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アリスは一歩ずつ闇色に塗りつぶされた路地を進んでいた。
アスファルトの地面を歩いているはずなのに、足裏に伝わる感触はぬらりと変質し、まるで生き物の舌の上を踏んでいるように湿っている。
街灯は影絵のように歪み、光ではなく煤を垂らしている。
店先の看板は文字が溶け、判別できない黒い帯へと変わっていく。
ねっとりと絡み付く空気。
近い。
霊感が指し示す方向へ迷いなく歩を進めていく。
やがて路地が開け、小さな公園へ出た。
朽ちかけたブランコは錆びまみれの鎖に吊るされ、ギィギィという軋んだ音を響かせていた。
その向こう、滑り台の下──闇を吸い込む中心で、白いワンピースの女が佇んでいる。
長い黒髪が顔を覆い、腕の片方がない。
──あれだ
アリスの心臓がどくりと跳ねる。
冷気にも似た霊圧が彼女の皮膚を刺し、髪を逆立てた。
アリスはこの異常領域の“核”であると確信する。
「……で、落として……せんか」
女の口の奥から泥水をすするような声が漏れた。
──聞いてはいけない
魔の囁きは毒である。
耐性のない者ならば、たった一言耳に入れるだけで正気を失う事もある。
女の声を聞いたアリスはしかし、表面的には何の痛痒も覚えなかった。
だからこそ思うのだ。
──この感覚からして、相当に厄介な魔ですわねッ……!
目の前のこの姿は、あくまでも上っ面にすぎないと。
何らかの条件を満たしたとき、孕む魔は爆発的に膨れ上がるであろうと。
アリスのこれまでの経験から導き出した答えである。
では逃げるのか?
否であった。
右手を鞄へ突っ込み、取り出したのは小型のペットボトルだった。
教会で司祭から託された聖別水、非常時用の簡易携帯聖水。
キャップをひねり、容器を逆さにして中身を掌へ注ぐ。
ひたり、と冷たい滴が皮膚に触れた瞬間、祈りの意図が奔流となって形を得た。
──「Recéde ergo in nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti」(ゆえに退け。父と子と聖霊の御名によって)
闇の中、聖句が鈴の音の様に響きわたる。
滴り落ちた聖水はたちまちアリスの手の中で細身の剣へと結晶した。
青白い燐光を放つ半透明の刃は聖水そのものだ。
これで斬られれば、魔に属するものを滅ぼすことができる。
が──
女が顔を上げる。
前髪の隙間から覗く虚無色の瞳を見たアリスは、死戦を覚悟した。