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第4話「水底の誘い②」

 ◆


 ギギギギ、ギギギギギギギギギギ。


 無数の顎が擦れ合う音が、狭い下水道に反響して鼓膜を揺らす。


 目の前の河童が一歩、僕の方へと踏み出してきた。


 べちゃり、べちゃりとした足音がやけに大きく聞こえる。


 逃げようにも足が動かない。


 他の河童たちもそれに呼応するようにじりじりと距離を詰めてくる。


 包囲網がゆっくりと──しかし確実に狭まっていく。


 逃げられない。


 ずっと暗い中に潜んでいた弊害だろうか、河童たちがすぐに襲い掛かってこないのはスマホのライトを警戒しているからだと思う。


 つまりこのライトが照らし出す光の輪が僕にとっての全世界だった。


 そしてその輪郭の向こうの暗闇は死そのものだ。



 なんで僕がこんな目に



 ただ学校に行こうとしていただけなのに。


 裕とくだらないメッセージを送り合って、アリスとの会話を思い出して、週末の映画を楽しみにしていた、ただの日常だったはずなのに。


「や、やめ……」


 掠れた声が漏れる。


 情けない。


 でも恐怖で体が石みたいに固まって、これ以上大きな声なんて出せそうになかった。


 一匹の河童が僕に向かって腕を伸ばした。


 鉤爪のついた、緑色の汚らしい手。


 もうダメだ。


 捕まる。


 殺される。


 目を固く瞑ったその瞬間だった。


 ぎゅう、と胸が締め付けられるような感覚。


 息が詰まる。


 心臓が握り潰されるみたいだ。


 でも、それは苦しいだけじゃなかった。


 胸の中心から何か熱いものが込み上げてくる。


 知っている感覚。


 何度も僕を救ってくれた、あの感覚。


「え……?」


 目を開けると、信じられない光景が広がっていた。


 僕の胸、制服のブレザーの真ん中あたりからすぅっと白い手が伸びている。


 僕の手じゃない。


 もっと細くて、長くて、透き通るように白い、綺麗な女の人の手。


 僕には分かる、これは──


 ──お姉さんの手だ


 目の前に迫っていた河童の首を、お姉さんの手はいとも容易く掴んだ。


 河童が甲高い悲鳴を上げようとして声にならない音を発する。


 きゅるるる、と空気が抜けるような奇妙な音。


 次の瞬間、信じられないことが起きた。


 お姉さんの手に掴まれた河童の体が、急速に水分を失っていく。


 ぬめりのあった緑色の皮膚は皺だらけになり、見る間にどす黒く変色していく。


 まるで何百年も放置されたミイラみたいに……。


 数秒も経たないうちに、河童は原型を留めない乾いた塊になった。



 ギィ!? 


   ヂャアアアアアッ! 



 他の河童たちが一斉に叫び声を上げた。


 それは飢えや殺意に満ちた声じゃない。


 恐怖。


 自分たちの理解を超えた何かに遭遇した者の恐怖の叫びだった。


 本来なら僕があげているだろう悲鳴だ。


 河童たちは恐慌状態に陥っていた。


 一匹が狂ったように奇声を上げながら踵を返し、暗闇の奥へと猛然と泳ぎ去っていく。


 それに続くように、他の河童たちも我先にと逃げ出した。


 壁を這っていたものは転がるように落ち、天井にいたものは水面に叩きつけられ、もつれ合い、互いを蹴散らしながら、蜘蛛の子を散らすようにして暗闇の中へと姿を消していく。


 あれだけいたはずの河童の群れが、ほんの十数秒で一匹残らずいなくなった。


 あとには不気味なほどの静寂だけが残された。


 ちゃぷ……と、逃げ去った河童たちが立てた波紋が、壁に当たって返ってくる音だけが聞こえる。


 ◆


 僕はその場にへたり込んだ。


 腰が抜けてもう立っていられない。


 助かったんだ。


 死ぬかと思った。


 本当にもうダメだと思った。


 胸から伸びていたはずのお姉さんの手はいつの間にか消えていた。


 全身の力が抜けて汚水の中に座り込んだまま、僕は震える声で呟いた。


「ありがとう、お姉さん……また、助けてくれたんだね」


 掠れた、ほとんど吐息みたいな声だった。


 でも、きっと届いているはずだ。


 そう思った、その時。


『……私はいつでも助けられる訳じゃないの』


 すぐ耳元で声が聞こえた。


 お姉さんの声だ。


 細くて消え入りそうな声。


 まるで遠くから風に乗って届くみたいに頼りない。


『……私が此方に来られるのには条件がいるの。その条件を教えてあげたくても、今はできない。今では、あれが精一杯。だからすぐにここから離れなさい』


 その声にはいつものような優しさよりも、切迫した響きが混じっていた。


 そしてその言葉を最後に、お姉さんの気配は完全に消えた。


 僕は呆然としてしまう。


 お姉さんがいない。


 今度は助けてもらえない。


 あの河童たちがまた戻ってくるかもしれない。


 パニックになりそうだったが──


 こらえた。


 ──僕が僕を助けようとしないでどうするんだ


 そう思った。


 ◆


 とはいえ、だ。


「ここから離れる……っていっても」


 どうやって? 


 どっちに行けばいいんだ。


 ここはどこなんだ。


 僕は必死に考えて、ふと思い出す。


 そうだ、スマホ。


 まだ手の中に握りしめている。


 画面はまだ光っている。


 電波は……立っている。


 一本だけだけど、かろうじて。


 そうだ、助けを呼べばいいんだ。


 なんで思いつかなかったんだろう。


「とにかく、誰かに連絡を……」


 真っ先に頭に浮かんだのは茂さんの顔だった。


 警察や救急、霊捜への通報──そういうのも考えたけれど、茂さんは霊異対策本部の職員だ。


 そして僕の親代わりをしてくれている、まあ、その……お父さんだ、言ってみれば。


 だからきっと、事態を事務的に処理しないだろう。


 本気で助けようとしてくれるだろう。


 震える指で、電話帳を開く。


 そして「茂さん」の文字を探して、タップする。


 コール音がやけに大きく、そして長く感じられた。


 仕事中かもしれない。


 忙しいかもしれない。


 でも、そんなことを考えている余裕はなかった。


 出て、お願いだから。


『もしもし、聖か。どうした?』


 数回のコールの後、茂さんの落ち着いた声が聞こえてきて、僕は思わず泣きそうになった。


「茂さん! ご、ごめんなさい、仕事中に……!」


『いや、それはいい。それより、声が震えてるぞ。何かあったのか』


「助けて……助けてください! な、何かに襲われて、今、下水道の中に……!」


『下水道だと!?』


 電話の向こうで、茂さんの声のトーンが変わった。


 驚きとプロのそれとが混じった鋭い声。


『落ち着いて聞け、聖。まず、怪我は?』


「た、多分、打撲くらいで……大きな怪我は……」


『よし。周囲の状況は? 何か見えるか』


「真っ暗で……スマホの明かりだけです。さっきまで河童みたいなのがたくさんいたんですけど、いなくなって……」


『河童……そうか』


 茂さんは冷静に相槌を打つ。


 その冷静さが、パニック寸前の僕を少しだけ落ち着かせてくれた。


『いいか、聖。絶対にその電話を切るな。いいな、絶対にだ。充電は十分か?』


「は、はい。大丈夫、充電もあります」


『今、お前のいる場所を逆探知している。すぐに局員を向かわせる』


「わ、わかりました」


『大丈夫だ。必ず助けに行く』


 その力強い言葉を最後に、茂さんは口を閉じた。


 でも通話は切れていない。


 向こうで誰かに指示を飛ばしているような、緊迫した声が微かに聞こえてくる。


 僕は言われた通り、その場にうずくまった。


 スマホを耳に当てたまま、息を殺す。


 暗闇の中で一人。


 でも、一人じゃない。


 電話の向こうに茂さんがいる。


 それだけが、唯一の支えだった。


 どれくらい時間が経っただろう。


 五分か、十分か。


 永遠のようにも感じられた。


 ちゃぷ、と遠くで水音がした。


 びくりと体が跳ねる。


 河童が戻ってきたんじゃないか。


 恐怖で心臓が縮み上がる。


 でも聞こえてきたのは規則正しい水音と、複数の人間の話し声だった。


「こちら第一班、目標地点に到達。スマートフォンのライトと思われる光を確認」


「周囲を警戒しつつ、速やかに保護しろ!」


 光だ。


 僕が照らすスマホの明かりとは比べ物にならない、強力なライトの光が水路の向こうから近づいてくる。


 光に照らし出されたのは、黒い特殊な戦闘服に身を包んだ数人の男の人たちだった。


 ヘルメットを被り、手には物々しい機械や銃のようなものを構えている。


 霊異捜査局の人たちだ。


「生存者を発見! 御堂聖さんですね!」


 一人が僕に駆け寄ってくる。


 ヘルメットのバイザー越しに、心配そうな目が僕を見ていた。


「大丈夫ですか! 立てますか!」


「は……はい……」


 局員の人に肩を貸してもらい、僕はゆっくりと立ち上がった。


 足に力が入らない。


 全身が震えている。


 他の局員が周囲を警戒し、何かの機械で周囲を調べている。


「あなたのお父さんから話は聞いています。もう大丈夫ですよ」


 若い局員さんが僕を安心させるように言った。


 その言葉を聞いて、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。


 視界がぐにゃりと歪み、全身から力が抜けていく。


 ああ、助かったんだ。


 そう思ったのを最後に僕の意識は暗転した。

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