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お姉さんに手をひかれるまま、僕は再びあの重苦しい闇の中へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに空気が肌に纏わりつくような不快感が増していく。
さっきまでとは比べ物にならないほど濃密な気配が、僕の心臓を締め付けてくる。
お姉さんは何も言わないが、手を握る力を少しだけ強めた。
ぎゅう、と。
すると不意に「この人がいれば大丈夫だ」とそんな風に思えてくる。
どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚も曖昧になるような闇の中、不意にお姉さんが足を止めた。
お姉さんの視線の先、闇がひときわ濃く凝縮している場所に微かな光が見えた。
先へ進んでいくにつれて光はどんどん強くなり、気付いた時には──
くぐもった呻き声と、何かを叩きつけるような鈍い音。
そしてか細いけれど、聞き覚えのある声が。
「……っ……はぁ……!」
眞原井さんがいる。
苦しそうに息を切らしていた。
地面に片膝をつき、肩で大きく息をしながら苦悶の表情を浮かべている。
僕はぎょっとした。
怪我でもしているのかと思っていたら、それどころではない。
腕が、まるっと無いのだ。
肩から先がない。
血とかは出ていないようだけれど明らかに重傷だ。
そんな眞原井さんの前には片腕の女の人が立っていて──。
僕は思わず駆け出そうとしたがお姉さんが僕の手を離してくれない。
それどころかお姉さんは僕の前に回り込み、僕の両肩にそっと手を置いた。
まるで「そこでおとなしく待っていなさい」と言うような素振りで。
お姉さんはそのまま前へ進んでいく。
その時だった。
地面に膝をついていた眞原井さんが、ふとお姉さんの存在に気づいたように顔を上げた。
そしてお姉さんの姿をその目に捉えた瞬間、彼女の顔が恐怖に引きつった。
震えが彼女の全身を襲っているのが遠目にもわかる。
「あ……あ……う……」
眞原井さんの口から、意味をなさない声が漏れる。
そして次の瞬間、彼女は激しく咳き込み、地面に嘔吐してしまった。
片腕の女の人はそんな眞原井さんの様子には目もくれず、ゆっくりとお姉さんの方へと向き直る。
──ひっ
僕は思わず悲鳴をあげそうになった。
あれを「顔」といってもいいのだろうか?
綺麗とか醜いとか、そういう次元の話じゃなかった。
目と口らしきものはあるにはある。
でも、片腕の女の人のそれはただの「穴」だ。
本来目があるべき部分にはぽっかり二つの穴が空いていて、口も同じ。
創作ではこういうデザインのキャラクターっていうのは珍しくはないけれど、生でみると不気味さが際立つ。
でもお姉さんは全然へいちゃらのようで、一歩、また一歩と女の人に近づいていく。
片腕の女の人がわずかに後ずさった。
──まさか、怯えている?
「ぽ……」
お姉さんの唇から、微かな音が漏れる。
それはいつもの、あのふんわりとした響きとは全く違う、低く、そして重い響きだった。
片腕の女の人は、さらに後ずさろうとする。
しかし足がもつれ、バランスを崩して転んでしまった。
──あれは……?
逃げようともがく女の人の足元に、僕は奇妙なものを見た。
アスファルトの地面を突き破って、何本もの「稲」が生え出ているのだ。
そう、お米のアレである。
見る間に成長し、逃げようとする女の人の足首に絡みついていく。
それだけではない。
どんどんどんどん成長して、膝、太もも、そして胴体へとあっという間に巻き付いていく。
「ぽ、ぽ、ぽ──」
お姉さんが再び呟く。
僕はお姉さんのその「ぽ」が、どこか歌のようにも聴こえていた。
お姉さんはゆっくりと女の人に近づき、その顔の前に屈み込み──長い指を伸ばし、顔をそっと掴んだ。
すると次の瞬間──
女の人がみるみるうちにひからびていく。
水分を奪われたかのように、肌は乾燥し、皺だらけになり、そして色を失っていく。
数秒も経たないうちに、女の人はまるで古びたミイラのように変わり果て、そのまま動かなくなった。
お姉さんは静かに立ち上がり、僕の方へと向き直った。
赤い瞳──いつものお姉さんだ。
小さいころから思っていた事だけど、本当に綺麗な瞳だと思う。
血の様な、ルビーの様な、夕焼けの様な。
ただの赤じゃない。
色々な「赤」をまぜこぜにして、それぞれの一番素敵な部分を調和させたような。
お姉さんの瞳に釘付けになる僕。
そうしているうちに、ふと周囲を包んでいた重苦しい闇が少しずつ薄れていく事に気付いた。
異常領域が消え始めているのかもしれない。
すぐに眞原井さんを病院に連れて行かなきゃいけないし、本田君を探さないといけない。
なのに、僕はお姉さんの瞳から目を離す事ができなかった。