだ。

 そんな自分が、焼き付けてでも残したいものがあっても、残すことができるのだろうか。


「─── さっき本屋で立ち読みしてた人がいたんだが」


 異様な気配が辺りを包んでいると長尾は感じていた。しかし、最初に切り出そうとした事とはまったく別の話を、籠澤へ切り出していた。

 この気配を感じていないだろう籠澤は、長尾を振り返りじっと彼を見た。


「本って、結局その人の一面しか切り取ってないと思うんだ。

 よく作者と作品は別というのは聞くし、でも相当のファンでもない限り、作者の人となりを知ろうとは思わないだろ。

 それでも、ずっと胸に残る作品がある」


 そう言いながら、長尾は自分の中に、記憶や感性に焼き付いた物語を探した。それは小さな灯となって、長尾が決断に迷ったときや打ちのめされたときにしるべとなってきてくれたものもある。


「もしも、この四辻にあるものが人ではなく、その人の一部を切り取って焦げついたものなら、手に取った本だって同じようなもんじゃないか。

 それが本の形をしていなくても、きっと。

 そうならば、仮に籠澤の何かを場に残せなかったとしても、これから籠澤の言葉に触れた誰かの中には、焼き付くものがあるかもしれない」


 それは小さな火種かもしれないが、しかし。


 振り向いている籠澤の向こうの景色が、陽炎のように揺れた。視認した途端、長尾の背筋が張り詰める。

 衝撃波のような憎悪が、長尾の全身を一気に浸食して走り抜ける。

 恐怖に脳のすべてが持ってかれ、声が出るかと思った。

 それに耐えられたのは、彼の言葉を聞いて笑った籠澤がいたからだ。


「面白い話だな、それ。本、言葉、か。

 そう思うと、案外カジュアルに俺たちは幽霊を見ているのかもな」


 はは、と軽く笑う彼の向こう。

 陽炎を突き破り、のたくった二足歩行とも四足歩行ともつかない黒い影が、物凄い勢いで走ってくるのが見えた。


「ありがとうな、長尾」


 不安になっていた自分を励ました長尾へ、籠澤は笑って礼を告げる。

 影が、すぐそこに───



 長尾は籠澤に笑い返した。

 仮に自分に籠澤の加護がなかったとしても、きっと自分は笑って応えたと長尾は思っている。

 少なくとも自分の中に一つ、焦げついたものがあると分かっていた。




(やがて焦げつく 了)


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