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第10話「アリス③」

 ◆


「……で、おとして……せんか」


 女の口から、泥を啜るようなか細い声が再び漏れでる。


 その声は闇に溶け込むように不気味に響き、アリスの鼓膜を揺さぶった。


 アリスは深呼吸一つで精神を統一すると、聖水剣を構え、女に向かって鋭く踏み込んだ。


 青白い燐光を放つ半透明の刃が闇を切り裂き、女を胴薙ぎする。


 しかし女はそれを避ける素振りも見せず、ただぼんやりと立ち尽くしているだけだった。


 手応えはあった。


 確かに聖水剣は女の体を捉え、切り裂いたはずだった。


 だが女は全く堪えた様子がない。


 まるで霞でも斬ったかのように、その白いワンピースには傷一つついていなかった。


「なっ……!?」


 アリスの表情に驚愕の色が浮かぶ。


 聖水剣は悪霊や低級な妖魔であれば一太刀で浄化できるほどの霊威を秘めている。


 それが全く効いていない。


 アリスは素早く距離を取り、再び剣を構え直す。


 今度は狙いを定め、女の顔面目掛けて突きを繰り出した。


 しかし結果は同じだった。


 剣先は確かに女の顔を捉えたはずなのに、何の抵抗もなくすり抜け、女は微動だにしない。


 アリスは何度か斬りつけてみたが、その全てが無に帰した。


 聖水剣は確かに女の体に触れている。


 だが物理的な干渉も霊的な浄化も、一切の効果を発揮していなかった。


「じょ、冗談じゃありませんわ! 念入りに聖別した聖水だというのに……」


 焦りがアリスの声を震わせる。


 眞原井家のエクソシストとして、これほどまでに自身の力が通じない相手と対峙するのは初めての経験だった。


 女は依然としてその場から動かない。


 やがて女は、ゆっくりとアリスに向かって歩み寄ってきた。


 その動きはひどく緩慢で、特別な攻撃を仕掛けてくる様子もない。


 ただ、ふらふらと近づいてきては力なく腕を伸ばし、アリスにつかみかかろうとするだけだった。


 アリスの身のこなしならば、そんな単調な攻撃を躱すのは造作もないことだった。


 軽くステップを踏むだけで、女の伸ばす手は空を切る。


 しかし、何度かそれを繰り返すうちにアリスは奇妙な感覚に襲われ始めた。


 体が、重い。


 まるで鉛の外套を羽織らされたかのように、全身がずしりと重みを増していくのを感じていた。


 最初は気のせいかと思った。


 だが、女と向かい合っている時間が長引くにつれて、その重圧は確実にアリスの体力を奪っていく。


 呼吸が次第に荒くなり、額にはじっとりと汗が滲み出す。


「はあっ……はあっ……!」


 アリスは肩で息をしながら、女との距離を保とうと後退る。


 しかし、足が思うように動かない。


 一歩下がるごとに、体にかかる不可視の重圧が増していくようだった。


 やがてアリスは体を支える事すら困難となり、思わず地面に膝をついてしまった。


「くっ……!」


 悔しげに呻き、左手で地面を突いて体を支えようとする。


 だが、その左手に全く力が入らなかった。


 まるで自分の腕ではないかのように、意思とは無関係にだらりと垂れ下がってしまう。


 アリスは訝しげに自身の左手を見下ろした。


 そして息を呑む。


 左手が手首のあたりから先が、まるで薄いガラス細工のように透けていたのだ。


 指の一本一本が向こう側の景色を映し出し、その輪郭は曖昧に揺らいでいる。


 何が起きているのか理解できず、アリスは呆然と自身の左手を見つめた。


 その間にも左手の透明化は進行し、肘のあたりまで侵食してきている。


 逆に、とアリスは気づいた。


 目の前の女の変化に。


 女のないはずの左腕。


 その肩口からうっすらと、まるで陽炎のように新しい腕が現れ始めているではないか。


 それはアリスの左手が薄れていくのと完全に呼応していた。


 まるでアリスの存在そのものを吸い取って、自身の欠損を補っているかのように。


「まさか……わたくしの、存在を……?」


 戦慄がアリスの背筋を駆け抜ける。


 アリスは“仕事柄”、古今東西、一通りの妖怪やら幽霊やら悪魔やらといった怪異の逸話には精通している。


 書物に記された伝承、口伝えに残る民話、あるいは教会の極秘文書に至るまで、その知識は膨大だ。


 その知識こそがアリスのようなエクソシストにとって最大の武器となる。


 逸話を知っているということは、その怪異のルーツ、弱点、あるいは性質を理解できるということだ。


 例えば特定の呪文や物品を嫌う、特定の条件下でしか力を発揮できない、あるいは何らかの未練や目的があって現世に留まっているなど、対処法を見つけ出すための重要な手がかりが得られる。


 時にそれは交渉の糸口となり、戦わずして怪異を鎮めることすら可能にする。


 だがそのアリスの広範な知識の中に、目の前の“片腕の女”に関する記述は一切存在しなかった。


 少なくともアリスが知るどの伝承にも、このような形で他者の存在を奪い、自身の欠損を補う怪異の話はなかった。


 まさか、とアリスは最悪の可能性に行き当たる。


 ありえない、と思いたい。


 けれど、状況がそれを強く示唆していた。


 ──都市伝説系、ってことですわね


 アリスの脳裏に浮かんだその言葉は、絶望的な響きを伴っていた。


 都市伝説系の怪異。


 それはアリスのような正統派のエクソシストにとっては、まさに鬼門と呼ぶべき存在だ。


 なぜならそれらの怪異には、古来より語り継がれてきたような明確なルーツも、確固たる伝承も何一つないからである。


 ある時、どこかの誰かが気まぐれに言い出した、あるいはネットの掲示板で面白半分に創作された、そんな曖昧な恐怖の噂。


 それが人々の不安や恐怖を養分として、いつの間にか実体を持ってしまう。


 そうやってぽんと生まれてくるのが、都市伝説系の怪異なのだ。


 誰かが気まぐれに言い出した、根も葉もない適当なオカルト話。


 その最も厄介なところは解決のための糸口がほとんど、あるいは全く存在しない事が多いということだ。


 分かりやすく言えば、設定が雑なのである。


 弱点もなければ、出現理由も曖昧。


 ただ漠然とした恐怖のイメージだけが先行し、具体的な対処法など用意されているはずもない。


 古来の妖怪や悪魔ならば、長い歴史の中で築き上げられた対抗策や封印術が存在する。


 しかし、昨日今日生まれたような都市伝説にそんなものは期待できない。


 アリスの額に脂汗が一筋、ゆっくりと流れ落ちた。


 体がますます重くなり意識までもが朦朧とし始める。


 左手はもはや肩の付け根まで透け、ほとんど感覚がない。


 そして、目の前の女の左腕はほぼ完全に再生されようとしていた。


 その腕は、まるでアリス自身の腕であるかのように生々しい血色を帯びている。


 ──腕だけならまだしも……


 アリスは最悪の想像をする。


 もし腕だけではなく他の部分も奪われるとしたら? 


 まかりまちがって存在そのものを奪われるとしたら? 


 “成りかわり”という言葉がアリスの脳裏をよぎる。


 そして、そんなアリスの考えを読んだかの様に、女はニイイと大きな笑みを浮かべた。


 が。


 ほう──


 溜息にも似た、女の声。

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