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第5話「夢」


 ◆


 目を開けると一面の黄金色が広がっていた。


 小麦畑だ。


 風が吹くたびに波のように揺れる穂が、さらさらという優しい音を立てている。


 太陽の光を受けて、まるで金色の海みたいだ。


 ──“これ”はお姉さんの夢だ


 すぐに分かった。


 この懐かしい風景、暖かい空気、そして何よりこの安心感。


 お姉さんがいる夢の中でしか感じられない特別な感覚だ。


 立ち上がると、制服はもう濡れていない。


 さっきまでの下水道の悪臭も、全身の痛みも、まるで嘘みたいに消えている。


 遠くを見る。


 小麦畑の向こう、地平線に近い場所に白い人影が見えた。


 お姉さんだ。


 遠くからでも、その長身がはっきりと分かる。


 白いワンピースが風になびいている。


 薄い生地が陽光を透かして、豊かな曲線がうっすらと浮かび上がる。


 長い黒髪が風に遊んで、なんというか──芸術的? うん、そんな感じだ。


 お姉さんがこちらを見ている。


 距離があるはずなのにお姉さんの表情がはっきりと分かる。


 まるで──


 "おいで"


 そう言われているような気がした。


 僕は駆け出していた。


 小麦の穂を掻き分けて、まっすぐにお姉さんの方へ。


 ◆


 お姉さんは両腕を広げて待っていてくれた。


 その姿を見て、胸の奥が熱くなる。


 白い腕が招くようにゆらりと動く。


 もっと速く、もっと速く──


 息が切れても、足が重くなっても、走るのをやめない。


 そして──


 勢いそのままに、僕はお姉さんに抱きついた。


 ぎゅっと。


 僕の顔はちょうどお姉さんの胸の真ん中あたりに埋まった。


 柔らかい膨らみに顔が挟まれて、息をするのも忘れそうになる。


 普段なら絶対にできない。


 恥ずかしくて、怖くて、相手に迷惑かもしれないって考えて。


 でも今は違う。


 なぜか今は余り気にならない。


 それに──


 お姉さんがそうしてほしがっているように思えたからだ。


 柔らかい。


 お姉さんの体は思っていたよりもずっと柔らかくて、温かい。


 薄い布一枚隔てただけの肌の感触が、僕の頬に伝わってくる。


 石鹸みたいな清潔な香りと、ほんのり甘い花の匂い──そしてお姉さん自身の匂いが混じっている。


 顔を埋めた谷間からお姉さんの体温と匂いが立ち上ってくる。


 僕が抱きつくと、お姉さんも優しくでもしっかりと抱き返してくれた。


 長い腕が僕をすっぽりと包み込む。


 まるで大きな繭に包まれたみたいだ。


 お姉さんが少し屈んで、僕の頭を撫でてくれる。


 大きな手のひらが頭全体を覆うように動く。


 指先が髪をかき分けて、耳の後ろをそっと撫でる。


 それだけじゃない。


 お姉さんが更に身を屈めて、僕の耳元に顔を近づけてくる。


 吐息が耳朶に触れる。


 熱い。


 湿った息が耳の中まで入ってきそうで、全身が粟立つ。


 そして──首筋にお姉さんの唇が触れた。


 今度は偶然じゃない。


 明らかに、意図的に。


 柔らかな唇が僕の首筋をゆっくりとなぞっていく。


 ちゅ、と小さな音を立てて。


 膝が震える。


 立っていられなくなりそうだ。


 お姉さんはそんな僕を支えるように、もっと強く抱きしめてくれる。


 僕の体が少し持ち上がって、足がほとんど地面から離れた。


 完全にお姉さんに身を預ける形になる。


 心臓がどくどくと早鐘を打つ。


 お姉さんの心臓の音も、薄い布越しに感じられる。


 とくん、とくん、という規則正しいリズム。


 でも、確実に速くなっている。


 お姉さんも同じように感じているんだ。


 二つの鼓動が重なっている。


 お姉さんの太ももが僕の下半身に触れた。


 身長差のせいで、僕の腰のあたりにお姉さんの太ももがある。


 すべすべした肌の感触が、ズボン越しにも伝わってくる。


 危険だ。


 これ以上は本当に──


 さすがに僕も恥ずかしくなって少し体を離そうとした。


 でも、お姉さんは離してくれない。


 代わりに少し体勢を変えて、僕を見下ろしてくる。


 顔が熱い。


 きっと真っ赤になっているに違いない。


 お姉さんの頬もほんのりと朱に染まっていた。


 潤んだ瞳で僕を見つめている。


 唇が小さく開いて、ピンク色の舌先がちらりと見えた。


 長い睫毛がゆっくりと瞬く。


 ここは不思議だ。


 なんというか自分に嘘がつけない。


 普段なら「別に」とか「そんなんじゃない」とか言い訳するところなのに。


 ここでは素直な気持ちが、欲望さえも溢れ出してしまう。


 お姉さんは僕を見て今度は優しく抱き寄せてくれた。


 さっきみたいに激しくじゃない。


 ゆっくりと慈しむように。


 僕の頭をそっと胸に抱いて、髪を撫でてくれる。


「あの時はごめんなさいね、聖君」


 低く、甘い響きに僕の背筋は少し恥ずかしい意味でぞわっとした。


「無事で良かった……もっと"こちら側"に近い世界なら、私もちゃんと聖君を守れたのに」


 ──お姉さんは僕をいつも守ってくれている


 そのことを言おうとした。


 でも言葉が出ない。


 喉が詰まったみたいに、声が出せない。


 気持ちの問題じゃなくて物理的に出ないのだ。


 口を開けても空気だけが漏れていく。


 夢の中ってそんなものなんだろうか。


 でもお姉さんの声はちゃんと聴こえるのに……。


 不公平だ、と思う。


 僕も伝えたいことがたくさんあるのに。


 お姉さんがふと空を見上げた。


 僕も釣られて見上げる。


 真っ青な空。


 雲一つない、完璧な青。


 空がきれいだから見上げている? いや──


 お姉さんは漠然と空を見ているのではなくて、何かを見定めているような……。


 眉間に小さな皺が寄っている。


 警戒? それとも──


 そして少し考えるそぶりをしたあと。


「……まあ、いいわ。聖君の身の安全が第一だから」


 独り言みたいに呟いた。


 そして、もう一度僕をぎゅっと抱きしめる。


 今度は本当に強く。


 息が詰まるくらい強く。


 でも苦しくない。


 むしろ、もっとこうしていたい。


 何が「いい」のか分からない。


 聞きたくても声が出ない。


 もどかしい。


 ややあって、だんだんと気が遠くなっていく。


 視界の端から世界が溶けていくようにボヤけていった。


 小麦畑の金色が薄れていく。


 お姉さんの姿も少しずつ透けていく。


 いやだ、まだここに居たい──


「そろそろ起きる時間ね、聖君」


 お姉さんが寂しそうに微笑む。


 そして、最後に──


 お姉さんが身を屈めて、僕の額にそっと唇を押し当てた。


 柔らかくて温かい感触だった。


「今はこうして夢の中でしかちゃんと話せないけれど、いずれ──」


 最後の言葉は聞き取れなかった。


 音が遠ざかっていく。


 光が消えていく。


 でも額に残った感触だけは、はっきりと残っている。


 意識が深い闇の中へと沈んでいく。


 ◆


 重い瞼を開けると、見慣れない天井があった。


 白い。


 蛍光灯の光が眩しい。


 消毒液の匂い。


 ──病院? 


 体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめる。


 特に右肩と腰がズキズキと疼いた。


 でも、なんだか胸のあたりに生暖かい感触を感じる。


 見ると、クロだった。


 いや、クロ……なのか? 


 いつもより明らかに小さい。


 手のひらに乗るくらいのサイズになっている。


 でも間違いなくクロだ。


 つやつやした黒い体が、僕の胸の上でぷるぷると震えている。


「クロ? どうしたの、そんなに小さくなって……餌、足りなかったとか?」


 僕が声をかけると、クロはぶるりと二度度大きく震えた。


 まるで「違うよ」と言っているかのようだった。


 そのあとは僕の胸にべちゃりと広がって、一度だけ


 今度は「心配していたよ」と言っているような気がした。


 なんというのかな、クロの言いたい事というか、気持ちがわかるような気がする。


 多分思い込みなんだろうけど、それにしても──。


「ごめんね、心配かけて」


 そっと指でクロを撫でる。


 ひんやりとした感触が心地いい。


 でも、どうやってここまで来たんだろう? 


 コンコン、とドアをノックする音がした。


「聖君、起きてる?」


 悦子さんの声だ。


「は、はい」


 慌ててクロを布団の中に隠そうとしたけど──


「あ、もう起きてたのね」


 ドアが開いて、悦子さんが心配そうな顔で入ってきた。


 その後ろから茂さんも。


 僕は慌ててクロを隠そうとしたけど、間に合わなかった。


「あら、クロちゃん、聖君の事を起こしちゃったの? もう、凄い速さで聖君の病室へ滑るようにして走っていったんだから……。いえ、流れる? うーん……」


 そんな事を言いながら悦子さんがクロを見て微笑んだ。


 え? 


「実はね、クロちゃんなんだけれど……」


 悦子さんが説明を始める。


「聖君のお見舞いに行くって声をかけたら、その、ぷつりとね。体が分かれちゃって」


 ──分かれた? 


 僕は目を丸くする。


「大きい方はお家で留守番してるんだけど、小さい方を連れてきたのよ。というか、バッグの中に入ってきちゃって」


 悦子さんが苦笑しながらバッグを指さす。


「随分となついてるのねぇ。聖君のこと、本当に心配してたみたい」


 そうか、クロは分裂できるんだ。


 知らなかった。


 というか、スライムってそんなことできるの? 


「まあ、病院にペットは本当はダメなんだけど」


 茂さんが呆れたような声を出す。


「これくらい小さければ、まあ……うん、余り見せびらかしたりするなよ」


 諦めたような顔をしている。


 でも怒ってはいないみたいだ。


「心配したんだから」


 悦子さんが僕の頭を優しく撫でる。


「でも無事でよかった」


「ごめんなさい……」


 謝ると、茂さんが椅子に座った。


「謝ることはない。ただ、詳しく話を聞かせてもらう必要がある」


 その表情は真剣だ。


「河童に襲われたと言っていたな」


「はい……」


 僕は記憶を辿りながら、ゆっくりと話し始めた。


 マンホールから引きずり込まれたこと。


 下水道で河童の群れに囲まれたこと。


 そして──


「それで、どうやって河童から逃げたんだ?」


 茂さんの質問に、僕は言葉に詰まった。


 お姉さんのことは──言えない。


 信じてもらえないかもしれないし、何より、お姉さんに迷惑がかかるかもしれない。


「その……よく覚えてないんです」


 嘘をついた。


 クロが僕の手をそっと触手で撫でた。


 まるで「大丈夫だよ」って言ってくれているみたい。


 茂さんは僕をじっと見つめる。


 まるで心の中を見透かすような眼差し。


 でも、それ以上は追及してこなかった。


「そうか。まあ、極限状態だったからな」


 代わりに別の話を始める。


「現場を調査したところ、確かに河童の痕跡があった。しかも相当数だ」


 茂さんの声が重い。


「だが奇妙なことに、一体だけミイラ化した死骸があった」


 ──お姉さんが倒したやつだ


 僕は内心で呟く。


「まるで水分を全て抜き取られたような状態でな。通常の河童の死に方じゃない」


 鋭い視線が僕に向けられる。


「本当に何も覚えていないのか?」


「……はい」


 また嘘をついた。


 胸が痛い。


 でもこれしか方法がない。


 僕は“お姉さん”が良くないモノだとは思っていない。


 でも、僕以外の人にとっては別だということ位は分かっている。


 それには多分理由があるのだろう。


 その理由はきっと、僕が故郷を離れて東京で暮らしている理由と関係があるはずだ。


 “お姉さん”の事は誰にも言ってはいけない──僕はそう思っている。


「まあ、今は休みなさい」


 悦子さんが優しく言って、場の空気を和らげた。


「怪我も大したことないし、明日には退院できるそうよ」


「体は資本だ。しっかり休め」


 茂さんもそう言って立ち上がった。


「それと、クロ」


 茂さんが小さなクロを見る。


「お前も聖を頼むぞ」


 クロがぷるっと震えた。


 まるで「任せて」って言ってるみたい。


 二人が部屋を出て行くのを見送って、僕はほっと息をついた。


「ありがとう、クロ」


 小声で礼を言うと、クロが僕の頬に触手を伸ばしてきた。


 ぺたっと張り付いて、そのまま動かない。


 温かい。


 いや、スライムは体温がないはずだけど、なんだか温かく感じる。


 そういえば、と僕はスマホを見てみた。


 画面を見ると、大量のメッセージが来ている。


『聖! 大丈夫か!? おばさんに聞いたぞ!』


 裕からのメッセージが何件か。


 アリスからも。


『御堂君、ご無事ですか? 大変心配しております』


『お怪我の具合はいかがでしょうか』


『快復をお祈りしています』


 相当心配してくれていたんだな。


 僕は震える指で返信を打った。


『心配かけてごめん。もう大丈夫だよ』


 送信するとすぐに既読がついた。


 そして間髪入れずに返信が。


『バカ! 心配したんだからな!』


『ちゃんと治してから学校来いよ! 無理すんなよ!』


『退院したら連絡しろ! ノート貸してくれ!』


 心配してもらえてうれしいけれど、ノート貸してくれってどういう事なんだろうか。


 裕は裕だなぁ、なんて思っていると──


 アリスからもメッセージが返ってきた。


『本当によかったです。ゆっくり休んでくださいね』


『お見舞いに行きたいところですが、今はお体を休めることを優先してください』


 二人の心遣いが嬉しい。


 僕は返信を打つ。


『ありがとう。心配かけてごめん』


『退院したらすぐ学校行くから』


 送信してからふと思う。


 こんな風に心配してくれる友達がいるって幸せなことだな、って。


「あー、死ななくてよかった」


 口に出して言うとなんだか馬鹿みたいに聞こえるけれど、混じりっけなしの本音だ。


 その声に応える様にクロが一度、ぶるりと大きく震えた。



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