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周囲の光景が、徐々に歪み始めていた。
目に映る景色がまるで画像加工のエンボス加工とつまみ加工を交互に繰り返したように揺らめき、拡張、縮小を繰り返す。
更にガンマ補正を無理やり下げた画面を見ているかのように、視界全体が重苦しく濃密な影に飲み込まれていく。
僕は「くらい」という言葉を知っている。
この言葉には暗い・昏い・冥い・闇い・瞑い……と、同音意義語は多くある。
あの世というものがもしあるならば、きっとこんな冥さの世界なのだろう。
「これはッ……!」
眞原井さんが鋭い声を上げた。
「走りますわよ! まだ広がりきっていない今なら逃げられるかもしれませんわ!」
彼女の叫びを合図に僕たちは走り出した。
だが、すぐに僕は彼女の速さについていけなくなった。
陸上部顔負けの速さだ。
僕は特別運動神経が鈍いっていうわけじゃないけれど、見る見るうちに距離が離されていく。
そうしてあっという間に距離が開き、僕はたまらず彼女に声をかけた。
「ま、待ってッ……!」
その声を聞いた眞原井さんが振り向き、苛立たしげに小さく舌打ちをした。
彼女はすぐにこちらへ戻ってくると、僕の手を強く握った。
「絶対に離してはなりませんわよ! 誰かに話しかけられても返事をしたらダメですわ!」
その切迫した口調に、僕は息も絶え絶えに答えた。
「わ、分かった!」
その瞬間、僕たちのすぐ横から平坦な声が響いた。
──「返事をしないで、と言われたのに」
その声は眞原井さんのものではなかった。
僕の全身が一瞬で硬直し、恐る恐る声の方へと視線を向ける。
そこには、白いワンピースを纏った髪の長い女の人が静かに立っていた。
長い前髪が垂れていて顔は全く見えない。
僕は驚きのあまり反射的に手を引き抜こうとしたが、信じられないほど強い力で握られて離せない。
鼓動が耳元で激しく鳴り響き、膝ががくがくと震えて立っているのもやっとの状態だ。
──「返事をしないで、と言われたのに」
女の人が繰り返す。
この時、僕は初めて女の人の手が氷の様に冷え切っている事に気づいた。
◇
手を繋いでいたはずの御堂君が、霧が晴れるように忽然と姿を消した。
「御堂君!」
わたくしは思わず声を張り上げる。
返事はない。
町そのものが死んでしまったかのような静寂の中、声は闇に吸い取られていった。
遠くも近くも判然としない濃密な黒が街並みを覆い、灯りは軒並み潰え、空気は氷のように冷えている。
骨の芯まで冷え込む闇とはこういうものを言うのだろう。
「してやられましたわね……それにしても、この“展開”の速度は……」
唇が自然と自嘲気味に歪む。
普通、異常領域に取り込まれてもすぐに怪異の餌食になるわけではない。
異常に気づいて即座に離脱すれば何事もなく帰宅できるケースが大半だ。
だが中には、気付いた時には既に袋小路──逃げ道も光も失われた状況になっている場合がある。
そういった領域は致死性が極めて高い。
そして、現れる怪異もまた常軌を逸して恐ろしい。
わたくしは拳を握り、息を整える。
「さて、こうなってしまったからには何とかここから抜け出したい所ですが……“制約”が分からない事にはね」
異常領域からの脱出には、往々にして一定の手順や条件──わたくしたち異能者が“制約”と呼ぶもの──を踏む必要がある。
だが最短の抜け道は常にひとつ。
──大本を叩く。
制約を知らずとも、領域の核となる怪異を斃せば帳は崩れる。
わたくしはその手段に秀でている自負がある。
父はローマカトリックの高名なエクソシスト、母は日本の陰陽道の末裔。
双方の術式を受け継ぎ、混淆させたわたくし──眞原井アリスは、そのために生を許されたのだとさえ思うことがある。
本来であれば教会法には結婚禁止の規定もあった。
けれど世界規模で拡大する“異常現象”に対処するため、力ある者の子を望む声が勝った。
禁令は撤廃され、わたくしのような混血のエクソシストも珍しくなくなった。
「御堂君……必ず見つけ出しますわ」
わたくしは闇を睨みつけ、ゆっくりと歩き出す。
足音がアスファルトに乾いた音を刻む。
手掛かりを掴むまでは、ただ歩いて領域の歪を体で感じるしかない。
闇の奥から、何者かの視線が突き刺さるように感じられる。
だが怯む暇はない。
──核を見つけ、叩く。
この単純明快な手順こそが、救うべき者を救い、自らを救う唯一の道標だからだ。