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わたくしはふと周囲の空気が変わったことに気づいた。
重く纏わりついていた不快な気配が、まるで霧が晴れるように薄れていく。
視界を覆っていた歪みも徐々に収まり、見慣れた公園の風景がおぼろげながらもその輪郭を取り戻しつつあった。
どうやら、あの異常領域は消滅しかけているようだった。
けれど、今はそんな事はどうでもいい。
わたくしの意識は目の前に立つ“それ”に釘付けだった。
化け物──いや、邪神。
わたくしはそう思った。
美しい人間の女性の姿を借りてはいるけれど、その本質はとうていこの世のものとは思えなかった。
形容しがたいほどの禍々しさを感じる。
先ほどの片腕の女など話にもならない。
まさにこれこそが“魔”であると感得する。
わたくしはエクソシストの家系として、数多の霊的存在や魔に関する知識を叩き込まれてきた。
その知識をもってしても、“あれ”の正体は皆目見当もつかない。
ただ、正体は分からなくとも推測を巡らせることは出来る。
感じるのは邪気だけではない、僅かながら神気も感じる。
ルーツは分からないが、恐らくは神に類するような存在が堕ちたモノだと思う。
それもそこらの低級神などではない。
もっと古く、もっと強大で、もっと純粋な──だからこそ、堕ちた時の闇もまた、深く、濃い。
肌が粟立ち、呼吸すらも忘れそうになるほどの畏怖。
そんな“邪神”としか思えない存在を、御堂君はこともなげに「お姉さん」と呼んでいた。
わたくしはその事実に改めて戦慄を覚えた。
──“アレ”を、お姉さんですって!?
あれほどの“魔”が、ただの人間を同胞と見做すなどとはありえない。
だが現実はどうだ、“アレ”は御堂君に対して触れることすら許している。
常軌を逸していた。
あれほどの存在を使役する、あるいは対等な関係を築くなど──それこそ聖人の類が魂の全てを売り渡して、ようやくその指の先にかすり程度の対価を得られるかどうか、というレベルの話のはずだ。
わたくしは、御堂 聖に対する認識を根本から改めなければならないと思い知らされた。
──彼は無能者なのではない、恐ろしく高位の悪魔召喚者(デビル・サマナー)だった
悪魔召喚者(デビル・サマナー)とは、人ならざる“魔”を調伏し、時に交渉し、時に強制して、己の意に従わせる者たちのことだ。
それは並大抵の才能や精神力でなれるものではない。
常に強大な“魔”の誘惑や反逆と隣り合わせであり、一歩間違えれば自身の魂ごと喰い尽くされ、存在そのものを消滅させられる危険性を孕んでいる。
それは常に魂を奈落の淵に晒すような、危険極まりない道行きのはずだ。
そんなわたくしの思考を遮るように、御堂君が声をかけてきた。
「眞原井さん、大丈夫だった!?」
──ぜんっぜん大丈夫じゃありませんわよ!
喉まで出かかった言葉を必死に飲み込む。
御堂君は心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「腕も元に戻ったみたいだね」
そう言われて自分の左腕に視線を落とすと、見れば確かに喪ったはずの腕は元に戻っている。
まるで最初から何もなかったかのように、五指もちゃんと動いた。
いつの間に治ったのか、全く気付かなかった。
わたくしは、ちらりと御堂君が「お姉さん」と呼ぶ“魔”を見た。
「ひっ!?」
思わず声が出てしまった。
“アレ”が、心底厭わし気にこちらを見ていたのだ。
すわ体が塩と化すか、魂が砕け散るかと覚悟するが──何も起こらない。
「お姉さん、目が怖いよ……眞原井さんは友達──じゃないかもだけど、ええとクラスメートだから……」
──そこは友達って言ってくださる?
「でも、僕を逃がそうとしてくれたし」
御堂君がそういうと、“アレ”は私を見て大きくため息をついて──
瞬間、私は視た。
脳に直接叩き込まれたかのようなイメージ──恐らくは幻視とよばれるそれを。
黄金色の稲穂が豊かに実る光景の中、神々しい衣を纏い、「穂よ、栄えよ、満てよ、穂、穂、穂……」と清らかに唄い、優雅に舞い踊る一人の巫女。
幻視越しでもその巫女が宿す圧倒的なまでの神性がわたくしには分かった。
それは、まさしく豊穣と生命を司る地母神のごとき輝きだった。
しかし、それだけではない。
次に視たモノは──その神々しい巫女が、欲望に目を爛々とさせた大勢の男たちにより、無惨にも陵辱され、命を奪われる光景だった。
引き裂かれる衣、汚される聖域、そして、絶望と憎悪に染まる巫女の最後の瞳。
その悍ましさにわたくしは声にならない悲鳴をあげてしまった。
人間という種が持つ、底なしの愚かさと残酷さ。
それに対するどうしようもない失望と、絶望が、わたくしの心を黒く塗りつぶしていく。
「眞原井さん! 大丈夫? ああ、ええと……この人は、その、僕の──あれ?」
御堂君が慌てたように何か言いかけたところで、“それ”はふっと掻き消えるように姿を消した。
まるで最初からそこにいなかったかのように、何の痕跡も残さずに。
わたくしはただぼんやりと、目の前に立つ御堂君を見ていることしかできなかった。