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黄金色の小麦が、風もないのに微かに揺れていた。
どんよりとした暗雲が、青い天蓋を少しずつ侵食していく。
墨を垂らしたような黒い塊が、ゆっくりと──しかし確実に広がっていた。
その様子を眺めるサキの表情が、ほんのわずかに歪んだ。
この世界の空は、サキの愛する"弟"──聖の心そのものだ。
雲一つない快晴は、聖の心が穏やかで幸福に満ちている証。
だが今、空を覆う暗雲は──
恐怖。
不安。
孤独。
そういった負の感情が、聖の心を蝕んでいることを如実に物語っていた。
サキは視線を地平線へと向けた。
小麦畑は果てしなく続いているように見える。
だがそれは錯覚だ。
この世界には明確な境界がある。
聖の"内"の広さ──それがこの世界の限界なのだから。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
小麦の穂が途切れた場所。
そこに小さな建造物が佇んでいる。
木造の小屋だった。
粗末だが、しっかりとした造り。
雨風を凌ぐには十分な──
サキは小屋へと歩を進める。
素足が小麦を踏みしめる度に、さらさらという音が響いた。
近づくにつれ、もう一つの変化に気がつく。
小屋の傍らに小さな池ができていた。
黒い水面──
いや、違う。
これは水ではない。
どろりとした粘性のある何か。
生き物のように、時折その表面が波打っている。
サキは池の縁にしゃがみ込んだ。
白い指先を黒い水面にそっと触れさせる。
ひんやりとした感触。
だが、ただ冷たいだけではない。
微かな──本当に微かな温もりが、その奥に宿っていた。
サキの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
立ち上がり、改めて小屋と池を見渡す。
以前はただ小麦畑が広がるだけだったこの世界に、少しずつ"何か"が増えている。
それは聖の"器"の成長の証でもあり──
同時に。
サキの瞳に妖しい光が宿った。
聖がこちら側に近づいている証でもある。
そう、確実に聖の"内"は広がっている。
そして広がれば広がるほど、この世界──サキの領域との境界は薄くなっていく。
いずれは。
サキは空を仰いだ。
風が吹いた。
サキの長い黒髪が、白いワンピースが大きくなびく。
小麦も一斉に傾き、ざわざわと不穏な音を立てた。
まるで何かに怯えているかのように。
ややあってサキは池に背を向け、再び空を見上げた。
暗雲は相変わらず重く垂れ込めている。
だが──
その奥に、微かに星が瞬いているのが見えた。
聖の魂の輝き。
どんなに暗い雲に覆われても、決して消えることのない光。
サキはその光を愛おしそうに見つめる。
そして──
舌なめずりをした。
赤い舌が、薄い唇をゆっくりとなぞる。
飢えた獣のような、それでいて恍惚とした表情。
聖君。
愛しい、愛しい聖君。
もっとこちらに来て。
もっと私を必要として。
もっと、もっと──
サキの瞳が一瞬だけ人ならざる色に染まった。
金色とも、赤とも、黒ともつかない混沌とした輝き。
風が止んだ。
小麦畑が静まり返る。
まるで世界全体が息を潜めているかのような静寂。
その中でサキだけが動いていた。
ゆらり、ゆらりと。
幽鬼のような足取りで小麦畑を彷徨う。
時折立ち止まり、宙を撫でるような仕草をする。
まるで見えない何かを愛撫しているかのように。
やがて、サキは元の場所に戻ってきた。
小屋と池を背に地平線を見据える。
唇が動いた。
今度ははっきりと声に出して。
ま っ て て ね
聖 君
一音一音を、慈しむように紡ぐ。
だがその声音は──
甘美でありながら、ぞっとするほど冷たい。
慈愛に満ちていながら、底知れぬ欲望を孕んでいる。
守護者の声でありながら、捕食者の囁きでもある。
サキは微笑んだ。
この世界で最も美しく、最も恐ろしい笑顔を浮かべて。
空の暗雲がまた少し広がった。