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第9話「姉成るモノ」

 ◆


 黄金色の小麦が、風もないのに微かに揺れていた。


 は空を見上げた。


 どんよりとした暗雲が、青い天蓋を少しずつ侵食していく。


 墨を垂らしたような黒い塊が、ゆっくりと──しかし確実に広がっていた。


 その様子を眺めるサキの表情が、ほんのわずかに歪んだ。


 この世界の空は、サキの愛する"弟"──聖の心そのものだ。


 雲一つない快晴は、聖の心が穏やかで幸福に満ちている証。


 だが今、空を覆う暗雲は──


 恐怖。


 不安。


 孤独。


 そういった負の感情が、聖の心を蝕んでいることを如実に物語っていた。


 サキは視線を地平線へと向けた。


 小麦畑は果てしなく続いているように見える。


 だがそれは錯覚だ。


 この世界には明確な境界がある。


 聖の"内"の広さ──それがこの世界の限界なのだから。


 ふと、視界の端に違和感を覚えた。


 小麦の穂が途切れた場所。


 そこに小さな建造物が佇んでいる。


 木造の小屋だった。


 粗末だが、しっかりとした造り。


 雨風を凌ぐには十分な──


 サキは小屋へと歩を進める。


 素足が小麦を踏みしめる度に、さらさらという音が響いた。


 近づくにつれ、もう一つの変化に気がつく。


 小屋の傍らに小さな池ができていた。


 黒い水面──


 いや、違う。


 これは水ではない。


 どろりとした粘性のある何か。


 生き物のように、時折その表面が波打っている。


 サキは池の縁にしゃがみ込んだ。


 白い指先を黒い水面にそっと触れさせる。


 ひんやりとした感触。


 だが、ただ冷たいだけではない。


 微かな──本当に微かな温もりが、その奥に宿っていた。


 サキの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。


 立ち上がり、改めて小屋と池を見渡す。


 以前はただ小麦畑が広がるだけだったこの世界に、少しずつ"何か"が増えている。


 それは聖の"器"の成長の証でもあり──


 同時に。


 サキの瞳に妖しい光が宿った。


 聖がこちら側に近づいている証でもある。


 そう、確実に聖の"内"は広がっている。


 そして広がれば広がるほど、この世界──サキの領域との境界は薄くなっていく。


 いずれは。


 サキは空を仰いだ。


 風が吹いた。


 サキの長い黒髪が、白いワンピースが大きくなびく。


 小麦も一斉に傾き、ざわざわと不穏な音を立てた。


 まるで何かに怯えているかのように。


 ややあってサキは池に背を向け、再び空を見上げた。


 暗雲は相変わらず重く垂れ込めている。


 だが──


 その奥に、微かに星が瞬いているのが見えた。


 聖の魂の輝き。


 どんなに暗い雲に覆われても、決して消えることのない光。


 サキはその光を愛おしそうに見つめる。


 そして──


 舌なめずりをした。


 赤い舌が、薄い唇をゆっくりとなぞる。


 飢えた獣のような、それでいて恍惚とした表情。



 聖君。


 愛しい、愛しい聖君。


 もっとこちらに来て。


 もっと私を必要として。


 もっと、もっと──



 サキの瞳が一瞬だけ人ならざる色に染まった。


 金色とも、赤とも、黒ともつかない混沌とした輝き。


 風が止んだ。


 小麦畑が静まり返る。


 まるで世界全体が息を潜めているかのような静寂。


 その中でサキだけが動いていた。


 ゆらり、ゆらりと。


 幽鬼のような足取りで小麦畑を彷徨う。


 時折立ち止まり、宙を撫でるような仕草をする。


 まるで見えない何かを愛撫しているかのように。


 やがて、サキは元の場所に戻ってきた。


 小屋と池を背に地平線を見据える。


 唇が動いた。


 今度ははっきりと声に出して。



 ま っ て て ね


         聖 君



 一音一音を、慈しむように紡ぐ。


 だがその声音は──


 甘美でありながら、ぞっとするほど冷たい。


 慈愛に満ちていながら、底知れぬ欲望を孕んでいる。


 守護者の声でありながら、捕食者の囁きでもある。


 サキは微笑んだ。


 この世界で最も美しく、最も恐ろしい笑顔を浮かべて。


 空の暗雲がまた少し広がった。

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