◆
午前五時前。
日の出前のまだ薄暗い空の下、東京都廃棄物処理センター第三工場に一台のトラックが滑り込んできた。
門番の老人が眠そうな目をこすりながらゲートを開ける。
ここは都内でも最大級のゴミ処理施設だ。
「おはようさん、室井」
トラックから降りてきた作業員が、すでに詰所にいた同僚に声をかける。
室井と呼ばれた男は四十代半ばの小太りな体型で、ヘルメットの下から覗く髪には白いものが混じっている。
「ああ、おはよう。今日も早いな」
室井は缶コーヒーを啜りながら答えた。
この処理場で働き始めてもう十五年になる。
最初の五年は普通のゴミ処理作業員だった。
だが十年前、この施設に「特別処理棟」が増設されてからは、彼の仕事内容は大きく変わった。
「培養槽の調子はどうだ?」
「まあまあってとこだな。昨日の夜勤の連中が餌やりは済ませてるはずだ」
餌。
そう、彼らが世話をしているのは生き物だった。
スライム。
かつては都市伝説の一つに過ぎなかった存在が、今や産業用の道具として活用されている。
室井は詰所を出て特別処理棟へと向かった。
厚さ三十センチはあろうかというコンクリートの扉。
認証カードをかざし、指紋と網膜のスキャンを済ませる。
ガコン、と重い音を立てて扉が開いた。
中は異様な光景だった。
天井まで届きそうな巨大なガラスの水槽が、整然と並んでいる。
その数、実に五十基。
そしてそれぞれの水槽の中で、透明なゼリー状の物体がゆらゆらと蠢いていた。
スライムだ。
一基あたり大体バスケットコート一面分の体積を持つ巨大なスライムが、ゆったりと脈動している。
「今日も元気そうだな、おはよう」
室井が水槽に近づくと、スライムがぴくりと反応した。
まるで挨拶を返すように表面が小さく波打つ。
有機物、無機物、何でも分解してしまうスライムの消化能力は、廃棄物処理において革命的だった。
焼却処理では有害物質が発生する医療廃棄物も、埋め立てるしかなかった産業廃棄物も、スライムならきれいに分解してくれる。
消化したものはスライムの栄養となり体積が増えるが、増えすぎた分は切り分けて新しい培養槽に移せばいい。
まさに一石二鳥。
いや、それ以上の価値があった。
室井は作業着に着替え、他の作業員たちと合流した。
今日のシフトは八人。
皆、この仕事に慣れたベテランばかりだ。
「じゃあ、始めるか」
主任の掛け声で作業が始まった。
◆
午前六時。
第一投入口が開き、ベルトコンベアに乗せられたゴミが次々と運ばれてくる。
プラスチック、金属、ガラス、紙くず。
分別なんて関係ない。
スライムは何でも食べる。
「三番槽、投入開始!」
作業員の一人がレバーを操作すると、天井のハッチが開いた。
ゴミがザラザラと音を立てて、スライムの上に降り注ぐ。
すると──
ずるり。
スライムの表面が盛り上がり、ゴミを包み込んでいく。
まるで巨大なアメーバが獲物を捕食するような光景だ。
ゴミはみるみるうちにスライムの体内に取り込まれ、透明な体の中を沈んでいく。
そして数分もしないうちに、跡形もなく消えてしまう。
完全に分解されたのだ。
「相変わらずすげぇな」
若い作業員が感心したように呟く。
「何年見ても慣れねぇよ」
室井は苦笑する。
作業は順調に進んでいた。
各培養槽にゴミを投入し、スライムの状態をチェックし、必要に応じて水や栄養剤を補給する。
特定の種類のゴミを嫌がるスライムもいるので、その場合はゴミを引き上げて別の培養層へと投下すればよい。
単調だが重要な仕事だ。
ところが──
「おい、ちょっと来てくれ!」
突然、離れた場所から同僚の声が響いた。
室井が駆けつけると、十五番槽の前で作業員が困惑した表情を浮かべていた。
「どうした?」
「スライムの様子が変なんだ」
見ると確かに異常だった。
いつもは透明なはずのスライムが薄く黒ずんでいる。
まるで墨を垂らしたような不気味な色合いだ。
「病気か?」
室井が眉をひそめる。
スライムも生き物である以上、体調を崩すことはある。
とはいえ、作業員側にできる事はないのだが。
というのも、病気にかかったスライムはただちに死んで消えてしまうからだ。
だがこんな症状は見たことがなかった。
「とりあえずこの槽への投入は中止だ」
主任が指示を出す。
しかし──
ぐにゅり。
突然、十五番槽のスライムが大きく波打った。
水槽の壁に激しくぶつかり、ガラスがビリビリと震える。
「なんだ?」
作業員たちが後ずさる。
スライムがこんなに激しく動くのは異常だ。
ビシッ。
嫌な音がした。
見ると、水槽のガラスに亀裂が走っている。
「やばい、離れろ!」
主任が叫んだ瞬間──
ガシャァン!
轟音と共に水槽が砕け散った。
◆
大量のスライムが、堰を切ったように溢れ出す。
どろり、どろりと粘性の高い液体が床を覆い尽くしていく。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
作業員たちは我先にと出口へ向かって走り出す。
だが──
ずるり。
足を取られた。
室井の右足が、床に広がったスライムに沈み込む。
引き抜こうとするが、まるで強力な接着剤に捕まったように動かない。
それどころか、じわじわと足が溶けていく感覚がある。
「うわああああ!」
絶叫が響く。
振り返ると、若い作業員が腰までスライムに呑み込まれていた。
必死にもがくが、その動きは徐々に弱くなっていく。
作業服が溶け、その下の肌が露出する。
そして──
ジュウウウ……
焼ける肉のような音と共に皮膚が溶けていく。
赤い筋肉が露出し、それもまた溶かされていく。
骨が見える。
白い骨が。
でも、それすらも数秒で溶けてしまう。
最後に残った頭蓋骨が、ごぽりとスライムの中に沈んでいった。
一人の人間が、たった三十秒で跡形もなく消化されてしまった。
室井は恐怖で思考が真っ白になりかけた。
だが、生存本能が彼を動かす。
ポケットからカッターナイフを取り出し、スライムに捕まった足の部分を切りつける。
ビチャッ。
スライムの一部が飛び散る。
効いている。
スライムは物理的な攻撃には弱い。
何度も切りつけ、ようやく足を引き抜いた。
靴はすでに半分溶けている。
中の足も、皮膚が赤くただれていた。
激痛が走るが、構っている場合じゃない。
他の培養槽を見ると──
最悪だった。
次々とガラスが割れ、スライムが溢れ出している。
十五番槽だけじゃない。
すべての槽のスライムが、同じように黒ずみ、凶暴化していた。
床一面がスライムの海と化していく。
逃げ場がない。
高台に上るしかない。
室井は必死に制御室へ続く階段を目指した。
途中、主任が転んでいるのが見えた。
「主任!」
手を伸ばそうとして──やめた。
主任の下半身は、すでにスライムに呑まれていた。
ゴボゴボと泡を立てながら、肉が溶けていく。
「た、室井……」
主任が苦痛に歪んだ顔で、室井を見上げる。
「に、逃げ……」
それが最後の言葉だった。
主任の体が完全にスライムに沈む。
室井は歯を食いしばり、階段を駆け上がった。
◆
制御室にたどり着いた時、生き残っていたのは室井を含めて三人だけだった。
皆、恐怖で顔面蒼白だ。
「ど、どうなってるんだ!」
一人が叫ぶ。
「分からない……分からないが、とにかく助けを呼ぶんだ!」
室井は震える手で非常用の電話を取った。
霊異対策本部の緊急ダイヤル。
こんな番号を使う日が来るとは思わなかった。
「もしもし! 東京都廃棄物処理センター第三工場です! スライムが暴走して……!」
必死に状況を説明する。
電話の向こうで、オペレーターが冷静に対応してくれる。
『分かりました。すぐに特殊部隊を派遣します。それまで安全な場所で──』
ガシャン!
制御室のドアが破られた。
いや、溶かされた。
金属製のドアが、まるでチーズのように溶けて、穴が開いている。
そこから、黒いスライムがドロドロと侵入してきた。
「うわああ!」
一人が窓に向かって走る。
ガラスを椅子で叩き割り、外へ飛び出そうとして──
ビチャッ。
窓枠に張り付いていたスライムに捕まった。
腕から溶けていく。
悲鳴を上げながら、そのまま窓の外へ引きずり込まれた。
三階の高さからの落下。
もう死んでいるだろう。
スライムに消化されながら落ちていったのだから。
もう一人も部屋の隅に追い詰められた。
じりじりと迫るスライムから逃れようと、机の上に飛び乗るが──
天井からポタリとスライムが垂れてきた。
頭に落ちる。
ジュウウウ……
頭皮が溶け、頭蓋骨が露出し、そして──
ぐちゃり。
脳みそが床にぶちまけられた。
室井は震えていた。
もうダメだ。
逃げ場がない。
スライムは部屋中に広がり、ゆっくりと、しかし確実に彼を追い詰めていく。
ふと窓の外を見た。
美しい朝焼けだ。
こんな時に、皮肉なほど美しい。
「家族に……会いたかったな……」
呟いた。
室井には妻と高校生の娘がいる。
──今朝、いってきますと言ったのが最後になるなんて、なあ
スライムが足元に達した。
ズブリと沈み込む感覚。
激痛。
焼けるような、いや、溶けていく痛み。
そして。
膝まで溶けた。
腰まで溶けた。
内臓が溶け出す感覚は、言葉では表現できない。
苦痛を通り越してもはや現実感がない。
胸まで沈んだ時、室井は最後に思った。
──スライムを、信用しすぎていたんだ
便利な道具。
従順な家畜。
そう思い込んでいた。
──でも、違った
これは怪異なんだ。
人の理解を超えた、恐ろしい何かなんだ。
それを飼い慣らせると思った人間の傲慢さが、この結果を招いた。
そんな事を思う室井の視界が黒く染まっていく。
スライムが顔を覆う。
目が溶ける。
鼻が溶ける。
口の中にスライムが流れ込んでくる。
舌が溶ける。
歯が溶ける。
そして──
◆
二十分後。
霊異対策本部第三機動隊の車両が、処理場の正門を突破した。
黒い装甲車から次々と隊員が展開する。
全員が対異形戦闘用の特殊スーツに身を包んでいた。
隊長の松本一等陸佐が、ヘルメットのバイザー越しに施設を見渡す。
「各班、配置につけ。第一班は私と共に内部へ。第二班は外周を封鎖、第三班は地下への侵入口を確保しろ」
きびきびとした動きで隊員たちが散開する。
松本は腰のホルスターから特殊な拳銃を抜いた。
対スライム用の塩酸弾が装填されている。
通常の銃弾は効果が薄いが、強酸性の液体ならダメージを与えられる。
「生存者の反応は?」
「制御室に三名の生体反応がありましたが……十分前に消失しました」
通信隊員の報告に、松本は歯噛みした。
間に合わなかった。
だが、今は目前の脅威を排除することが最優先だ。
「突入する」
施設内部は地獄絵図だった。
黒く変色したスライムが床一面を覆い、天井からも滴り落ちている。
そして所々に人間のものと思われる衣服の切れ端や、溶け残った金属類が散乱していた。
「霊素濃度、異常値を検出!」
測定班が叫ぶ。
霊素──正式名称を「霊子素粒子」という、特定異形災害の発生と密接に関わる特殊な素粒子だ。
通常の物質を構成する素粒子とは異なる振動数で存在し、生命体の精神活動や強い感情によって発生・増減することが、この十年の研究で明らかになっている。
環境中には極めて低濃度で存在するが、怪異の出現時には急激に上昇する。
今、測定器が示している数値は通常の三十七倍。
自然発生では考えられない濃度だった。
「ただの暴走じゃないな、こりゃ……」
松本は確信した。
これは何者かの意思が介在している。
自然にこうはならないだろう、という思いが松本にはあった。
その時──
ずるり。
巨大な黒い塊が奥の通路から姿を現した。
個々のスライムが融合した、直径十メートルはあろうかという巨大な球体。
その表面には消化しきれなかった人骨が浮かんでいる。
「総員構え、撃て! “意識”を込めるのを忘れるなよ!」
“意識”とはすなわち敵意や害意、殺意の事である。
スライムはそういった攻撃的意識を向けられる事に滅法弱い。
松本の号令と同時に、隊員たちが一斉に塩酸弾を発射した。
ビシャッ、ビシャッと音を立てて、弾丸がスライムに突き刺さる。
塩酸が反応し、スライムの表面が泡立つ。
だが──
「効いてない!?」
若い隊員が驚愕の声を上げた。
質量が大きすぎるのだ。
確かにダメージは与えているが、巨大なスライムにとっては蚊に刺された程度でしかない。
そして、効かないばかりかスライムは反撃に転じた。
黒い触手が鞭のようにしなり、隊員の一人を薙ぎ払う。
特殊スーツが瞬時に溶け始めた。
「うわああ!」
悲鳴を上げる隊員を仲間が必死に引きずり出す。
スーツの表面は既に半分溶けていた。
あと数秒遅ければ、中の人間まで──
「火炎放射器を使え!」
松本が指示を飛ばす。
二人の隊員が前に出て、背負っていた火炎放射器を構えた。
オレンジ色の炎が、黒いスライムに襲いかかる。
グジュグジュと不快な音を立てて、スライムの表面が沸騰し始めた。
水分が蒸発し、体積が縮小していく。
「効いてるぞ! 押せ!」
だが、スライムも黙ってはいない。
体を分裂させ、床を這うようにして別の方向から回り込もうとする。
その動きは単純な生物とは思えないほど戦術的だった。
「囲まれるぞ!」
第一班の通信が入る。
「地下から増援が! 数は……数えきれません!」
下水道からも黒いスライムが湧き上がってきていた。
このままでは全滅する。
松本は決断を下した。
「総員、撤退! 施設を放棄する!」
「しかし隊長!」
「これは命令だ!」
隊員たちが秩序正しく後退を始める。
だが、スライムはそれを許さなかった。
出口に向かって殺到し、退路を断とうとする。
その時だった。
「新入り!」
松本が鋭い声をかける。
すると一人の隊員が前に出た。
「はい!」
バイザーヘルメットに隠れて顔が見えないが、若い男の声だった。
入隊二年目の新入隊員だが、優れたパイロキネシスの能力を持つ。
対怪異に於いて、現代兵器よりも異能のほうがより大きいダメージを与えられるというのは既に周知の事実である。
そういう意味で、攻撃性に優れたパイロキネシスという能力は、こういった戦闘部隊では重宝される。
「最大出力での異能戦闘を限定解除する」
松本の許可を得て、隊員は両手を前に突き出す。
◆
最初は蝋燭の炎の様な小さい火だった。
しかしそれはみるみるうちに肥大化し、たちまちバスケットボールより三回りほど大きい火球へと変じた。
「設備に被害が出ても構わん、やれ!」
松本の号令とともに、火球はスライムへ向かって轟と唸りを上げて飛び──着弾、爆裂。
同時に青年は掌同士を向かい合わせて、何かを抑え込むような仕草を見せた。
すると外に放射されるはずの爆発のエネルギーが内側へと収束していくではないか。
完璧な異能の制御であった。
結果、黒いスライムは消滅した。
後には焦げ臭い煙と床に残った黒い染みだけが残る。
だが、安堵する間もなかった。
「隊長! 地下からの報告です!」
通信隊員が血相を変えて叫ぶ。
「ターゲットから分離したと思われる個体が下水道を移動中! このままでは市街地に──」
松本は即座に判断した。
「第二、第三班と合流。下水道での追撃戦に移行する」
施設を出て、最寄りのマンホールへ。
そこから地下へと降りていく。
暗く、湿った下水道。
だが隊員たちの装備には暗視装置が組み込まれている。
緑色に染まった視界の中で、彼らは獲物を探した。
「熱源感知。前方五十メートル」
そこにいた。
通路いっぱいに広がる、巨大な黒い塊。
八人分の人間を吸収し、その記憶と経験を取り込んだ「本体」だ。
それは、まるでこちらを待ち構えていたかのように動かない。
「包囲しろ。逃がすな」
隊員たちが素早く展開する。
前後左右、すべての退路を断つ。
そして──
「攻撃開始!」
一斉射撃が始まった。
塩酸弾、焼夷弾、冷凍弾。
ありとあらゆる対スライム兵器が黒い塊に叩き込まれると、スライムがダメージを受けていく。
だがそれでも動きを止めない。
いや、むしろ──
『痛い』
突然、声が聞こえた。
いや、声じゃない。
頭の中に直接響いてくる思念だ。
『痛い、痛い、痛い』
それは室井の声だった。
いや、室井だけじゃない。
消化された八人全員の声が、混ざり合って響いてくる。
『助けて』
『家族に会いたい』
『まだ死にたくない』
隊員たちの動きが、一瞬止まった。
「これは……スライムが、取り込んだ人間の記憶を使って」
「惑わされるな!」
松本が一喝する。
「それはもう人間じゃない! ただの怪異だ!」
その言葉で、隊員たちは我に返った。
攻撃を再開する。
だがスライムも進化していた。
下水の流れを利用して、素早く移動を始める。
触手を伸ばして天井や壁を這い、三次元的な機動を見せる。
まるで、取り込んだ人間の知識を活用しているかのように。
「くそっ、賢くなってやがる!」
若い隊員が毒づく。
その瞬間、天井から黒い雫が降ってきた。
隊員のヘルメットに付着し、瞬く間に溶かし始める。
「うわっ!」
慌ててヘルメットを脱ぎ捨てる隊員。
間一髪だった。
だが、今度は無防備な頭部が露出してしまう。
「下がれ!」
松本が部下を庇うように前に出た。
そして、腰から別の武器を取り出す。
それは、一見すると普通の手榴弾に見えた。
だが──
「全員、耳を塞げ!」
松本がピンを抜き、スライムに向かって投げつける。
カン、と金属音を立てて、手榴弾がスライムの体内に沈み込んだ。
そして──
キィィィィィィン!
耳をつんざくような超音波が発生した。
特殊な振動波が、スライムの細胞構造を破壊していく。
ビリビリと震えながら、スライムの体が崩壊を始めた。
まるで、形を保てなくなったゼリーのように。
『や、め、て』
断末魔のような思念が響く。
だが、松本は容赦しなかった。
「火炎放射器、最大出力!」
隊員たちが一斉に炎を浴びせる。
もはや抵抗する力も失ったスライムは、ただ燃えるしかなかった。
黒い煙を上げながら、徐々に小さくなっていく。
そして──
今度こそ本当に、完全に消滅した。
◆
松本は深く息を吐いた。
「各班、状況を報告しろ」
「第二班、異常なし」
「第三班、残存個体なし」
すべて片付いた。
少なくとも、この場所では。
だが松本の表情は晴れなかった。
スライムが見せた知性。
取り込んだ人間の記憶を利用する能力。
想定を超えた進化だった。
もし、もっと多くの人間を取り込んだら──
もっと多くの知識と経験を得たら──
スライムは、どこまで「賢く」なるのか。
嫌な想像が頭をよぎる。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
「総員、撤収。本部への報告書をまとめる」
隊員たちが整然と撤収を開始する。
◆
霊異対策本部 緊急対策会議室
薄暗い部屋の中、プロジェクターが問題の映像を映し出していた。
処理場の監視カメラ映像と、特殊部隊のヘルメットカメラの記録。
出席者は本部長の黒田を筆頭に、各省庁の幹部級職員、そして内閣官房から派遣された特命担当官。
全員が神妙な面持ちで画面を見つめている。
「死者八名。全員が施設の作業員です」
松本が淡々と報告する。
「スライムは我々の攻撃により完全に殲滅しました。残存個体はありません」
「ご苦労だった」
黒田本部長が労いの言葉をかける。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「問題は、スライムが示した『変異』だ」
画面には、解析されたデータが表示される。
通常の透明なスライムが、黒く変色していく過程。
その変化はまるで何かに「感染」したかのように、全個体で同時に起きていた。
「原因は?」
「不明です。ただ──」
松本は手元の資料を確認する。
「現場の霊素濃度が、通常の三十倍以上を記録していました。何らかの霊的干渉があった可能性が高い」
会議室に重い沈黙が流れた。
やがて、内閣官房の特命担当官が口を開く。
「この件は、機密扱いとします」
その一言に、何人かが驚きの表情を見せた。
「しかし、八名もの犠牲者が──」
「聞いてください」
特命担当官は冷静に続ける。
「現在、全国で稼働している産業用スライム施設は三百七十二箇所。これらが担っている廃棄物処理量は、年間約二千万トンに及びます」
プロジェクターに新たな資料が映し出される。
日本地図上に、赤い点が無数に打たれている。
スライム処理施設の位置だ。
「もしこの事故が公表されれば、全施設の操業停止は避けられません。その場合、行き場を失った廃棄物はどうなると思いますか? 中には核廃棄物もあるのです」
誰も答えられない。
答えは明白だった。
ゴミの山、環境汚染、そして公衆衛生の危機。
「さらに」
特命担当官は続ける。
「医療廃棄物の処理も滞ります。感染性廃棄物が適切に処理されなければ、別の形での災害を引き起こしかねません」
「だからといって隠蔽するのですか?」
若い官僚が声を上げた。
「遺族への説明は? マスコミが嗅ぎつけたら?」
「産業事故として処理します」
特命担当官の声は感情を欠いていた。
「有毒ガスの発生による中毒死。遺族には十分な補償を行い、守秘義務契約を結んでもらいます」
「それは──」
「他に選択肢がありますか?」
特命担当官の鋭い視線が、反論しようとした官僚を黙らせた。
「『スライムが人を食った』などという事実が公になれば、パニックは避けられません。ただでさえ特定異形災害への不安が高まっている中で、日常的に使われている技術まで危険だとなれば……」
社会が崩壊しかねない。
誰もがその結論に達していた。
黒田本部長が重い口を開く。
「……分かりました。本件は特定機密として処理します。関係者には厳重な箝口令を」
そして松本に向き直る。
「君の部隊の働きは見事だった。改めて礼を言う」
「任務ですから」
松本は短く答えた。
だがその表情には複雑なものが浮かんでいた。
命がけで戦い、脅威を排除した。
それなのに、その事実は闇に葬られる。
これが霊異対策の現実だった。
「全国のスライム施設には」
黒田が続ける。
「表向きは『定期点検』として監視を強化してください。同様の兆候がないか、注意深く観察を」
「了解しました」
◆
会議が終わり、出席者たちが退室していく中、松本は廊下で黒田に呼び止められた。
「松本君。一つ、個人的な意見を聞きたい」
黒田の表情は、先ほどまでの公式なものとは違っていた。
「あのスライムの変異。君はどう思う?」
松本は少し考えてから答えた。
「正直に言えば……不気味です。まるで何かに『呼応』したような変化でした」
「呼応、か」
黒田は考え込むように呟いた。
「実は、ここ最近、他でも似たような報告が上がっている。個別の怪異が同時多発的に活性化する事例が」
「はい、聞き及んでいます。まるで、何か大きな力が──」
「そこまでだ」
黒田が制止する。
「今は憶測の段階だ。だが、備えは必要かもしれない」
松本は頷き──二人は無言で歩き続けた。