早速、「四辻に行ってくる」と律儀に言い出した籠澤に、「じゃあ俺も」と長尾もついてきた。
八千代が供花に来る前に、あの四辻を『清浄化』しておきたい気持ちがある。
太家の家を出た二人は、その足で四辻の最寄り駅へ向かう電車に乗り込んだ。
休日、昼前の車内は空いており、二人並んで座れるスペースを探すのに困ることはなかった。
窓から日が差し込む方とは逆の座席に腰掛けた。遠慮がちに陽の光が靴先に触れている。
「そういえば」
子どもの頃に比べれば、格段に振動が静かになった車内で、長尾はふと口を開いた。
「『昇』さんの変質については、結局聞きそびれてしまってたな」
遭遇するたびに姿が変わっていった『昇』。
梓葉になぜそうなっていったのかを聞きたかったのだが、先ほど彼女に尋ねたのは脅威の方に重きを置いてしまった。
あれが『昇』自身ではなく、彼が焼き付けていった感情や意志だったとしても、それが変容するのはなぜなのか。
長尾の問いに、籠澤も顎に手を当てながら考えていた。
「梓葉は、擦り切れていくビデオテープ、て言ってたよな」
思案していた籠澤が、静かに応えた。
「昇さんの想いが繰り返されることで摩耗していって、一番強い部分が露出していった過程─── とか」
あの、人の形にすらなれない影が?
バンッ、と突然向かいの窓が大きな影に叩かれた。すれ違いの列車が通ったのだ。
影になった窓が薄い鏡となって、座る二人を映した。
長尾は普段の強面を大きく崩して驚愕していたが、それが突然の物音と衝撃のためだったのか、
いや、籠澤は変わっていった『昇』を見ていないから、冷静に言えるのだ。
批判ではなく、冷静な目を持つ人間がいることを安心材料として、長尾はそう思うことにした。
やがて二人の乗っていた車両は目的の駅に着いた。
改札を出た先の構内には、小さな本屋が入っている。通勤や通学の人たちが利用していくのだろう。
軒先近くには週刊誌が平置きに並べられ、奥行きの浅い店内に数人の客が見えた。
熱心に雑誌や文庫を読んでいる。長い立ち読みを真面目な長尾は推奨はしないが、彼らのその眼差しは目の前に並んだ文字列から、何かを掴もうとしているように見えた。
「長尾」
足を止めてしまっていたらしい。行く先から籠澤が怪訝な顔をして呼んでいる。
「何か買うものあったか」
「いや、大丈夫だ」
彼がこちらへ踵を返しかけたので、長尾は足早に籠澤のもとへ向かった。
駅前の雑多な通りを抜けると、四辻までの道のりはひたすら住宅街の中を通る。
昼ごはんの準備をしているらしい微かな音と香りが、穏やかな路地を包んでいた。
つい先日味わった恐怖が嘘のような道だ。思えばこの道を陽が高いうちに通るのは初めてではないだろうか。
その感覚は籠澤も同じだったようで、まるで初めて通る道のように辺りを見回していた。
「ずいぶん印象が違うもんだ」
「太陽の光って大事だな」
などと他愛のないことを話していると、やがてあの四辻が見えてきた。
二人が驚いたのは、そこに枯れかかった花が置かれていたことだ。仰々しいものではなく、数本の菊を束ねた控えめなものだったが。
「いつからあったんだろう。しずちゃんではないし」
「一昨日の夜に来たときには無かった気がするが……」
そうなると、昨日のうちに置かれたことになる。
だが、花の様子はほとんど乾いていて、数日経過しているようにも見えた。
「…… 家にあった仏花を、急遽持ってきた、みたいな」
かなり強引な推測を籠澤は持ち出した。そうでも思わないと、たった一日で花が枯れたことになってしまう。
「いずれにしても、きっと誰かが『昇』さんを見たのかもしれないな」
長尾の呟きに、籠澤も噛み締めるようにゆっくりと頷いた。
危惧していたことが起こりつつある。梓葉は直接の危害はないと言っていたが、恐ろしいものを見れば誰だってストレスにもなるし、最悪トラウマになりかねない。
「影響が大きくなる前に、解消できればいいが」
そう言いながら、籠澤は四辻の先を見た。いつも『昇』が走って来る方向だ。
八千代の友人にしろ、これまで遭遇してきた時間にしろ、一定した時間ではなかった。つまり、見えないだけでずっと現象は繰り返されているのだろう。
「昇さんは、本当にしずちゃんを大事に想っていたんだな」
ふと籠澤が呟いた。
変容した『昇』を見ていた長尾は、その言葉に素直に頷けないでいた。人を大事に想う形には、到底見えないのだ。
無言の長尾を見て、籠澤は小さく笑った。苦笑のようだった。
「相当なんだな。
そんな悍ましいものを焼き付けていくくらい、ストーカーに対して憎悪を持っていたんだ。
しずちゃんへの想いの反転だ。
人って、何を残していくか分からないもんだ」
できれば彼女に、優しい形を残していってほしかったな、と籠澤は言う。
それを聞いて、長尾は「ああ」と腹に落ちたのだ。
優しい人が、優しいものを残していくとは限らない。
不意に、日の差した道が陰ったような気がした。
長尾は空を仰いだが、雲一つない晴天である。陰るようなものはない。
だが、確かに目の前の景色に薄いグレーのフィルターが掛かったような、
まだ明るいからと、油断していた自分に気付く。
籠澤に声をかけようとしたのだが、先に彼の方が口を開いた。
「俺は何を残していくんだろう。
何かを残せるのかな」
籠澤のその呟きは、自分に問われたものではないと長尾は感じた。
自分に宿っているものの力で、これからここに焦げついた
そんな自分が、焼き付けてでも残したいものがあっても、残すことができるのだろうか。
「─── さっき本屋で立ち読みしてた人がいたんだが」
異様な気配が辺りを包んでいると長尾は感じていた。しかし、最初に切り出そうとした事とはまったく別の話を、籠澤へ切り出していた。
この気配を感じていないだろう籠澤は、長尾を振り返りじっと彼を見た。
「本って、結局その人の一面しか切り取ってないと思うんだ。
よく作者と作品は別というのは聞くし、でも相当のファンでもない限り、作者の人となりを知ろうとは思わないだろ。
それでも、ずっと胸に残る作品がある」
そう言いながら、長尾は自分の中に、記憶や感性に焼き付いた物語を探した。それは小さな灯となって、長尾が決断に迷ったときや打ちのめされたときに
「もしも、この四辻にあるものが人ではなく、その人の一部を切り取って焦げついたものなら、手に取った本だって同じようなもんじゃないか。
それが本の形をしていなくても、きっと。
そうならば、仮に籠澤の何かを場に残せなかったとしても、これから籠澤の言葉に触れた誰かの中には、焼き付くものがあるかもしれない」
それは小さな火種かもしれないが、しかし。
振り向いている籠澤の向こうの景色が、陽炎のように揺れた。視認した途端、長尾の背筋が張り詰める。
衝撃波のような憎悪が、長尾の全身を一気に浸食して走り抜ける。
恐怖に脳のすべてが持ってかれ、声が出るかと思った。
それに耐えられたのは、彼の言葉を聞いて笑った籠澤がいたからだ。
「面白い話だな、それ。本、言葉、か。
そう思うと、案外カジュアルに俺たちは幽霊を見ているのかもな」
はは、と軽く笑う彼の向こう。
陽炎を突き破り、のたくった二足歩行とも四足歩行ともつかない黒い影が、物凄い勢いで走ってくるのが見えた。
「ありがとうな、長尾」
不安になっていた自分を励ました長尾へ、籠澤は笑って礼を告げる。
影が、すぐそこに───
長尾は籠澤に笑い返した。
仮に自分に籠澤の加護がなかったとしても、きっと自分は笑って応えたと長尾は思っている。
少なくとも自分の中に一つ、焦げついたものがあると分かっていた。
(やがて焦げつく 了)