◆
朝の光が窓から差し込んでくる──と同時に僕は起きた。
ここ最近の僕は目覚まし時計要らずだ。
やけに調子がいい。
「おはよう、クロ」
僕が声をかけると、クロは洗面器の縁に向かってゆっくりと這い上がってきた。
まるで僕の顔を見上げているみたいだ。
「お腹すいた?」
試しにそう聞いてみると、クロが大きく震える。
イエスの意味なのかもしれない。
茂さんが言っていた通り、スライムは基本的に何でも食べるらしい。
でも昨日は何も与えていない。
僕は机の引き出しから取り出したティッシュペーパーを一枚、クロの前に置いてみた。
すると、クロは触手のような部分を伸ばして、ティッシュを包み込んだ。
みるみるうちにティッシュが溶けて、クロの体内に吸収されていく。
「すごいな……」
完全に消化するまで、ものの数秒だった。
ふと思いついて、僕は指を立ててクロに向けた。
「クロ、お手」
まさかと思ったけど、クロは小さな触手を伸ばして僕の指先にちょんと触れた。
「えっ……」
偶然かもしれない。
もう一度試してみる。
「おかわり」
今度は別の触手を伸ばしてきた。
本当に理解しているみたいだ。
「跳ねて」
さすがに厳しいかなと思ったけれど、なんとクロはぴょんとその場で飛び跳ねた。
黒い体が朝日を反射してきらきらと光っている──かっこいい。
それにしてもスライムがこんなに賢いなんて知らなかった。
◆
教室に着くと、いつもの席で祐が待っていた。
「よ、聖。クロはどうだ?」
開口一番にそう聞かれる。
「すごく賢いんだ。芸もできるし」
「マジで? スライムが芸?」
祐が目を丸くした。
そこへ眞原井さんもやってきた。
「おはようございます。何の話ですの?」
「聖がスライム飼い始めたんだよ」
祐の説明に、眞原井さんは少し驚いたような顔をした。
「まあ、御堂君がスライムを」
でも嫌悪感はない様子だ。
だったらあの時、眞原井さんにも相談してもよかったかな。
「野良を保護したんですけど」
僕がそう言うと、眞原井さんの表情が少し曇った。
「野良スライムですか……」
心配そうな声音だ。
「ちゃんと洗浄はしましたの?」
「え? 洗浄?」
「野良スライムは色々な病原菌を取り込んでいる可能性がありますわ」
眞原井さんが真剣な表情で説明を始める。
「下水道や路地裏を這い回っていた個体なら、なおさらです。人間には無害でも、他のペットや小さな子供には危険な場合も」
そんなリスクがあったなんて。
僕は青ざめた。
「どうすればいいんですか?」
「ぬるま湯に薄めた塩を入れて、その中で泳がせてあげればいいですわ」
眞原井さんがアドバイスしてくれる。
「浸透圧の関係で体内の汚れが排出されますわよ」
なるほど──さすが眞原井さん。
「今日帰ったらすぐにお風呂に入れてあげます」
「それがいいですわね」
クロのためにも、ちゃんとケアしてあげないと。
そんな事を思っていると──
「へー、スライム飼ってるんだ」
突然、横から声がかかった。
見ると、金髪のギャル風の女子生徒が立っていた。
確か名前は……相沢さん、だったかな。
普段はほとんど話したことがない。
「あたしも飼ってるよ、スライム」
相沢さんがにこっと笑った。
「えっ、そうなんですか?」
思わず敬語になってしまう。
「うん。もう三年くらいになるかな。ていうか敬語ウケる。普通に喋っていいよ」
た、タメ口──中々難しい、けど。
僕も男だ、やってやる。
「どんな色、なの」
「普通の透明。名前はプリンちゃん」
プリンちゃん。
かわいい名前だ。
「聖のスライム、芸とか出来るらしいぜ」
裕が言うと、相沢さんは「えー!?」と甲高い声をあげた。
「芸!? スライムが?」
「あ、いや、うちのクロは簡単な芸ができて……」
「マジで!?」
相沢さんが目を輝かせた。
「普通スライムって芸なんかしないよ?」
そうなのか。
やっぱりクロは特別なのかもしれない。
「どんな芸ができるの?」
「お手とか、ジャンプとか」
「すっごーい! 天才スライムじゃん!」
相沢さんのテンションが上がる。
「今度見せてよ!」
「あ、はい……うん」
一回でも話したんだし、これで友達……だよね?
いや待て、一回話しただけで友達認定は早すぎるだろう。
でも、共通の話題があるっていいな。
というか、スライムって結構色んな人が飼ってるんだなぁ。
「クロちゃんの写真とか撮ってる?」
相沢さんが身を乗り出してくる。
「まだ撮ってないけど──」
僕は嘘をついてしまった。
裕が意味ありげに僕を見るが、ここは無視だ。
というのもせっかく見せるなら完璧な写真を撮りたい。
クロが映えるような写真じゃないとね。
やっぱり、こう、人に見せるんだったら。
「えー、もったいない! 絶対撮った方がいいよ! てか、芸ってやばいね!」
「俺のばあちゃんのスライムも芸なんかしないぞ」と、裕。
みんなの反応を見てなんだか僕はちょっと気分が良くなってしまった。
クロはかなり珍しいスライムみたいだ。
◆◆◆
洗面器に湛えられた“それ”は、まるで黒い水の様にも見える。
聖が学校へ出かけてから既に三時間。
朝の光は午前の柔らかな日差しへと変わり、カーテンの隙間から差し込む光が部屋の中に淡い明暗を作り出していた。
クロ──聖が名付けた黒い“何か”は、洗面器の底に身を沈めるようにして動かない。
時折、換気扇の音や遠くを走る車の音が聞こえてくるが、それらに反応する素振りも見せない。
階下では悦子が家事をこなしながら、スマートフォンを手にしていた。
メッセージアプリの画面には、夫である茂との会話が表示されている。
『お弁当箱に箸を入れ忘れてしまって……ごめんなさい』
悦子の指が画面を滑り、申し訳なさそうな絵文字を添えて送信する。
すぐに既読がつき、茂からの返信が届いた。
『大丈夫だよ。給湯室に未開封の割り箸が何本かあるから』
『よかったわ』
『気にしないで。それより』
茂のメッセージが一旦途切れ、入力中の表示が現れる。
『そういえば、最近また浮遊霊が増えているみたいだ』
『戸締りはちゃんと確認しておいてくれ』
悦子の表情が少し曇った。
浮遊霊──それは特定異形災害の中でも最も軽微な部類に属する存在だ。
人に直接的な危害を加えることは稀だが、それでも油断は禁物である。
何より、浮遊霊に限らず怪異というものは「招く」ことでこちらの世界への影響力を強める。
開け放たれた窓や扉は、彼らにとって格好の侵入口となる。
悦子は立ち上がり、家中の窓を確認して回ることにした。
一階のリビング、キッチン、和室──全て施錠されていることを確認する。
続いて二階へと上がり、寝室、茂の書斎、そして聖の部屋へと向かった。
聖の部屋のドアをノックし、返事がないことを確認してから静かに開ける。
整然とした部屋の中、机の上に置かれた洗面器が目に入った。
「クロちゃん、お留守番えらいわね」
悦子が優しく声をかけるが、クロは微動だにしない。
窓に目をやると、網戸になっていることに気づいた。
朝の涼しい空気を入れるために聖が開けたのだろう。
悦子は窓に近づき、網戸を閉めてから鍵をかけた。
カチリという小さな音が部屋に響く。
その瞬間──
ぴくり。
クロの表面に、ほんの僅かな波紋が生じた。
悦子は気づかない。
部屋を出る際、もう一度洗面器に目をやるが、クロは相変わらず静かに佇んでいるだけだった。
「じゃあね、クロちゃん」
ドアが閉まり、悦子の足音が遠ざかっていく。
ややあって──
カーテンが風もないのに微かに揺れた。
その瞬間、クロの表面がぶるりと震えた。
洗面器の縁から黒い何かが素早く伸びる。
それは腕のようでもあり、触手のようでもあり、あるいは鞭のようでもあった。
宙空を切り裂くように伸びたそれは、何もない空間を掴むような動きを見せる。
次の瞬間、黒い腕は洗面器へと引き戻された。
まるで釣り糸を巻き取るような滑らかな動作で。
部屋の空気がほんの少しだけ澄んだような気がした。
もし霊感のある者がこの場にいたなら、たった今、一体の浮遊霊が消滅したことに気づいただろう。
クロは再び、先ほどまでと寸分違わぬ姿で洗面器に収まる。
ただ、その黒い体が心なしか艶やかになったような──
階下で悦子がテレビをつける音が聞こえてきた。
昼のニュース番組が始まったらしい。
『──都内での異常領域発生件数が、先月比で二割増加していることが分かりました』
アナウンサーの声が微かに二階まで届く。
『特に住宅地での目撃例が増えており、専門家は注意を呼びかけています』
悦子は眉をひそめながら画面を見つめていた。