◆
登校中、僕は普段より神経質に周囲を確認していた。
少しでも異常があれば──例えば空が暗くなり始めたり、あきらかに奇妙な現象が起きたりしたらすぐに逃げるつもりだ。
ここ最近は物騒だし……
でもいつもと変わらない朝だった。
どこかのお店がシャッターを開ける音、遠くで吠える犬の声、自転車のベルの音。
この分なら朝から何かに巻き込まれるってことはなさそうだな。
そんな事を思っていると、スマホが震えた。
裕からのメッセージだった。
『今日の数学、宿題やった?』
『やったよ』
『マジか。俺まだ』
『また写させてって言うんでしょ』
『バレた』
くだらないやり取りに、つい口元が緩む。
昨日のクロの芸を動画に撮ったやつも送ろうかな──そんなことを考えながら、人通りの少ない裏道に入った。
ここを通れば五分は短縮できる。
今朝はクロに構ってたら少し家を遅く出るハメに……まあ僕が全面的に悪い。
古いアパートと倉庫に挟まれた細い道。朝のこの時間はほとんど人が通らない。
ふと、足元に違和感を覚えた。
マンホールの蓋が──
「危ないな」
十センチほどずれている。
重そうな鉄の蓋が斜めに浮いて、黒い隙間が口を開けていた。
通報したほうがいいかな。
でも遅刻しそうだし……まあ、とりあえず避けて通ろう。
マンホールから距離を取るように、道の端に寄る。
その瞬間だった。
ずるり。
何かが──
隙間から、緑色の何かが稲妻のような速さで飛び出した。
ぬめりを帯びた、鱗のある腕。
人間の腕とは明らかに違う。指は水かきでつながれ、爪は鉤のように曲がっている。
その腕が僕の右足首を鷲掴みにした。
「え──」
何が起きたか理解できない。
イタズラ? 夢?
冷たい。濡れた何かが肌に張り付く感触。生臭い匂いが鼻をつく。
次の瞬間、信じられない力で引っ張られた。
「うわっ!」
体が前のめりに倒れる。アスファルトに手をついた。ざらついた地面で掌を擦りむく。
でも痛みなんて感じている場合じゃなかった。
ずるずると、体が引きずられていく。
まるで巨大な釣り針に引っかかった魚みたいに。人間業とは思えない──いや、これは人間じゃない。
「やめ──」
アスファルトに爪を立てる。でも全然歯が立たない。爪が剥がれそうなくらい必死にしがみついても、体はずるずると後ろに引きずられていく。
イヤホンが耳から外れて、カラカラと地面を転がった。
さっきまで聴いていた音楽が、遠くでかすかに鳴っている。
「助け──」
叫ぼうとした。でも声が出ない。恐怖で喉が締まっている。
振り返る。
マンホールの黒い穴が、大きな口みたいに開いている。
そこに向かって、僕は引きずられていた。
嘘だろ。
こんなの──
上半身がマンホールの縁にぶつかる。ゴツンという鈍い音。肋骨が軋む。
そのまま、頭から穴の中に引きずり込まれた。
そして──
暗い。
真っ暗。
落ちていく感覚。でも落下というより、何かに引っ張られて降りていく感じ。
壁に何度も体をぶつける。
最後に見えたのは、マンホールの向こうの青い空だった。
◆
ゴボゴボという水の音で目が覚めた。
──覚めた? 気を失ってたのか。
全身が痛い。特に右の肩と腰がズキズキする。
冷たい。
制服がびしょびしょだ。下水の汚い水が染み込んで、体温を奪っていく。
「うっ……」
鼻をつく悪臭。腐った卵と生ゴミと、それに何か別の──獣臭い匂いが混ざっている。
吐きそうだ。
暗闇の中で体を起こそうとする。
でも上手く力が入らない。手探りで周囲を確認すると、ぬるぬるした壁と、足首まで浸かる汚水。
ここは──下水道?
東京の地下深くに張り巡らされた下水道。その奥深く。
なんで僕がこんなところに。
さっきの腕は何だったんだろう。
考えられるのは異常領域だ。
でもこれまで経験したものとは違う。
世界そのものが塗り替えられるような、あの感覚がない。
──つまり異常領域じゃないって事……?
だったらなんだというのだろう。
「誰か……」
声を出してみる。でも湿った空気に吸い込まれて、すぐに消えてしまう。
「助けて!」
今度は大声で叫ぶ。
でも返ってくるのは、自分の声の反響だけ。
助けて、けて、て……
暗闇の中で響く自分の声が、余計に恐怖を煽る。
立ち上がろうとして、足が滑った。汚水の中に尻もちをつく。
冷たい水が腰まで浸かる。気持ち悪い。早くここから出ないと。
でもどっちに行けばいい?
真っ暗で何も見えない。
スマホ──スマホがあれば光が。
震える手でポケットを探る。
あった。
水没してないといいけど……恐る恐る電源ボタンを押す。
画面が光った。
よかった、無事だ。
薄明かりの中で周囲を照らす。
コンクリートの壁、天井から垂れ下がる配管、そして延々と続く水路。
やっぱり下水道だ。
でも──
ぞわり。
背筋に悪寒が走る。
何かがいる。
暗闇の向こうに、何かが。
ちゃぷ。
水音がした。
僕が立てた音じゃない。
ちゃぷ、ちゃぷ。
規則的な水音が近づいてくる。
スマホの光を向ける。
何もいない。
でも音は確実に近づいている。
逃げないと──
立ち上がって、音と反対方向へ走ろうとする。
でも足場が悪くて思うように進めない。水の抵抗と、ぬめる床に足を取られる。
後ろを振り返る。
まだ何も見えない。でも──
ギ、ギギギ……
歯ぎしりみたいな音が聞こえてきた。
いや、歯ぎしりじゃない。
もっと不快な、生理的に受け付けない音。鳴き声? それとも──
水面に波紋が広がる。
何かが、水の中を移動している。
複数。
たくさん。
心臓が早鐘のように打つ。逃げろ、早く逃げろと本能が叫んでいる。
でも足が動かない。
恐怖で体が硬直している。
そして──
ぬらり。
スマホの光の端に、それが現れた。
河童だ。
でも、昔話に出てくるような愛嬌のある姿じゃない。
目は濁った黄色。光がないのに、ぎらぎらと不気味に光を反射している。腐った魚の目みたいだ。
口からは絶えず泡と涎が垂れている。歯は鋭く尖って、ところどころ欠けている。
体は緑というより、どす黒い。鱗がところどころ剥がれて、その下から膿んだような肉が見えている。
頭の皿は乾いてひび割れ、端が欠けている。
ギギギギ……
また、あの音。
よく見ると、顎が左右にずれながら動いている。
歯と歯が擦れる音だった。
しかも一匹じゃない。
暗闇から次々と現れる。
壁を這うもの、天井に張り付くもの、水中を泳ぐもの。
十匹、二十匹──数えられない。
全部が全部、狂気に満ちた目で僕を見ている。
理性なんてない。
ただ、飢えた獣の目。
「ひっ……」
思わず後ずさる。
でも後ろにも──
振り返ると、そこにも河童がいた。
完全に包囲されている。
ギギギギギギ……
歯ぎしりの音が重なって、不協和音になる。
そして──