◆
時計は午前六時半。
最近の僕は目覚まし時計がなくても、決まった時間に目が覚めるようになっていた。
布団から体を起こし、大きく伸びをする。
骨がポキポキと小さな音を立てた。
「ん……」
視線を机の上に向ける。
昨夜置いたままのガラス製の大きな洗面器。
その中で、黒いスライム──クロが静かに佇んでいた。
まるで黒い水飴みたいだ。
つやつやとした表面が朝日を反射している。
「おはよう、クロ」
僕が声をかけると、クロの表面がぷるりと波打った。
これは多分返事。
クロは明らかに僕の言葉を理解している。
洗面器の縁に向かって、小さな触手のようなものが伸びてくる。
僕はベッドから降りて机に近づいた。
伸ばされた触手にそっと指で触れる。
ひんやりとした感触が気持ちよい。
「今日も元気そうだね」
クロはさらに大きく震えて、触手を僕の指に巻きつけてきた。
まるで握手をしているみたい。
クロを飼い始めてからしばらく、クロとの触れ合いはすっかり生活の一部になっている。
制服に着替えを済ませ、もう一度クロの様子を確認する。
「朝ごはん、食べる?」
そう聞くと、クロは洗面器の中で大きく体を膨らませた。
イエス──かな? 多分。
僕は階下のキッチンへ向かう。
悦子さんはもう朝食の準備をしていた。
「おはよう、聖くん」
「おはようございます。パン一枚もらっていってもいいですか?」
「クロちゃんの分?」
悦子さんが微笑みながら聞いてくる。
「はい」
「そう。でも栄養も考えてあげないとね」
そう言いながら、悦子さんは野菜くずの入った小さなタッパーを渡してくれた。
「これも持っていってあげて」
「ありがとうございます」
部屋に戻ると、クロは洗面器の縁に這い上がって待っていた。
食パンとタッパーを洗面器の前に置くと、クロがぶわりと広がって覆いかぶさった。
それから30秒ほど待つと、パンも野菜もすっかり消えていた。
最初はタッパーも吸収してしまったのだけれど、一度注意したら二回目からはタッパーは残してくれるようになったのだ。
犬や猫よりかなり賢いのではないだろうか。
それはともかく、僕は一つ気づいてしまった。
「おお……」
クロの体が、ほんの少しだけ大きくなっているのだ。
ぱっと目で見てわかる差じゃない。
けれどここしばらくクロをずっと観察してきた僕には分かる。
ほんの少しだけど大きくなっている。
「成長してるんだ」
思わず声が出る。
スライムも成長するものなんだな。
なんだか嬉しくなってしまう。
「もっと育って、僕のことを守れるくらい強くなってね」
冗談めかしてそう言ってみた。
すると──
ぴくり。
クロが震えた。
それを見て、言って後悔した。
「冗談だよ、僕が逆にクロを守らないといけないのにね」
僕は苦笑を浮かべる。
時計を見るとそろそろ家を出る時間だった。
「じゃあ、行ってくるね」
クロに声をかけて鞄を手に取って部屋をでた。
◆
特に何に襲われることもなく、巻き込まれることもなく無事に教室につく。
朝のホームルームまでまだ時間がある。
そろそろ裕も登校してくるころかな、とそう思った所で──
「よっ、聖!」
振り返ると、裕が満面の笑みで立っていた。
相変わらず朝から元気だ。
「クロ元気か?」
開口一番、クロのことを聞いてくる。
「うん、すごく元気だよ」
僕はスマホを取り出して先日撮った動画を見せる。
画面の中で、クロがゆっくりとうごめいている。
悦子さんは『ちょっと……不気味ね』なんて言ってたけど、僕はそうは思わない。
なんというか、奥ゆかしさを感じる。
まあ僕がそういうと、悦子さんは変な笑みを浮かべていたけれど。
「なんかこう、ただの黒じゃないな。艶があるっていうか」
さすが裕、よく見ている。
「そうなんだよ」
「俺は違いが判る男だからな」
裕が自慢げに頷く。
そこへ、凛とした声が割り込んできた。
「おはようございます」
アリスだ。
……そう、ここ最近、僕はアリスを名前で呼んでいた。
友達なんだから、とアリスが言ったので──いや、アリスは友達だから僕の意思でそう呼んでいる。
「何の話をしていらっしゃるの?」
「聖のスライムの話だよ。見ろよ、艶があるだろ?」
裕が答えると、アリスも興味を示した。
僕は動画を見せる。
アリスは真剣な表情で画面を見つめている。
「確かに……。愛情をもって育てている様ですわね、結構な事ですわ」
でも少し心配そうな表情も浮かべて言う。
「ただ、あまり変なものを食べさせないように気をつけてくださいまし」
「変なもの?」
「ええ。まあそうですわね、普通は食べさせないようなものとか……」
アリスが説明を始める。
「スライムは何でも食べるというのが通説ですけれど、消化不良を起こすこともありますの。そこらへんは個体差ですわね。さらに極稀に食べ物の好みがある個体もいるのだとか。嫌いなものを無理やり食べさせると、グレてしまって脱走することもあるのだとか」
へー、そうなんだ。
クロは今のところ何でも食べているけど、気をつけたほうがいいかもしれない。
「ありがとう、気をつけるよ」
僕が礼を言うとアリスは満足そうに頷いた。
三人でこうして話すのも、もう日常になった気がする。
最初は緊張していたけど今は自然に話せる。
どうやら僕自身のコミュニケーション能力も育ってきている──といいんだけど。
そんなことを考えていると、教室のあちこちから生徒たちの会話が聞こえてきた。
§
「マジで昨日さ、駅のホームで誰もいないのに『もしもし』って声かけられたんだけど」
隣のグループの女子が話している。
「それヤバいやつじゃん!」
「返事したらダメなやつでしょ?」
友達が心配そうに応える。
「そう! だから無視して逃げた」
「正解。下手したら連れていかれるよ」
彼女たちは笑いながら話しているけど、内容は笑い事じゃない。
異常領域や怪異の話が、まるで天気の話みたいに交わされている。
別の方向からも声が聞こえる。
「俺もこの前、変な電話かかってきたよ」
男子生徒が友達に話している。
「自分の番号からなんだぜ? 気持ち悪くて出なかったけど」
「それ、クローラー型の呪いじゃね?」
「だよな。速攻で着信拒否したわ」
クローラー型。
最近よく聞く都市伝説の一つだ。
電子機器を介して人を呪うタイプの怪異らしい。
「最近そういうの多くない?」
別の生徒が口を挟む。
「油断したら死んじゃう系」
「霊捜、ちゃんと仕事しろよな〜」
§
そんな会話を聞きながら、僕たち三人は顔を見合わせた。
裕が肩をすくめる。
「相変わらず物騒だよな」
「そうですわね」
アリスも同意する。
でも、誰も本当に恐れている様子はない。
みんな慣れてしまっているんだ。
異常な状況が日常になっているから。
ふと、話している生徒の一人が念動力でペンを浮かせて、くるくると回しているのが目に入った。
──いいなぁ
心の中で呟く。
ああいう風に、当たり前に能力を使えたら。
僕も何か役に立てるかもしれないのに。
「聖?」
裕の声で我に返る。
「どうした? ぼーっとして」
「いや、なんでもない」
誤魔化すように笑う。
でも裕もアリスは僕の目線をたどって──何か察したような顔をした。
きっと僕の劣等感は顔に出ていたんだろう。
二人とも優しいからそれ以上は追及してこないけど。
代わりに話題を変えてくれる。
「そういえばさ」
裕が明るい声で言う。
「今度の週末、みんなで遊びに行かない?」
「遊び?」
「映画でも見に行こうぜ。ホラー以外で」
僕もホラー以外がいい。
現実で十分ホラーなのに、わざわざ映画でまで見たくない。
そう思ってるのは僕だけじゃなく、いまやホラーというジャンルは一番人気がない零細ジャンルになってしまった。
「いいですわね」
アリスも乗り気だ。
「わたくしも賛成ですわ」
「聖も行くだろ?」
当然のように聞かれる。
僕は迷わず「もちろん」と頷いた。