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僕はドロドロの前にしゃがみ込んだ。
手を伸ばすのはまだ怖い。
でも、なんだか放っておけない気持ちがある。
──弱々しいな
僕は思わずそんなことを考えてしまう。
ドロドロは電柱の陰で、まるで何かから隠れるようにじっとしている。
時々ぷるぷると震えて、それがまた哀れに見える。
僕はスマホを取り出して裕にメッセージを送った。
『ちょっと相談があるんだけど』
即座に既読がつく。
『どうした?』
『変なものを見つけちゃって……』
僕は撮影した動画を添付して送信した。
しばらくして返事が来る。
『これは、うーん……スライムだな……。ちょっとまってろ。10分くらいで行くから』
『ありがとう』
◆
わざわざ申し訳ない気持ちもあるけど、来てくれるのは正直いって助かる。
眞原井さんにも相談しようとおもったのだが、眞原井さんだと問答無用でスライムを殺してしまいそうだなと思ったのだ。
「間違いないな。スライムだ」
「そうなんだ……でも黒って」
スライムというのは創作の中だけの存在ではなく、現実にもちゃんと存在する。
人々の想念の残滓が自然に寄り集まって発生する最も原始的な怪異──それがスライムだ。
全世界に満遍なく存在しているらしく、周囲の霊的エネルギーを吸収して維持・成長する。
積極的に人を襲ったりはしないが、全くの無害というわけではない。
子供が口にしてのどに詰まらせたりとか……脅威としては凶暴な犬や猫とかよりも小さいが、あるにはある。
でも全国規模で考えると、スライムより正月のおもちのほうがよっぽど危険、そんなレベルだ。
ちなみにごく少数だがペットとして飼いならしている人もいるらしい。
僕も見た事はあるが、こんな黒いスライムなんて知らない。
基本的にスライムというのは無色透明なのだ。
「黒いスライムはレアだよなあ……」
「どうしようかなって思ってるんだけど……」
僕が呟くと、裕は当然のように答えた。
「どうしようって……通報するしかないんじゃね?」
野良スライムは見かけたら最寄りの霊捜に通報するとすぐに駆除員を派遣してくれる。
昔はそこら中にいたそうだが今は減ってしまった。
それは僕もわかってるのだが──
「あっ」
スライムが震えながら僕に触手? のようなものを伸ばすが、すぐにへにゃりとへたれてしまう。
それを見ているとどうにも、こう……
「まあ聖の気持ちもわからないでもないけどよ。ちょっと可哀そうだもんな」
そうなのだ、ちょっとかわいそうなのだ。
「何だったら俺が燃やしてやろうか?」
裕はそういって、掌にソフトボール大の炎を出す。
スライムの駆除は簡単だ。
火でもいいし、なんだったら殺虫剤でもいい。
害意みたいなものこめて攻撃すれば消えてしまう──それがスライムというか弱い生物? なのだ。
「いや、ちょっとまって……」
僕は思わず裕を止めてしまう。
まあ止めた所でどうすればいいのかわからないのだが。
そんな僕を見かねたか、裕は思いがけない提案をしてきた。
「じゃあ、なんだったら飼ってみてもいいんじゃね?」
「飼う……って……」
かわいそうだとは思ったけれど、さすがに僕自身が飼うという考えはなかった。
「俺のばあちゃんもスライム飼ってるんだけどさ」
そういって裕はスマホを見せてくれた。
そこには広めの庭で遊んでる? 薄緑色のスライムがうつっていた。
「庭の雑草を食べてもらってるんだって」
裕の説明に、僕は興味深く画面を覗き込んだ。
「でも、スライムを飼うなんて……」
「いや、結構普通だぜ?」
裕があっさりと言う。
「俺の知り合いでも何人か飼ってるし。田舎の方だと害虫駆除用に飼ってる農家とかもあるらしいぜ」
「へー、そうなんだ」
「ああ。最近じゃペットショップでも売ってるくらいだし」
裕は続ける。
「まあ、野良を拾うのはちょっと珍しいかもしれないけど、飼うこと自体は全然変じゃない」
そう言われると、確かに飼ってもいいような気がしてきた。
「飼育は超簡単だぜ」
裕が説明を始める。
「基本放置でいいんだ。ただ最初にしっかり躾けないとダメらしい」
「躾け?」
スライムの躾方法については知らなかった。
「そう。強い意志で『これはするな』『あれはするな』って刷り込みをする必要があるんだと」
裕は指を立てて説明を続ける。
「例えば『人間を襲うな』とか『家の中で暴れるな』とか。無能力者でもできるから、聖でも大丈夫だ」
「へー……」
それなら僕にもできそうだ。
「ただな」
裕の表情が少し曇る。
「スライムって本当に弱い怪異だから、放っておくと他の強い怪異に吸収されちまうんだ」
「吸収?」
「そう。だから飼うなら、ちゃんと守ってやらないと」
なるほど、それで野良のスライムが減ったのか。
弱肉強食の世界なんだな。
僕は改めてドロドロを見つめた。
確かに弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
「どうする、聖?」
裕が尋ねてくる。
僕は少し悩んだ後、決心した。
「飼ってみる」
「マジか」
裕が少し驚いたような顔をした。
でもすぐに頷いて、辺りを見回す。
「じゃあ、とりあえず持って帰らないとな」
そう言って、近くのコンビニの方を指差した。
「何か買い物して袋もらうか」
◆
僕は近くのコンビニに入って、スポーツドリンクを二本買った。
レジで会計を済ませると、店員さんが「袋はご利用になりますか?」と聞いてくる。
「はい、お願いします」
白いビニール袋に入れてもらって、店を出る。
裕が待っていてくれた場所に戻ると、僕は袋から一本取り出して裕に差し出した。
「これ、わざわざ来てくれたお礼」
「お、サンキュー」
裕は遠慮なく受け取って、すぐに蓋を開けて飲み始めた。
「うまい。走ってきたから喉乾いてたんだよな」
そう言いながら、裕は残った袋を見る。
「じゃあ、こいつを入れるか」
裕が慎重にドロドロを袋に入れる。
「おい、大人しくしてろよ」
裕が声をかけると、ドロドロは素直に袋の中に収まった。
意外と聞き分けがいい。
「これで運べるな」
僕は袋を受け取った。
ずっしりと重い。
見た目より密度があるみたいだ。
「家の人に何て説明する?」
裕が心配そうに聞いてくる。
「正直に話すしかないかな」
僕は苦笑した。
「まあ、スライム飼うのは別に違法じゃないしな」
裕が励ますように言う。
「届け出は必要だけど、それも簡単だし。きっと大丈夫だって」
「そうだといいけど」
僕たちは並んで歩き始めた。
ビニール袋の中でドロドロが時々ぷるぷると動く。
まるで僕を確認しているみたいだ。
「そういえば、名前つけた方がいいぜ」
裕が提案する。
「名前?」
「ああ。スライムの躾けは名前から始まるって、ばあちゃんが言ってた」
名前か。
僕はビニール袋を見つめた。
真っ黒で、ドロドロしていて……
「クロ、でどうかな」
「シンプルだな」
裕が笑う。
「でも、いいんじゃね? 覚えやすいし」
僕もそう思った。
難しい名前より、シンプルな方がいい。
◆
家に着くと、ちょうど茂さんと悦子さんがリビングでお茶を飲んでいた。
「あ、聖くん、おかえり」
悦子さんが優しく声をかけてくれる。
「ただいま帰りました」
僕は挨拶をして、少し緊張しながら切り出した。
「あの、実は相談があって……」
「どうした?」
茂さんが顔を上げる。
僕は意を決してビニール袋を見せた。
「これ、スライムなんです。飼いたいんですけど」
茂さんが立ち上がって、ビニール袋を覗き込む。
「おお、スライムか。久しぶりに見たな」
意外にも、茂さんの反応はごく普通だった。
「黒いのは珍しいね。普通は透明か薄い色なのに」
「そうなんですか」
「職場でも飼ってる人、結構いるよ。書類の虫食い防止とか、細かい掃除とか、意外と役に立つんだ」
茂さんが興味深そうに観察している。
悦子さんも覗き込んできた。
「まあ、かわいいじゃない。名前は決めたの?」
「クロです」
「シンプルでいいわね」
悦子さんが微笑んだ。
拍子抜けするほどあっさりと受け入れてもらえて、僕は少し戸惑った。
「え、いいんですか?」
「スライムくらいなら問題ないよ」
茂さんが肩をすくめる。
「ただし、きちんと登録はすること。それと、最初の躾けはしっかりやるんだぞ」
「はい!」
僕は嬉しくて大きな声で返事をした。
「じゃあ、クロちゃんを洗面器に移してあげましょうか」
悦子さんが台所から洗面器を持ってきてくれた。
僕は慎重にビニール袋を傾けて、クロを洗面器に移す。
クロはぷるんと震えながら、洗面器の中に収まった。
「躾けは簡単だよ」
茂さんが説明を始める。
「スライムの前で、はっきりと命令を言うんだ。『人を襲うな』『物を壊すな』『勝手にどこかへ行くな』。強い意志を込めて言えば、ちゃんと刷り込まれる」
僕は深呼吸をして、クロを見つめた。
表面に小さな窪みが二つある。
それが目だと思って、じっと見つめる。
「人を襲うな」
できるだけ強い意志を込めて言う。
クロがぷるりと震えた。
「物を壊すな」
また震える。
「勝手にどこかへ行くな」
今度は大きく震えて、そして動きが止まった。
「よし、それでいい」
茂さんが満足そうに頷いた。
「後は定期的に同じことを繰り返せば、ちゃんと覚える」
そして、茂さんは少し真剣な表情になった。
「それと、聖。もしクロが何かやらかしてお皿とか割ってしまっても、叱るのはいいが害意をこめたりしちゃだめだぞ」
「消えちゃうから、ですよね」
僕の言葉に茂さんは頷いた。
「そうだ。スライムは本当に弱いんだ。それで誤ってスライムを殺してしまって、ショックを受けてふさぎこむ飼い主が結構いる」
茂さんの声には実感がこもっていた。
「職場でもそういう話を聞くことがある。可愛がっていたスライムを、ちょっとした不注意で消してしまって……」
悦子さんも付け加える。
「生き物を飼うということは、その命に責任を持つということよ」
「分かりました。気をつけます」
僕は真剣に答えた。
クロは洗面器の中で、じっとしている。
こんなに弱い存在なのに、僕に頼ってくれているんだ。
絶対に守ってあげないと。
「とりあえず、今夜は聖くんの部屋に置いておきましょう」
悦子さんが提案する。
「明日、ちゃんとした飼育環境を整えてあげるから」
「はい」
僕は洗面器を持って自分の部屋へ向かった。
まさか自分がペットを飼うことになるなんて。
しかもそれがスライムだなんて。
ちょっと楽しみかもしれない。
部屋に入って、洗面器ごとクロを机の上に置く。
クロは相変わらずじっとしている。
「よろしくね、クロ」
僕が声をかけると、クロが小さくぷるりと震えた。
返事をしてくれたみたいでなんだか嬉しくなった。