◆
この日、僕は一人で下校していた。
部活は休みだ。
裕は運動部の補習があるとかで残っているし、アリスは家の事情で急いで帰るとのことだった。まあ、いつも三人で帰れるわけじゃないし、仕方ない。
空を見上げる。
さっきまで晴れていたはずなのに、いつの間にか厚い雲が広がっていた。
灰色というより、墨を流したような黒さ。風も生ぬるくなってきている。
──天気予報、確か夕方から崩れるって言ってたっけ
スマホで確認すると、確かに降水確率は80%。折りたたみ傘をカバンに入れておいて正解だった。
ぽつり。
頬に冷たいものが当たる。
ぽつ、ぽつ。
あっという間に雨粒が増えていく。
「うわ、もう降ってきた」
慌てて近くの軒下に駆け込んだ。カバンから折りたたみ傘を取り出そうとして──
ざあああああ。
突然、バケツをひっくり返したような土砂降りになった。軒下にいても水しぶきが飛んでくる。視界が白く煙って、向こう側の景色がほとんど見えない。
「ひどいな、これ……」
傘を広げても、この雨じゃびしょ濡れになりそうだ。少し様子を見ようかと思った時、ふと気づいた。
少し離れたコンビニの前。その駐車場の真ん中に、一人の男の子が立っている。
小学校高学年くらいだろうか。紺色の半ズボンに白いシャツ、ランドセルを背負っている。そして手には──
──番傘?
時代劇に出てくるような、和風の傘だった。竹の骨組みに和紙を張った、ごく普通の茶色い番傘。地味で質素な、どこにでもありそうなもの。いや、当時ならって話だ。今の時代ではむしろ珍しいだろう。
でも、変なのはそれだけじゃなかった。
男の子は傘を持っているのに、差そうとしない。ただじっと立っているだけ。
親を待ってるのかな?
僕はそう思ったけれど、もし親が店内にいるなら外で待っているのはちょっとおかしい。
ちょうどその時、コンビニから買い物客が出てきた。
傘を差そうとして──男の子に気づいた瞬間、顔色が変わった。
「ひっ」
小さく声を上げて、そそくさと反対方向へ走り去っていく。まるで何か恐ろしいものを見たかのように。
続いて出てきた中年の男性も、男の子を一瞥するなり眉をひそめ、舌打ちをしながら足早に立ち去った。
コンビニの自動ドア越しに店員の姿が見える。
若い男性店員が迷惑そうな顔で男の子を見ていた。
時々、同僚と何か話しているようだ。
きっと「また来てる」とか「警察呼んだ方がいいんじゃない?」とか、そんなことを言っているんだろう。
──なんだよ、それ
確かに男の子は変わっている。
顔色も悪いし、目つきもぼんやりしている。
何か訳ありなのは間違いなさそうだ。
でもだからって、そんな風に避けたり、迷惑がったりする必要があるだろうか。
ただの子供じゃないか。
──傘、もしかして壊れてるのかな?
そう思って、僕は軒下から飛び出した。折りたたみ傘を広げて、男の子に駆け寄る。
「君、大丈夫?」
声をかけると、男の子がゆっくりとこちらを向いた。
大きな瞳。
でもどこか焦点が合っていないような、ぼんやりとした目つき。唇は青白く、頬には雨粒が川のように流れている。
「傘、壊れてるの?」
男の子は何も答えない。
ただ、番傘を見つめている。
──もしかして、差し方が分からないとか?
番傘って、普通の傘とは開き方が違うのかもしれない。
「えっと、僕の傘でよかったら……」
折りたたみ傘を差し出した。
男の子の目が、初めて僕を見た。まっすぐに、じっと。
なんだろう、この感じ。視線に重みがあるというか、見透かされているというか。背筋がぞくっとする。
でも、次の瞬間──
男の子は深々と頭を下げた。
そして、持っていた番傘を僕に差し出してきた。
「え?」
戸惑う僕。
男の子は無言のまま、番傘を押し付けるように差し出してくる。
受け取れ、と言っているみたいだ。
「いや、でもこれ君のだし……」
まあ僕のを渡してしまったら今度は僕がぬれる事になってしまいそうだけど、コンビニでビニール傘でも買えばいいだろう。
いや、まて、むしろビニール傘のほうを渡した方が良いんじゃないのか?
そんな事を考えていると──
とん。
男の子は番傘を地面に置いて、僕の折りたたみ傘を持ってくるりと背を向けた。
「あ、ちょっと!」
止める間もなく、男の子は雨の中を走り去っていく。
小さな背中があっという間に白い雨のカーテンに消えていった。
残されたのは僕と地面に置かれた番傘だけ。
──どうしよう
追いかけようにも、もう姿は見えない。
番傘をこのまま置いていくわけにもいかないし。
仕方なく番傘を拾い上げた。
思ったより軽い。
でも、しっかりとした作りだ。
持ち手の部分には何か文字が彫られているけど、雨で濡れていてよく読めない。
とりあえず開いてみる。
かしゃん、と小気味よい音がして、傘が広がった。
──壊れてはいないみたいだ。
でも、これ人のものだし……。
明日また同じ場所で待ってみるか。
悩みながら、とりあえず番傘を差して歩き始めた。
不思議なことに、この傘を差していると雨がそれほど激しく感じない。
まるで傘が雨を優しく受け止めて、静かに流してくれているみたいだ。
家に着く頃には、雨はすっかり小降りになっていた。
◆
「ただいま」
玄関で声をかけるとリビングから悦子さんの返事が聞こえた。
「おかえりなさい、聖くん。雨、大丈夫だった?」
「うん、途中で降られたけど」
番傘を傘立てに入れようとして、ふと手が止まった。
──これ、どう説明しよう
拾った、というのも変だし、もらった、というのも説明が面倒そうだ。
「あら、珍しい傘ね」
いつの間にか玄関に来ていた悦子さんが、番傘を見て少し驚いたような顔をした。
「これ、聖くんの? 折りたたみ傘持って行ったわよね?」
「えっと……傘をなくしちゃって」
咄嗟に嘘をついてしまった。
「まあ、そうなの」
悦子さんは少し心配そうな顔をしたけれど、特に叱ることはなかった。
「でも、和傘って珍しいわね。どこで買ったの?」
「その……コンビニで傘を買おうとしたら、知らないおじいさんが使えって……」
──嘘が下手すぎる
でも悦子さんは深く追及せず、優しく微笑んだ。
「そう。親切な人もいるのね」
「うん、助かったけど──」
悪い事はしていないけれど、罪悪感が凄い!
というか僕はなぜ隠してるんだ?
子供がいました。傘を持ってたけれど差してませんでした。壊れてるのかなとおもいました。咄嗟に自分の傘をあげちゃいました。そしたらなぜか番傘貰いました──随分と変な話だけれど、嘘じゃないし良いじゃないか。
万が一、盗んだとか思われていたらと思うと嘘をつくメリットは全くないような気がした。
そう思って僕が口を開こうとすると──
「別にいいわよ、言いづらいなら言わなくて」
悦子さんがそんな事を言うではないか。
「え、えっと……」
僕はしどろもどろだった。
「聖君が悪いことをしたわけじゃないのはなんとなく
「え、あ……はい……ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ」
悦子さんは優しく首を振った。
「でもその傘、ちゃんと乾かしてあげてね。和傘は手入れが大事だから」
「うん、分かった」
僕は番傘を手に取った。
水滴が滴っているけれど、不思議と傘自体はそれほど濡れていない感じがする。
「それにしてもいい傘ね」
悦子さんが番傘を眺めながら言う。
「職人さんの手作りかしら。最近はこういうの、なかなか見ないから」
そう言いながら、悦子さんは傘の骨組みを優しく触った。
その瞬間──
「あら?」
悦子さんの表情が少し変わった。
「どうかした?」
「いえ、なんでもないわ。ただ……」
悦子さんは首を傾げる。
「なんというか、不思議な感じがして。温かいような……」
──温かい?
僕も傘に触れてみたけれど、特に何も感じない。
ただの濡れた傘だ。
「気のせいかしら」
悦子さんは小さく笑って、話題を変えた。
「ところで聖くん、今日は部活お休みだったの?」
「うん」
「そう。たまにはゆっくりできていいじゃない」
悦子さんはそう言いながらリビングに戻っていった。
僕は番傘を持って二階の自分の部屋へ向かう。
階段を上りながら、ふと思った。
──あの男の子、大丈夫かな
そもそも、どうして傘を交換したがったんだろう。
部屋に入って窓際に番傘を立てかけた。
水滴を一通りふき取っておく。
カーテン越しの薄明かりに照らされて、和紙がほんのりと光って見える。
持ち手の文字も、少し乾いて読めるようになってきた。
古い漢字で……なんて読むんだろう。
「雨」という字は分かるけれど、その後が達筆すぎて判読できない。
──明日、あのコンビニに行ってみよう
もし会えたらちゃんと返そう。
窓の外を見ると雨はすっかり上がっていた。
西の空に夕焼けが少しだけ顔を覗かせている。
◆
夕食後、家族でテレビを見ていた。
いつものバラエティ番組が終わって、画面が切り替わる。
『緊急会見を行います』
アナウンサーの声が響いた。
画面には「内閣総理大臣緊急会見」の文字。
「あら、何かあったのかしら」
悦子さんが心配そうに呟く。
茂さんもリモコンを置いて、真剣な表情で画面を見つめた。
やがて会見場に一人の男性が現れた。
氷室兼続。
現在の内閣総理大臣だ。
銀髪を後ろに撫でつけ、鋭い眼光、彫りの深い顔立ち。
まだ五十代前半という若さながらカリスマ性があるというか、画面越しでも存在感がすごい。
『国民の皆様』
低く、よく通る声が響いた。
『本日は昨今頻発している異常現象について、私の考えをお伝えしたくこの場を設けさせていただきました』
氷室はゆっくりと言葉を続ける。
『多くの方々が、街中で、あるいは自宅で、説明のつかない現象に遭遇し、不安な日々を送っていることと存じます。政府として、霊異対策本部を中心に全力で対応にあたっていることは皆様もご承知の通りです』
一呼吸置いて。
『しかし、私は思うのです』
氷室の目が、カメラを通して視聴者一人一人を見つめているような錯覚を覚える。
『これは、本当に「災害」なのでしょうか?』
──え?
思わず身を乗り出した。
茂さんも眉をひそめている。
『確かに犠牲者が出ていることは事実です。それは痛ましいことであり、政府として全力で防がねばなりません。しかし──』
氷室は身を乗り出すようにして続けた。
『人類の歴史を振り返れば、大きな変革の前には必ず混乱が生じてきました。農耕の開始、産業革命、情報革命……。今、我々が直面しているのは、それらに匹敵する、いや、それ以上の大変革なのかもしれません』
会見場がざわめいた。
記者たちも予想外の発言に戸惑っているようだ。
『異能の覚醒、異界の顕現──これらは災厄ではなく、人類が次の段階へ進化するための試練なのだと、私は考えています』
氷室の声に熱がこもる。
『旧来の価値観にしがみつき、変化を恐れる者に未来はありません。異常を異常と恐れるのではなく、新たな可能性として受け入れる。弱者は淘汰され、強者が生き残る。それが自然の摂理です』
──なんだこれ
背筋が寒くなった。
総理大臣が、公の場でこんなことを言うなんて。
『無論、全ての国民を守ることは政府の責務です。しかし同時に、この変革の波に乗り、新たな時代を切り開く先駆者たちを支援することも、我々の使命だと考えています』
氷室は一呼吸置いて、さらに続けた。
『異能を持つ者と持たざる者。その差は確かに存在します。しかし、それは優劣ではありません。それぞれが、それぞれの役割を持って、新たな社会を構築していく。選ばれし者がリードし、その他の者がそれを支える。そうした調和の取れた社会こそが、我々の目指すべき未来なのです』
選ばれし者。
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
僕は選ばれなかった側の人間だ。
異能なんて欠片も持っていない。
『政府は今後、異能者の育成により一層力を入れていきます。同時に、一般国民の皆様にも、この大いなる変革を恐れることなく、共に新時代を築いていただきたい』
最後に氷室は、カメラを真っ直ぐ見つめて言った。
『変化を恐れるな。進化を受け入れよ。それこそが、人類の未来を切り開く鍵なのです』
会見が終わり、画面がスタジオに戻った。
キャスターも、コメンテーターも、明らかに困惑している。
用意していた原稿が使えなくなったような、そんな雰囲気。
「なんだか、少し怖い言い方ね……」
悦子さんが不安げに呟いた。
「人心を掴むためのパフォーマンスだろうが、過激だな……」
茂さんも渋い顔をしている。
僕は何も言えなかった。
選ばれし者と、そうでない者。
異能を持つ者がリードする社会。
それって、僕みたいな人間はどうなるんだろう。
ただ支えるだけの存在? 守られるだけの存在?
──やだな、そんなの
でも、現実はもうそうなりつつある。
学校でも異能の有無で扱いが違う。
就職だって「霊感採用枠」なんてものがある。
◆
その夜はなかなか寝付けなかった。
氷室総理の言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
進化、変革、選ばれし者……。
──僕も何か変わることができればいいんだけど
お姉さんに守られているだけでは駄目だ、と思う。
「能力開発セミナー、ちょっと考えてみようかな」
詐欺も多いらしいから、もし本気で受けるなら気を付けないといけないけれど。
それにお金の問題もある──アルバイトもしてみようかな。