◆
目を開けると一面の黄金色が広がっていた。
小麦畑だ。
風が吹くたびに波のように揺れる穂が、さらさらという優しい音を立てている。
太陽の光を受けて、まるで金色の海みたいだ。
──“これ”はお姉さんの夢だ
すぐに分かった。
この懐かしい風景、暖かい空気、そして何よりこの安心感。
お姉さんがいる夢の中でしか感じられない特別な感覚だ。
立ち上がると、制服はもう濡れていない。
さっきまでの下水道の悪臭も、全身の痛みも、まるで嘘みたいに消えている。
遠くを見る。
小麦畑の向こう、地平線に近い場所に白い人影が見えた。
お姉さんだ。
遠くからでも、その長身がはっきりと分かる。
白いワンピースが風になびいている。
薄い生地が陽光を透かして、豊かな曲線がうっすらと浮かび上がる。
長い黒髪が風に遊んで、なんというか──芸術的? うん、そんな感じだ。
お姉さんがこちらを見ている。
距離があるはずなのにお姉さんの表情がはっきりと分かる。
まるで──
"おいで"
そう言われているような気がした。
僕は駆け出していた。
小麦の穂を掻き分けて、まっすぐにお姉さんの方へ。
◆
お姉さんは両腕を広げて待っていてくれた。
その姿を見て、胸の奥が熱くなる。
白い腕が招くようにゆらりと動く。
もっと速く、もっと速く──
息が切れても、足が重くなっても、走るのをやめない。
そして──
勢いそのままに、僕はお姉さんに抱きついた。
ぎゅっと。
僕の顔はちょうどお姉さんの胸の真ん中あたりに埋まった。
柔らかい膨らみに顔が挟まれて、息をするのも忘れそうになる。
普段なら絶対にできない。
恥ずかしくて、怖くて、相手に迷惑かもしれないって考えて。
でも今は違う。
なぜか今は余り気にならない。
それに──
お姉さんがそうしてほしがっているように思えたからだ。
柔らかい。
お姉さんの体は思っていたよりもずっと柔らかくて、温かい。
薄い布一枚隔てただけの肌の感触が、僕の頬に伝わってくる。
石鹸みたいな清潔な香りと、ほんのり甘い花の匂い──そしてお姉さん自身の匂いが混じっている。
顔を埋めた谷間からお姉さんの体温と匂いが立ち上ってくる。
僕が抱きつくと、お姉さんも優しくでもしっかりと抱き返してくれた。
長い腕が僕をすっぽりと包み込む。
まるで大きな繭に包まれたみたいだ。
お姉さんが少し屈んで、僕の頭を撫でてくれる。
大きな手のひらが頭全体を覆うように動く。
指先が髪をかき分けて、耳の後ろをそっと撫でる。
それだけじゃない。
お姉さんが更に身を屈めて、僕の耳元に顔を近づけてくる。
吐息が耳朶に触れる。
熱い。
湿った息が耳の中まで入ってきそうで、全身が粟立つ。
そして──首筋にお姉さんの唇が触れた。
今度は偶然じゃない。
明らかに、意図的に。
柔らかな唇が僕の首筋をゆっくりとなぞっていく。
ちゅ、と小さな音を立てて。
膝が震える。
立っていられなくなりそうだ。
お姉さんはそんな僕を支えるように、もっと強く抱きしめてくれる。
僕の体が少し持ち上がって、足がほとんど地面から離れた。
完全にお姉さんに身を預ける形になる。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。
お姉さんの心臓の音も、薄い布越しに感じられる。
とくん、とくん、という規則正しいリズム。
でも、確実に速くなっている。
お姉さんも同じように感じているんだ。
二つの鼓動が重なっている。
お姉さんの太ももが僕の下半身に触れた。
身長差のせいで、僕の腰のあたりにお姉さんの太ももがある。
すべすべした肌の感触が、ズボン越しにも伝わってくる。
危険だ。
これ以上は本当に──
さすがに僕も恥ずかしくなって少し体を離そうとした。
でも、お姉さんは離してくれない。
代わりに少し体勢を変えて、僕を見下ろしてくる。
顔が熱い。
きっと真っ赤になっているに違いない。
お姉さんの頬もほんのりと朱に染まっていた。
潤んだ瞳で僕を見つめている。
唇が小さく開いて、ピンク色の舌先がちらりと見えた。
長い睫毛がゆっくりと瞬く。
ここは不思議だ。
なんというか自分に嘘がつけない。
普段なら「別に」とか「そんなんじゃない」とか言い訳するところなのに。
ここでは素直な気持ちが、欲望さえも溢れ出してしまう。
お姉さんは僕を見て今度は優しく抱き寄せてくれた。
さっきみたいに激しくじゃない。
ゆっくりと慈しむように。
僕の頭をそっと胸に抱いて、髪を撫でてくれる。
「あの時はごめんなさいね、聖君」
低く、甘い響きに僕の背筋は少し恥ずかしい意味でぞわっとした。
「無事で良かった……もっと"こちら側"に近い世界なら、私もちゃんと聖君を守れたのに」
──お姉さんは僕をいつも守ってくれている
そのことを言おうとした。
でも言葉が出ない。
喉が詰まったみたいに、声が出せない。
気持ちの問題じゃなくて物理的に出ないのだ。
口を開けても空気だけが漏れていく。
夢の中ってそんなものなんだろうか。
でもお姉さんの声はちゃんと聴こえるのに……。
不公平だ、と思う。
僕も伝えたいことがたくさんあるのに。
お姉さんがふと空を見上げた。
僕も釣られて見上げる。
真っ青な空。
雲一つない、完璧な青。
空がきれいだから見上げている? いや──
お姉さんは漠然と空を見ているのではなくて、何かを見定めているような……。
眉間に小さな皺が寄っている。
警戒? それとも──
そして少し考えるそぶりをしたあと。
「……まあ、いいわ。聖君の身の安全が第一だから」
独り言みたいに呟いた。
そして、もう一度僕をぎゅっと抱きしめる。
今度は本当に強く。
息が詰まるくらい強く。
でも苦しくない。
むしろ、もっとこうしていたい。
何が「いい」のか分からない。
聞きたくても声が出ない。
もどかしい。
ややあって、だんだんと気が遠くなっていく。
視界の端から世界が溶けていくようにボヤけていった。
小麦畑の金色が薄れていく。
お姉さんの姿も少しずつ透けていく。
いやだ、まだここに居たい──
「そろそろ起きる時間ね、聖君」
お姉さんが寂しそうに微笑む。
そして、最後に──
お姉さんが身を屈めて、僕の額にそっと唇を押し当てた。
柔らかくて温かい感触だった。
「今はこうして夢の中でしかちゃんと話せないけれど、いずれ──」
最後の言葉は聞き取れなかった。
音が遠ざかっていく。
光が消えていく。
でも額に残った感触だけは、はっきりと残っている。
意識が深い闇の中へと沈んでいく。
◆
重い瞼を開けると、見慣れない天井があった。
白い。
蛍光灯の光が眩しい。
消毒液の匂い。
──病院?
体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめる。
特に右肩と腰がズキズキと疼いた。
でも、なんだか胸のあたりに生暖かい感触を感じる。
見ると、クロだった。
いや、クロ……なのか?
いつもより明らかに小さい。
手のひらに乗るくらいのサイズになっている。
でも間違いなくクロだ。
つやつやした黒い体が、僕の胸の上でぷるぷると震えている。
「クロ? どうしたの、そんなに小さくなって……餌、足りなかったとか?」
僕が声をかけると、クロはぶるりと二度度大きく震えた。
まるで「違うよ」と言っているかのようだった。
そのあとは僕の胸にべちゃりと広がって、一度だけ
今度は「心配していたよ」と言っているような気がした。
なんというのかな、クロの言いたい事というか、気持ちがわかるような気がする。
多分思い込みなんだろうけど、それにしても──。
「ごめんね、心配かけて」
そっと指でクロを撫でる。
ひんやりとした感触が心地いい。
でも、どうやってここまで来たんだろう?
コンコン、とドアをノックする音がした。
「聖君、起きてる?」
悦子さんの声だ。
「は、はい」
慌ててクロを布団の中に隠そうとしたけど──
「あ、もう起きてたのね」
ドアが開いて、悦子さんが心配そうな顔で入ってきた。
その後ろから茂さんも。
僕は慌ててクロを隠そうとしたけど、間に合わなかった。
「あら、クロちゃん、聖君の事を起こしちゃったの? もう、凄い速さで聖君の病室へ滑るようにして走っていったんだから……。いえ、流れる? うーん……」
そんな事を言いながら悦子さんがクロを見て微笑んだ。
え?
「実はね、クロちゃんなんだけれど……」
悦子さんが説明を始める。
「聖君のお見舞いに行くって声をかけたら、その、ぷつりとね。体が分かれちゃって」
──分かれた?
僕は目を丸くする。
「大きい方はお家で留守番してるんだけど、小さい方を連れてきたのよ。というか、バッグの中に入ってきちゃって」
悦子さんが苦笑しながらバッグを指さす。
「随分となついてるのねぇ。聖君のこと、本当に心配してたみたい」
そうか、クロは分裂できるんだ。
知らなかった。
というか、スライムってそんなことできるの?
「まあ、病院にペットは本当はダメなんだけど」
茂さんが呆れたような声を出す。
「これくらい小さければ、まあ……うん、余り見せびらかしたりするなよ」
諦めたような顔をしている。
でも怒ってはいないみたいだ。
「心配したんだから」
悦子さんが僕の頭を優しく撫でる。
「でも無事でよかった」
「ごめんなさい……」
謝ると、茂さんが椅子に座った。
「謝ることはない。ただ、詳しく話を聞かせてもらう必要がある」
その表情は真剣だ。
「河童に襲われたと言っていたな」
「はい……」
僕は記憶を辿りながら、ゆっくりと話し始めた。
マンホールから引きずり込まれたこと。
下水道で河童の群れに囲まれたこと。
そして──
「それで、どうやって河童から逃げたんだ?」
茂さんの質問に、僕は言葉に詰まった。
お姉さんのことは──言えない。
信じてもらえないかもしれないし、何より、お姉さんに迷惑がかかるかもしれない。
「その……よく覚えてないんです」
嘘をついた。
クロが僕の手をそっと触手で撫でた。
まるで「大丈夫だよ」って言ってくれているみたい。
茂さんは僕をじっと見つめる。
まるで心の中を見透かすような眼差し。
でも、それ以上は追及してこなかった。
「そうか。まあ、極限状態だったからな」
代わりに別の話を始める。
「現場を調査したところ、確かに河童の痕跡があった。しかも相当数だ」
茂さんの声が重い。
「だが奇妙なことに、一体だけミイラ化した死骸があった」
──お姉さんが倒したやつだ
僕は内心で呟く。
「まるで水分を全て抜き取られたような状態でな。通常の河童の死に方じゃない」
鋭い視線が僕に向けられる。
「本当に何も覚えていないのか?」
「……はい」
また嘘をついた。
胸が痛い。
でもこれしか方法がない。
僕は“お姉さん”が良くないモノだとは思っていない。
でも、僕以外の人にとっては別だということ位は分かっている。
それには多分理由があるのだろう。
その理由はきっと、僕が故郷を離れて東京で暮らしている理由と関係があるはずだ。
“お姉さん”の事は誰にも言ってはいけない──僕はそう思っている。
「まあ、今は休みなさい」
悦子さんが優しく言って、場の空気を和らげた。
「怪我も大したことないし、明日には退院できるそうよ」
「体は資本だ。しっかり休め」
茂さんもそう言って立ち上がった。
「それと、クロ」
茂さんが小さなクロを見る。
「お前も聖を頼むぞ」
クロがぷるっと震えた。
まるで「任せて」って言ってるみたい。
二人が部屋を出て行くのを見送って、僕はほっと息をついた。
「ありがとう、クロ」
小声で礼を言うと、クロが僕の頬に触手を伸ばしてきた。
ぺたっと張り付いて、そのまま動かない。
温かい。
いや、スライムは体温がないはずだけど、なんだか温かく感じる。
そういえば、と僕はスマホを見てみた。
画面を見ると、大量のメッセージが来ている。
『聖! 大丈夫か!? おばさんに聞いたぞ!』
裕からのメッセージが何件か。
アリスからも。
『御堂君、ご無事ですか? 大変心配しております』
『お怪我の具合はいかがでしょうか』
『快復をお祈りしています』
相当心配してくれていたんだな。
僕は震える指で返信を打った。
『心配かけてごめん。もう大丈夫だよ』
送信するとすぐに既読がついた。
そして間髪入れずに返信が。
『バカ! 心配したんだからな!』
『ちゃんと治してから学校来いよ! 無理すんなよ!』
『退院したら連絡しろ! ノート貸してくれ!』
心配してもらえてうれしいけれど、ノート貸してくれってどういう事なんだろうか。
裕は裕だなぁ、なんて思っていると──
アリスからもメッセージが返ってきた。
『本当によかったです。ゆっくり休んでくださいね』
『お見舞いに行きたいところですが、今はお体を休めることを優先してください』
二人の心遣いが嬉しい。
僕は返信を打つ。
『ありがとう。心配かけてごめん』
『退院したらすぐ学校行くから』
送信してからふと思う。
こんな風に心配してくれる友達がいるって幸せなことだな、って。
「あー、死ななくてよかった」
口に出して言うとなんだか馬鹿みたいに聞こえるけれど、混じりっけなしの本音だ。
その声に応える様にクロが一度、ぶるりと大きく震えた。