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閑話③「怪異行:ゴミ処理施設職員・室井の場合」  

 ◆


 午前五時前。


 日の出前のまだ薄暗い空の下、東京都廃棄物処理センター第三工場に一台のトラックが滑り込んできた。


 門番の老人が眠そうな目をこすりながらゲートを開ける。


 ここは都内でも最大級のゴミ処理施設だ。


「おはようさん、室井」


 トラックから降りてきた作業員が、すでに詰所にいた同僚に声をかける。


 室井と呼ばれた男は四十代半ばの小太りな体型で、ヘルメットの下から覗く髪には白いものが混じっている。


「ああ、おはよう。今日も早いな」


 室井は缶コーヒーを啜りながら答えた。


 この処理場で働き始めてもう十五年になる。


 最初の五年は普通のゴミ処理作業員だった。


 だが十年前、この施設に「特別処理棟」が増設されてからは、彼の仕事内容は大きく変わった。


「培養槽の調子はどうだ?」


「まあまあってとこだな。昨日の夜勤の連中が餌やりは済ませてるはずだ」


 餌。


 そう、彼らが世話をしているのは生き物だった。


 スライム。


 かつては都市伝説の一つに過ぎなかった存在が、今や産業用の道具として活用されている。


 室井は詰所を出て特別処理棟へと向かった。


 厚さ三十センチはあろうかというコンクリートの扉。


 認証カードをかざし、指紋と網膜のスキャンを済ませる。


 ガコン、と重い音を立てて扉が開いた。


 中は異様な光景だった。


 天井まで届きそうな巨大なガラスの水槽が、整然と並んでいる。


 その数、実に五十基。


 そしてそれぞれの水槽の中で、透明なゼリー状の物体がゆらゆらと蠢いていた。


 スライムだ。


 一基あたり大体バスケットコート一面分の体積を持つ巨大なスライムが、ゆったりと脈動している。


「今日も元気そうだな、おはよう」


 室井が水槽に近づくと、スライムがぴくりと反応した。


 まるで挨拶を返すように表面が小さく波打つ。


 有機物、無機物、何でも分解してしまうスライムの消化能力は、廃棄物処理において革命的だった。


 焼却処理では有害物質が発生する医療廃棄物も、埋め立てるしかなかった産業廃棄物も、スライムならきれいに分解してくれる。


 消化したものはスライムの栄養となり体積が増えるが、増えすぎた分は切り分けて新しい培養槽に移せばいい。


 まさに一石二鳥。


 いや、それ以上の価値があった。


 室井は作業着に着替え、他の作業員たちと合流した。


 今日のシフトは八人。


 皆、この仕事に慣れたベテランばかりだ。


「じゃあ、始めるか」


 主任の掛け声で作業が始まった。


 ◆


 午前六時。


 第一投入口が開き、ベルトコンベアに乗せられたゴミが次々と運ばれてくる。


 プラスチック、金属、ガラス、紙くず。


 分別なんて関係ない。


 スライムは何でも食べる。


「三番槽、投入開始!」


 作業員の一人がレバーを操作すると、天井のハッチが開いた。


 ゴミがザラザラと音を立てて、スライムの上に降り注ぐ。


 すると──


 ずるり。


 スライムの表面が盛り上がり、ゴミを包み込んでいく。


 まるで巨大なアメーバが獲物を捕食するような光景だ。


 ゴミはみるみるうちにスライムの体内に取り込まれ、透明な体の中を沈んでいく。


 そして数分もしないうちに、跡形もなく消えてしまう。


 完全に分解されたのだ。


「相変わらずすげぇな」


 若い作業員が感心したように呟く。


「何年見ても慣れねぇよ」


 室井は苦笑する。


 作業は順調に進んでいた。


 各培養槽にゴミを投入し、スライムの状態をチェックし、必要に応じて水や栄養剤を補給する。


 特定の種類のゴミを嫌がるスライムもいるので、その場合はゴミを引き上げて別の培養層へと投下すればよい。


 単調だが重要な仕事だ。


 ところが──


「おい、ちょっと来てくれ!」


 突然、離れた場所から同僚の声が響いた。


 室井が駆けつけると、十五番槽の前で作業員が困惑した表情を浮かべていた。


「どうした?」


「スライムの様子が変なんだ」


 見ると確かに異常だった。


 いつもは透明なはずのスライムが薄く黒ずんでいる。


 まるで墨を垂らしたような不気味な色合いだ。


「病気か?」


 室井が眉をひそめる。


 スライムも生き物である以上、体調を崩すことはある。


 とはいえ、作業員側にできる事はないのだが。


 というのも、病気にかかったスライムはただちに死んで消えてしまうからだ。


 だがこんな症状は見たことがなかった。


「とりあえずこの槽への投入は中止だ」


 主任が指示を出す。


 しかし──


 ぐにゅり。


 突然、十五番槽のスライムが大きく波打った。


 水槽の壁に激しくぶつかり、ガラスがビリビリと震える。


「なんだ?」


 作業員たちが後ずさる。


 スライムがこんなに激しく動くのは異常だ。


 ビシッ。


 嫌な音がした。


 見ると、水槽のガラスに亀裂が走っている。


「やばい、離れろ!」


 主任が叫んだ瞬間──


 ガシャァン! 


 轟音と共に水槽が砕け散った。


 ◆


 大量のスライムが、堰を切ったように溢れ出す。


 どろり、どろりと粘性の高い液体が床を覆い尽くしていく。


「逃げろ!」


 誰かが叫んだ。


 作業員たちは我先にと出口へ向かって走り出す。


 だが──


 ずるり。


 足を取られた。


 室井の右足が、床に広がったスライムに沈み込む。


 引き抜こうとするが、まるで強力な接着剤に捕まったように動かない。


 それどころか、じわじわと足が溶けていく感覚がある。


「うわああああ!」


 絶叫が響く。


 振り返ると、若い作業員が腰までスライムに呑み込まれていた。


 必死にもがくが、その動きは徐々に弱くなっていく。


 作業服が溶け、その下の肌が露出する。


 そして──


 ジュウウウ……


 焼ける肉のような音と共に皮膚が溶けていく。


 赤い筋肉が露出し、それもまた溶かされていく。


 骨が見える。


 白い骨が。


 でも、それすらも数秒で溶けてしまう。


 最後に残った頭蓋骨が、ごぽりとスライムの中に沈んでいった。


 一人の人間が、たった三十秒で跡形もなく消化されてしまった。


 室井は恐怖で思考が真っ白になりかけた。


 だが、生存本能が彼を動かす。


 ポケットからカッターナイフを取り出し、スライムに捕まった足の部分を切りつける。


 ビチャッ。


 スライムの一部が飛び散る。


 効いている。


 スライムは物理的な攻撃には弱い。


 何度も切りつけ、ようやく足を引き抜いた。


 靴はすでに半分溶けている。


 中の足も、皮膚が赤くただれていた。


 激痛が走るが、構っている場合じゃない。


 他の培養槽を見ると──


 最悪だった。


 次々とガラスが割れ、スライムが溢れ出している。


 十五番槽だけじゃない。


 すべての槽のスライムが、同じように黒ずみ、凶暴化していた。


 床一面がスライムの海と化していく。


 逃げ場がない。


 高台に上るしかない。


 室井は必死に制御室へ続く階段を目指した。


 途中、主任が転んでいるのが見えた。


「主任!」


 手を伸ばそうとして──やめた。


 主任の下半身は、すでにスライムに呑まれていた。


 ゴボゴボと泡を立てながら、肉が溶けていく。


「た、室井……」


 主任が苦痛に歪んだ顔で、室井を見上げる。


「に、逃げ……」


 それが最後の言葉だった。


 主任の体が完全にスライムに沈む。


 室井は歯を食いしばり、階段を駆け上がった。


 ◆


 制御室にたどり着いた時、生き残っていたのは室井を含めて三人だけだった。


 皆、恐怖で顔面蒼白だ。


「ど、どうなってるんだ!」


 一人が叫ぶ。


「分からない……分からないが、とにかく助けを呼ぶんだ!」


 室井は震える手で非常用の電話を取った。


 霊異対策本部の緊急ダイヤル。


 こんな番号を使う日が来るとは思わなかった。


「もしもし! 東京都廃棄物処理センター第三工場です! スライムが暴走して……!」


 必死に状況を説明する。


 電話の向こうで、オペレーターが冷静に対応してくれる。


『分かりました。すぐに特殊部隊を派遣します。それまで安全な場所で──』


 ガシャン! 


 制御室のドアが破られた。


 いや、溶かされた。


 金属製のドアが、まるでチーズのように溶けて、穴が開いている。


 そこから、黒いスライムがドロドロと侵入してきた。


「うわああ!」


 一人が窓に向かって走る。


 ガラスを椅子で叩き割り、外へ飛び出そうとして──


 ビチャッ。


 窓枠に張り付いていたスライムに捕まった。


 腕から溶けていく。


 悲鳴を上げながら、そのまま窓の外へ引きずり込まれた。


 三階の高さからの落下。


 もう死んでいるだろう。


 スライムに消化されながら落ちていったのだから。


 もう一人も部屋の隅に追い詰められた。


 じりじりと迫るスライムから逃れようと、机の上に飛び乗るが──


 天井からポタリとスライムが垂れてきた。


 頭に落ちる。


 ジュウウウ……


 頭皮が溶け、頭蓋骨が露出し、そして──


 ぐちゃり。


 脳みそが床にぶちまけられた。


 室井は震えていた。


 もうダメだ。


 逃げ場がない。


 スライムは部屋中に広がり、ゆっくりと、しかし確実に彼を追い詰めていく。


 ふと窓の外を見た。


 美しい朝焼けだ。


 こんな時に、皮肉なほど美しい。


「家族に……会いたかったな……」


 呟いた。


 室井には妻と高校生の娘がいる。


 ──今朝、いってきますと言ったのが最後になるなんて、なあ


 スライムが足元に達した。


 ズブリと沈み込む感覚。


 激痛。


 焼けるような、いや、溶けていく痛み。


 そして。


 膝まで溶けた。


 腰まで溶けた。


 内臓が溶け出す感覚は、言葉では表現できない。


 苦痛を通り越してもはや現実感がない。


 胸まで沈んだ時、室井は最後に思った。


 ──スライムを、信用しすぎていたんだ


 便利な道具。


 従順な家畜。


 そう思い込んでいた。


 ──でも、違った


 これは怪異なんだ。


 人の理解を超えた、恐ろしい何かなんだ。


 それを飼い慣らせると思った人間の傲慢さが、この結果を招いた。


 そんな事を思う室井の視界が黒く染まっていく。


 スライムが顔を覆う。


 目が溶ける。


 鼻が溶ける。


 口の中にスライムが流れ込んでくる。


 舌が溶ける。


 歯が溶ける。


 そして──


 ◆


 二十分後。


 霊異対策本部第三機動隊の車両が、処理場の正門を突破した。


 黒い装甲車から次々と隊員が展開する。


 全員が対異形戦闘用の特殊スーツに身を包んでいた。


 隊長の松本一等陸佐が、ヘルメットのバイザー越しに施設を見渡す。


「各班、配置につけ。第一班は私と共に内部へ。第二班は外周を封鎖、第三班は地下への侵入口を確保しろ」


 きびきびとした動きで隊員たちが散開する。


 松本は腰のホルスターから特殊な拳銃を抜いた。


 対スライム用の塩酸弾が装填されている。


 通常の銃弾は効果が薄いが、強酸性の液体ならダメージを与えられる。


「生存者の反応は?」


「制御室に三名の生体反応がありましたが……十分前に消失しました」


 通信隊員の報告に、松本は歯噛みした。


 間に合わなかった。


 だが、今は目前の脅威を排除することが最優先だ。


「突入する」


 施設内部は地獄絵図だった。


 黒く変色したスライムが床一面を覆い、天井からも滴り落ちている。


 そして所々に人間のものと思われる衣服の切れ端や、溶け残った金属類が散乱していた。


「霊素濃度、異常値を検出!」


 測定班が叫ぶ。


 霊素──正式名称を「霊子素粒子」という、特定異形災害の発生と密接に関わる特殊な素粒子だ。


 通常の物質を構成する素粒子とは異なる振動数で存在し、生命体の精神活動や強い感情によって発生・増減することが、この十年の研究で明らかになっている。


 環境中には極めて低濃度で存在するが、怪異の出現時には急激に上昇する。


 今、測定器が示している数値は通常の三十七倍。


 自然発生では考えられない濃度だった。


「ただの暴走じゃないな、こりゃ……」


 松本は確信した。


 これは何者かの意思が介在している。


 自然にこうはならないだろう、という思いが松本にはあった。


 その時──


 ずるり。


 巨大な黒い塊が奥の通路から姿を現した。


 個々のスライムが融合した、直径十メートルはあろうかという巨大な球体。


 その表面には消化しきれなかった人骨が浮かんでいる。


「総員構え、撃て! “意識”を込めるのを忘れるなよ!」


 “意識”とはすなわち敵意や害意、殺意の事である。


 スライムはそういった攻撃的意識を向けられる事に滅法弱い。


 松本の号令と同時に、隊員たちが一斉に塩酸弾を発射した。


 ビシャッ、ビシャッと音を立てて、弾丸がスライムに突き刺さる。


 塩酸が反応し、スライムの表面が泡立つ。


 だが──


「効いてない!?」


 若い隊員が驚愕の声を上げた。


 質量が大きすぎるのだ。


 確かにダメージは与えているが、巨大なスライムにとっては蚊に刺された程度でしかない。


 そして、効かないばかりかスライムは反撃に転じた。


 黒い触手が鞭のようにしなり、隊員の一人を薙ぎ払う。


 特殊スーツが瞬時に溶け始めた。


「うわああ!」


 悲鳴を上げる隊員を仲間が必死に引きずり出す。


 スーツの表面は既に半分溶けていた。


 あと数秒遅ければ、中の人間まで──


「火炎放射器を使え!」


 松本が指示を飛ばす。


 二人の隊員が前に出て、背負っていた火炎放射器を構えた。


 オレンジ色の炎が、黒いスライムに襲いかかる。


 グジュグジュと不快な音を立てて、スライムの表面が沸騰し始めた。


 水分が蒸発し、体積が縮小していく。


「効いてるぞ! 押せ!」


 だが、スライムも黙ってはいない。


 体を分裂させ、床を這うようにして別の方向から回り込もうとする。


 その動きは単純な生物とは思えないほど戦術的だった。


「囲まれるぞ!」


 第一班の通信が入る。


「地下から増援が! 数は……数えきれません!」


 下水道からも黒いスライムが湧き上がってきていた。


 このままでは全滅する。


 松本は決断を下した。


「総員、撤退! 施設を放棄する!」


「しかし隊長!」


「これは命令だ!」


 隊員たちが秩序正しく後退を始める。


 だが、スライムはそれを許さなかった。


 出口に向かって殺到し、退路を断とうとする。


 その時だった。


「新入り!」


 松本が鋭い声をかける。


 すると一人の隊員が前に出た。


「はい!」


 バイザーヘルメットに隠れて顔が見えないが、若い男の声だった。


 入隊二年目の新入隊員だが、優れたパイロキネシスの能力を持つ。


 対怪異に於いて、現代兵器よりも異能のほうがより大きいダメージを与えられるというのは既に周知の事実である。


 そういう意味で、攻撃性に優れたパイロキネシスという能力は、こういった戦闘部隊では重宝される。


「最大出力での異能戦闘を限定解除する」


 松本の許可を得て、隊員は両手を前に突き出す。


 ◆


 最初は蝋燭の炎の様な小さい火だった。


 しかしそれはみるみるうちに肥大化し、たちまちバスケットボールより三回りほど大きい火球へと変じた。


「設備に被害が出ても構わん、やれ!」


 松本の号令とともに、火球はスライムへ向かって轟と唸りを上げて飛び──着弾、爆裂。


 同時に青年は掌同士を向かい合わせて、何かを抑え込むような仕草を見せた。


 すると外に放射されるはずの爆発のエネルギーが内側へと収束していくではないか。


 完璧な異能の制御であった。


 結果、黒いスライムは消滅した。


 後には焦げ臭い煙と床に残った黒い染みだけが残る。


 だが、安堵する間もなかった。


「隊長! 地下からの報告です!」


 通信隊員が血相を変えて叫ぶ。


「ターゲットから分離したと思われる個体が下水道を移動中! このままでは市街地に──」


 松本は即座に判断した。


「第二、第三班と合流。下水道での追撃戦に移行する」


 施設を出て、最寄りのマンホールへ。


 そこから地下へと降りていく。


 暗く、湿った下水道。


 だが隊員たちの装備には暗視装置が組み込まれている。


 緑色に染まった視界の中で、彼らは獲物を探した。


「熱源感知。前方五十メートル」


 そこにいた。


 通路いっぱいに広がる、巨大な黒い塊。


 八人分の人間を吸収し、その記憶と経験を取り込んだ「本体」だ。


 それは、まるでこちらを待ち構えていたかのように動かない。


「包囲しろ。逃がすな」


 隊員たちが素早く展開する。


 前後左右、すべての退路を断つ。


 そして──


「攻撃開始!」


 一斉射撃が始まった。


 塩酸弾、焼夷弾、冷凍弾。


 ありとあらゆる対スライム兵器が黒い塊に叩き込まれると、スライムがダメージを受けていく。


 だがそれでも動きを止めない。


 いや、むしろ──


『痛い』


 突然、声が聞こえた。


 いや、声じゃない。


 頭の中に直接響いてくる思念だ。


『痛い、痛い、痛い』


 それは室井の声だった。


 いや、室井だけじゃない。


 消化された八人全員の声が、混ざり合って響いてくる。


『助けて』


『家族に会いたい』


『まだ死にたくない』


 隊員たちの動きが、一瞬止まった。


「これは……スライムが、取り込んだ人間の記憶を使って」


「惑わされるな!」


 松本が一喝する。


「それはもう人間じゃない! ただの怪異だ!」


 その言葉で、隊員たちは我に返った。


 攻撃を再開する。


 だがスライムも進化していた。


 下水の流れを利用して、素早く移動を始める。


 触手を伸ばして天井や壁を這い、三次元的な機動を見せる。


 まるで、取り込んだ人間の知識を活用しているかのように。


「くそっ、賢くなってやがる!」


 若い隊員が毒づく。


 その瞬間、天井から黒い雫が降ってきた。


 隊員のヘルメットに付着し、瞬く間に溶かし始める。


「うわっ!」


 慌ててヘルメットを脱ぎ捨てる隊員。


 間一髪だった。


 だが、今度は無防備な頭部が露出してしまう。


「下がれ!」


 松本が部下を庇うように前に出た。


 そして、腰から別の武器を取り出す。


 それは、一見すると普通の手榴弾に見えた。


 だが──


「全員、耳を塞げ!」


 松本がピンを抜き、スライムに向かって投げつける。


 カン、と金属音を立てて、手榴弾がスライムの体内に沈み込んだ。


 そして──


 キィィィィィィン! 


 耳をつんざくような超音波が発生した。


 特殊な振動波が、スライムの細胞構造を破壊していく。


 ビリビリと震えながら、スライムの体が崩壊を始めた。


 まるで、形を保てなくなったゼリーのように。


『や、め、て』


 断末魔のような思念が響く。


 だが、松本は容赦しなかった。


「火炎放射器、最大出力!」


 隊員たちが一斉に炎を浴びせる。


 もはや抵抗する力も失ったスライムは、ただ燃えるしかなかった。


 黒い煙を上げながら、徐々に小さくなっていく。


 そして──


 今度こそ本当に、完全に消滅した。


 ◆


 松本は深く息を吐いた。


「各班、状況を報告しろ」


「第二班、異常なし」


「第三班、残存個体なし」


 すべて片付いた。


 少なくとも、この場所では。


 だが松本の表情は晴れなかった。


 スライムが見せた知性。


 取り込んだ人間の記憶を利用する能力。


 想定を超えた進化だった。


 もし、もっと多くの人間を取り込んだら──


 もっと多くの知識と経験を得たら──


 スライムは、どこまで「賢く」なるのか。


 嫌な想像が頭をよぎる。


 だが、今はそれを考えている場合ではない。


「総員、撤収。本部への報告書をまとめる」


 隊員たちが整然と撤収を開始する。


 ◆


 霊異対策本部 緊急対策会議室


 薄暗い部屋の中、プロジェクターが問題の映像を映し出していた。


 処理場の監視カメラ映像と、特殊部隊のヘルメットカメラの記録。


 出席者は本部長の黒田を筆頭に、各省庁の幹部級職員、そして内閣官房から派遣された特命担当官。


 全員が神妙な面持ちで画面を見つめている。


「死者八名。全員が施設の作業員です」


 松本が淡々と報告する。


「スライムは我々の攻撃により完全に殲滅しました。残存個体はありません」


「ご苦労だった」


 黒田本部長が労いの言葉をかける。


 だが、すぐに表情を引き締めた。


「問題は、スライムが示した『変異』だ」


 画面には、解析されたデータが表示される。


 通常の透明なスライムが、黒く変色していく過程。


 その変化はまるで何かに「感染」したかのように、全個体で同時に起きていた。


「原因は?」


「不明です。ただ──」


 松本は手元の資料を確認する。


「現場の霊素濃度が、通常の三十倍以上を記録していました。何らかの霊的干渉があった可能性が高い」


 会議室に重い沈黙が流れた。


 やがて、内閣官房の特命担当官が口を開く。


「この件は、機密扱いとします」


 その一言に、何人かが驚きの表情を見せた。


「しかし、八名もの犠牲者が──」


「聞いてください」


 特命担当官は冷静に続ける。


「現在、全国で稼働している産業用スライム施設は三百七十二箇所。これらが担っている廃棄物処理量は、年間約二千万トンに及びます」


 プロジェクターに新たな資料が映し出される。


 日本地図上に、赤い点が無数に打たれている。


 スライム処理施設の位置だ。


「もしこの事故が公表されれば、全施設の操業停止は避けられません。その場合、行き場を失った廃棄物はどうなると思いますか? 中には核廃棄物もあるのです」


 誰も答えられない。


 答えは明白だった。


 ゴミの山、環境汚染、そして公衆衛生の危機。


「さらに」


 特命担当官は続ける。


「医療廃棄物の処理も滞ります。感染性廃棄物が適切に処理されなければ、別の形での災害を引き起こしかねません」


「だからといって隠蔽するのですか?」


 若い官僚が声を上げた。


「遺族への説明は? マスコミが嗅ぎつけたら?」


「産業事故として処理します」


 特命担当官の声は感情を欠いていた。


「有毒ガスの発生による中毒死。遺族には十分な補償を行い、守秘義務契約を結んでもらいます」


「それは──」


「他に選択肢がありますか?」


 特命担当官の鋭い視線が、反論しようとした官僚を黙らせた。


「『スライムが人を食った』などという事実が公になれば、パニックは避けられません。ただでさえ特定異形災害への不安が高まっている中で、日常的に使われている技術まで危険だとなれば……」


 社会が崩壊しかねない。


 誰もがその結論に達していた。


 黒田本部長が重い口を開く。


「……分かりました。本件は特定機密として処理します。関係者には厳重な箝口令を」


 そして松本に向き直る。


「君の部隊の働きは見事だった。改めて礼を言う」


「任務ですから」


 松本は短く答えた。


 だがその表情には複雑なものが浮かんでいた。


 命がけで戦い、脅威を排除した。


 それなのに、その事実は闇に葬られる。


 これが霊異対策の現実だった。


「全国のスライム施設には」


 黒田が続ける。


「表向きは『定期点検』として監視を強化してください。同様の兆候がないか、注意深く観察を」


「了解しました」


 ◆


 会議が終わり、出席者たちが退室していく中、松本は廊下で黒田に呼び止められた。


「松本君。一つ、個人的な意見を聞きたい」


 黒田の表情は、先ほどまでの公式なものとは違っていた。


「あのスライムの変異。君はどう思う?」


 松本は少し考えてから答えた。


「正直に言えば……不気味です。まるで何かに『呼応』したような変化でした」


「呼応、か」


 黒田は考え込むように呟いた。


「実は、ここ最近、他でも似たような報告が上がっている。個別の怪異が同時多発的に活性化する事例が」


「はい、聞き及んでいます。まるで、何か大きな力が──」


「そこまでだ」


 黒田が制止する。


「今は憶測の段階だ。だが、備えは必要かもしれない」


松本は頷き──二人は無言で歩き続けた。

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