桃太郎による鬼討伐から、約二年の年月が流れた。
彼の武勲は、今では津々浦々で、英雄譚として語り継がれるようになっていた。
鬼切丸はというと、今日まで一日も欠かさず機織りの腕を上げることに精進していた。
あの日の、桃太郎から掛けられた温かな励ましを胸に——。
近頃では、力強さと繊細さを併せ持つ布と評判を呼び、遠国の商人まで買い付けに来るほどだ。
今日も工房に客が訪れた。
「失礼。こちらは鬼切丸殿の工房で間違いございませんか?」
「へぃ、そうでさ。あなたも商人の方ですかい? すいやせんが、今は注文が溜まっていて、あいにく売れる物がございやせん」
鬼切丸が平謝りすると、その男は「いえ、買い付けに来たのではございません」と言ってきた。
「ほぉ……では、何故こんな辺鄙な所までおいでに?」
「あなた様を、都へとご招待しに参りました。姫様がお目通り願いたいと」
「姫……ですかい? あいにく、あっしには姫様とご面会する謂れはごぜぇません」
男はにこやかな表情のまま話を続ける。
「お会いになればすべてお分かりになります」
「じゃが忙しいけん、お引き取り——」
「では、呉羽姫様にはご多忙で無理だったとお伝えしておきますね」
「——⁉」
その名を聞き、鬼切丸は目を見開いた。
「く、呉羽姫が……あっしに会いたい……と?」
「はい! あの方は、あなたのことをずっと気にかけていらっしゃいました」
突然、胸が高鳴った。そんな鬼切丸をよそに、男は話を続ける。
「申し遅れました。私、姫様の給仕をしております勅使河原と申します。近頃、都の方にも鬼切丸様の誂えられた織物の噂が流れてきましてね。それが姫様のお耳にも届いたようです」
夢のような話だ……。そう思ったが、鬼切丸はかぶりを振る。
いや違う。このような日が訪れるよう、今日まで必死に糸を紡いできたのだ!
はからずも、今織っている生地の色は朱色だった。これぞまさに、運命の赤い糸だな。
柄にもなく、そんなロマンティックなことが頭によぎる鬼切丸だった。
「……行きます。連れてってくだせぇ!」
「ええ、ぜひご同行ください」
牛車での移動は初めてだった。これが遅いのなんの……。一日五里(約二十キロ)程度しか進まない。
自分で歩いた方が早かったのでは、などと考えつつも、地元の土産などもたくさん積んでもらっていたので、わがままなことは言えなかった。
都に到着したのは、約二週間後のことだった。
呉羽姫の待つ屋敷へと向かう前に、すっかりボサボサになった髪や髭を整えるように言われ、床屋へと連れてこられた。
「へい、旦那。今日はどのようにいたしましょう?」
「適当に短くしてくれ」
「鬼切丸さま、お言葉ですが適当などと……。今流行りの髪型でお願いします。髭は全て剃っていただけますか?」
「承知しやした!」
鬼切丸は、なすがままに髪と髭を整えられていった。
髪と髭を整えると、田舎の熊が、都会の猿くらいにはなっただろうか……。
「次はお召し物を新調致しましょう」
自らの作る生地には、丹精とこだわりを目いっぱい込めているのだが、いかんせん自らの衣服に関しては、全くの無頓着だった。
呉服店に入ると、床屋同様、言わるれがままに新しい服を着させられた。
都会の猿が、いっぱしの青年へと変貌した……かな?
「勅使河原さん……あっし、変でねぇっすか?」
「とてもよくお似合いです! では、屋敷へ向かいましょう」
牛車が、大きな屋敷の前で停まった。回転を止めた車輪と反比例するように、鬼切丸の心臓の鼓動は、みるみるうちに加速し始めた。
「ここが……呉羽姫の屋敷……」
「到着いたしました。長旅ご苦労様でございます」
何日も重たい荷物を引いてくれた牛に、労いの言葉をかけると、牛が突然「モォォ~」という大きな鳴き声を上げた。
その声が聞こえたのか、中から人影が走って出てくるのが視界に入った。
「勅使河原、モーコ、おかえり……えっ⁉」
鬼切丸の姿を見るや、呉羽姫は立ち止まる。見知らぬ男がいたのだ。警戒しているのだろう。
ふと、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「お……鬼切……丸……さん?」
「えっ? あ、あっしのことが……分かるんですかい?」
「鬼切丸さんっ!」
次の瞬間、姫は彼の胸に飛び込み、細い腕で抱き締めた。
「はっ? く、呉羽姫……様⁉」
女性に抱きつかれた経験など、今までなかった。訳も分からず、呉羽姫の背中を、両腕で優しく包み込んだ。
「ずっと、再会したく思っていました。命の恩人である、あなた様に……」
「あっしも、今日の日を夢に見てました」
傍らでは、二人の抱擁を温かな目で見守り続ける勅使河原が、手ぬぐい片手にボロボロと涙を流していた。
鬼切丸は、都に工房を開き、これまで以上に機織りの研鑽を積むこととなった。
それから、約半年後——
「失礼する。ここは鬼切丸殿の工房でお間違いないか?」
「いらっしゃいませ。そうでございますが、今日はどういったご用件で?」
「あなたの織る生地の評判を聞きつけましてね。ぜひ、帝の御衣をご用意していただきたく、お願いに上がりました」
「じょ、上納品……ということですかい⁉」
「さようでございます。帝は特に赤を好まれます。あなた様の織った朱色の生地をたいそうお気に召されたようでして。それで、誂えていただけますかな?」
「か、かしこまりました! 僭越ながら、謹んでお受けいたします!」
「では、よろしくお願いします」
鬼切丸は、急ぎ屋敷へと戻ると、呉羽姫にこの話をした。
「大変なことになったぞ! ご献上品など、あっしに織れるのだろうか……」
「光栄極まりないですね! あなたなら大丈夫。私も手伝いますし、一緒に頑張りましょう!」
それから、二人は何日も試行錯誤を重ね、ついに朱色の着物を完成させた。
「よし! これで完成だ! ありがとう、呉羽姫」
「はい、鬼切丸さん」
翌日、帝へと着物を届けることになった。
宮廷へと足を踏み入れた時、不穏なことが頭をよぎった。
もしも、帝がお気に召さなければ……切られてお陀仏になったり……いやいや、呉羽と二人で完成させた力作だ。不要なことは考えないでおこう。
「よくぞ参った。早速だが、見せてもらおうか」
「ははっ。こ、こちらでございます」
着物を衣桁へと掛け、帝の御前に差し出した。
「おぉ……見事な出来前だ。朕の好みをよく理解しておる」
よかった……殺されずには済みそうだ。
「ん? なんじゃ、この意匠は?」
「そ、それは、桃をあしらったものでございます」
「ほう……なぜ、桃を?」
「話せば長くなるのですが……」
「構わぬ、話してみせよ」
鬼切丸は、桃太郎との出会いから、これまでの経緯をかいつまんで話した。
「なるほど……朕も桃太郎の話は耳にしておる。まさか、当人にあったことがあるとは」
「あのお方がいなければ、このような機会はありませんでした。あのお方のように、民をお守りする強い心にあやかり、帝様にご献上するお召し物にも、僭越ながら桃の意匠を入れさせていただいた次第でございます」
「……その心意気、気に入った! そなたに褒美を取らせよう!」
「ほ、褒美ですかい⁉ いえいえ、そのようなものは必要ございません。御衣を気に入っていただけただけで、わたしは満足でございます」
「ふむ……。ならば、これならどうじゃ? お主に氏を授けるというのは?」
「あ、あっしに氏を……⁉」
「呉羽姫と婚を結ぶにあたっては、必要なのではないか?」
たしかに、帝の言う通りだ。あっしは、ただの田舎者。呉羽姫とは身分が違いすぎる。
「そうじゃの~、してお主、出身はどこじゃ?」
「あっし……いや、わたしは備中倉敷村の長尾というところからやってまいりました」
「では、お主の氏は『長尾』にしよう! 今日からお主は『長尾 鬼切丸』じゃ」
「あ、ありがたき幸せ!」
「うむ。では、また次の品も楽しみにしておるぞ!」
「……はえっ⁉」
謁見を終えると、鬼切丸はとてつもない速さで屋敷へと戻った。
「おかえりなさ——」
呉羽姫が、出迎えの挨拶を終える前に、その華奢な体を抱きしめた。
「ど、どうしましたの、突然?」
「……結婚しよう!」
「え……えぇっ⁉」
「帝から氏を授かった。俺も、身分を与えらえたんだ!」
「私は、あなたに身分がなくても、このまま一生一緒に暮らしていくつもりでしたが……喜んでお受けいたします」
こうして、晴れて二人は夫婦となったのだった。
婚姻から約一年後——
「オギャー、オギャー!」
「オギャー、オギャー‼」
「ああぁ……、泣いている……何をどうすれば……」
「二人のオムツを代えてあげてくださいな」
「お、おう……。任された」
二人の間に、双子の赤ん坊が産まれたのだ。
赤子の名は、長女『桃子』、長男『太郎』だ。
言わずもがな、桃太郎の名を由来としている。
あれから約四年ほどが経過しただろうか? 桃太郎の英雄譚は、もはや知らない者がいないほどに知れ渡っている。
この子たちも、いつかは世の中に役立つ人間になって欲しい。そう願いを込めた名付けだった。
二人が産まれて、三年後——
「オギャー、オギャー!」
「オギャー、オギャー‼」
「ととちゃま、『たいが』と『みどりこ』がないてるでしゅ」
「うるちゃいから、ももこがふたりをなきやませなしゃい」
「たろうもてつだってよ」
「やだ」
「もう……エーン、エーン」
「ああぁ……、また泣いている……何をどうすれば……」
「あなた、しっかりしてちょうだい! 大河と翠子は私がなんとかするから、桃子と太郎は任せたわよ」
「お、おう……。任された」
長尾家には、新たな命が誕生していた。珍しくも、二度続けての双子だった。
次男の『大河』、次女の『翠子』だ。
二人の名前の由来は……正直これといったものはないのだが、何故だかその名がピッタリだと感じたのだ。
家族が増え、慌ただしい日々ではあったが、とても幸せだった。
子育ては、常に手探り状態。何が正解かは分からないのだが、自分なりに精一杯、父親をやっていた。
「桃子も太郎も、そろそろお昼寝の時間だな。一緒に寝ようか」
「ととちゃま。おはなしをきかせてくだしゃい」
「ぼくあれがいい! いつものやつ」
「わかった。じゃあそうしよう!」
『昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。
おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
おばあさんが川で洗濯をしていると、大きな桃がドンブラコ~、ドンブラコ~と流れてきました……』
桃太郎の物語は、今日も新しい世代へ紡がれてゆく——