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第9話「お姉さん」

 ◆


 ──「返事をしないで、と言われたのに」


 二度目に言われた時、僕ははっと息を呑んだ。


 なんだか懐かしい響き。


 氷のように冷たかったはずの手が、いつの間にかほんのりと温もりを帯びているような気さえする。


 ゆっくりと僕は顔を上げる。


 そこに立っていたのは、僕がずっと会いたくて夢にまで見ていたあの人だった。


「……お姉、さん……?」


 掠れた声でそう呟くと、お姉さんはただ静かに僕を見下ろしている。


 白くてつばの広い帽子、間違いなかった。


 帽子の色と合わせた様な白いワンピースもすらりと伸びた手足も間違いなく“お姉さん”のものだった。


 十年ぶりに見るお姉さんは、僕の記憶の中にある姿と少しも変わっていない。


 いや、正確にはあの頃幼い子供だった僕には理解できなかった美しさが今はっきりと分かる。


 闇の中でさえ際立つ肌の白さ。


 ワンピースから覗く首筋や手首のラインは人形みたいに繊細で、それでいてどこか人間離れした印象を与える。


 そして帽子の影から覗く、吸い込まれそうなほど深い血のような赤い瞳。


 昔はただ「綺麗だな」としか思わなかったけれど、今なら分かる。


 お姉さんは、ものすごく綺麗な人なんだ。


 僕は思わずゴクリと喉を鳴らした。


 心臓がさっきとは違う意味でドキドキと高鳴っている。


 それは恐怖からじゃなくて、もっとこう……上手く言えないけれど、胸がいっぱいになるような、そんな感じ。


 お姉さんは何も言わない。


 ただ、僕の手を引く力がさっきよりも少しだけ強くなったような気がした。


 そして、僕を促すようにゆっくりと歩き出そうとする。


 僕ははっと我に返った。


 お姉さんが助けに来てくれたんだ。


 異常領域から僕を連れ出そうとしてくれているんだ。


 そう理解した途端、全身の力が抜けそうになるほどの安堵感が僕を包んだ。


 でも──。


「ま、待って、お姉さん!」


 僕は反射的に、お姉さんの手を引き留めていた。


 お姉さんはぴたりと足を止め、不思議そうに少しだけ首を傾げる。


 その仕草も、昔と少しも変わらない。


「あの、眞原井さんが……眞原井さんがまだ、あっちに……!」


 僕は必死に、さっきまでは眞原井さんと一緒にいた方向を指差す。


 お姉さんは何も言わず、僕の指差す方を静かに見つめている。


 僕を見る目と違って、凄く冷たい目をしていた。


 僕の頭の中はぐちゃぐちゃになる。


 このままお姉さんについていけば、僕だけは助かる気がする。


 こんな最悪な場所からきっと無事に抜け出せる。


 お姉さんがいれば大丈夫だって、理屈じゃなくてもっと深い部分で理解している。


 だけど、それじゃダメなんだ。


 僕だけが助かって眞原井さんをここに置き去りにするなんて、絶対にできない。


 それだけじゃない。


 もしかしたら本田君だってまだこの近くのどこかにいるかもしれないんだ。


 朝、先生が言っていた。


 本田君が昨日の放課後から帰ってきていないって。


 この異常領域に巻き込まれた可能性があるって。


 本田君は正直いって好きじゃない。


 好きじゃないけど、死んでいいとまでは思っていない。


 僕自身にもどうしてこんな気持ちになるのか、はっきりとは分からない。


 ただこのまま自分だけが助かって、何もかも見なかったことにしてここから去るのはなんだか凄く嫌だった。


 自分が何か特別なことができるわけじゃないって、それは痛いほど分かってる。


 僕には異能なんてないし、こんな状況で足手まといになるのが関の山だ。


 このままお姉さんに従って、一刻も早く逃げたほうがいいに決まってる。


 なのに、どうしてだろう。


 無力なくせに、余計な気を回して、二人を助けたいだなんて思ってる。


 そんな自分の愚かさに、強烈な自己嫌悪が込み上げてくる。


 僕はどうしようもなく馬鹿なんだ。


 俯いて唇を噛み締める僕を、お姉さんはただ静かに眺めていた。


 ◆◆◆


 御堂聖が「お姉さん」と呼ぶ“それ”の名を知る者は、「今は」もう誰もいない。


 “それ”はふと、遥か古の記憶の断片を呼び起こす。


 日照りに喘ぐ村。


 恐怖と憎悪に歪んだ男衆の顔、顔、顔。


 松明の赤い炎が、自分を祀っていたはずの社を不気味に照らし出す。


 怒号。


 乱暴な手つき。


 引きずり出され、古井戸の暗い口へと──。


 ぞわり、と“それ”の奥底で、冷たい何かが疼いた。


 永い時を孤独に漂い、怨念と神性の残滓とが混濁した存在となった“それ”にとって、感情と呼べるものはとうに摩耗しきっているはずだった。


 けれどこの少年、御堂聖と出会ってから、何かが少しずつ変わり始めた。


 “それ”は、目の前の少年に視線を戻す。


 聖は、幼い頃から何も変わらない。


 初めてこの山で出会ったあの日も、聖は“それ”の異様な長身や、人ならざる気配に一切の畏れを見せなかった。


 ただ純粋な瞳で「お姉さん」と呼び、無邪気に慕ってきた。


 その汚れなき魂の輝きは、“それ”が失って久しい何かを思い出させた。


 聖は“それ”を受け入れたのだ。


 そして、名付けた。


「お姉さん」という名を。


 受け入れ、名づける──聖は自覚していないが、それはもっとも古い契約の一つである。


 だから“それ”は、少年の「お姉さん」なのだ。


 他の誰でもない、この御堂聖だけの「お姉さん」なのである。


「お姉さん」は、常とは少し異なる響きで「ほう」と息を吐くような、呟きにも似た声を発した。


 聖にはその声が「仕方ないね」と言っている様に聞こえる。


 聖は俯かせていた顔をゆっくりと上げた。


 潤んだ瞳が、不安げにお姉さんを見上げている。


 言葉はない。


 けれど、聖にはお姉さんが問いかけているように思えた。


 ──どうしても、行きたいの? 


 その赤い瞳が、そう語りかけている気がした。


 聖は黙って頷いた。


 すると「お姉さん」は、先ほど聖を連れて行こうとした方向とは逆へ──つまりはより危険な闇の中心へと、ゆっくりと聖を連れて歩き出した。


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