◆
僕はただひたすらに走っていた。
どこへ向かっているのか分からない。
ただ、あの場所から離れたかった。
河童の首が落ちた場所から。
血の匂いから。
息が切れる。
そこでようやく足を止めて──やがて呼吸が整ってきた。
心臓の鼓動も落ち着きを取り戻していく。
気がつくと、雨はすっかり止んでいた。
灰色の雲の隙間から、うっすらと陽光が差し込んでいる。
手に持った傘をじっと見つめる。
黒い和紙は雨に濡れて艶やかに光っていた。
朱色の模様も鮮やかさを増している。
綺麗だな、と素直に思う。
でも。
ついさっき、この傘が河童を──
首を落とした。
血を流させた。
殺した。
でも不思議なことに、僕の中に傘への拒否感は全くなかった。
拒否感を覚えたのは僕自身に対してだ。
正当防衛なのかもしれないけれど、簡単に割り切れる事じゃなかった。
ふと、なんとなく自分の恰好を見下ろしてみる。
制服のブレザーも、ズボンも、靴もどこも濡れていない。
あれだけの雨の中を走ってきたというのに、まるで室内にいたかのように乾いている。
「守ってもらったってことなのかな……」
独り言が口をついて出た。
傘の柄を撫でる。
竹の感触が手のひらに心地よい。
「ありがとう」
小さな声で礼を言った。
誰に向けてかは分からない。
傘に?
それともこの傘をくれた少年に?
僕自身にもよくわからない。
「帰ろっと……」
そう呟いて歩き出そうとした瞬間。
「あっ」
大事なことを思い出した。
お茶葉だ。
悦子さんに頼まれたお茶葉を買うのを忘れていた。
河童に遭遇してすっかり頭から飛んでしまっていた。
慌てて辺りを見回す。
見覚えのある看板が目に入った。
ここからならスーパーまでそう遠くない。
僕は小走りでスーパーへ向かった。
店内は相変わらずの人混みだった。
買い物客たちが思い思いに商品を手に取っている。
平和な光景だ。
つい先ほどの出来事が嘘みたいに思える。
お茶売り場へ直行する。
悦子さんがいつも買っている銘柄を手に取った。
ほうじ茶の香ばしい匂いが、パッケージ越しにもふわりと漂ってくる。
レジで会計を済ませ、外に出る。
空はすっかり晴れていた。
◆
家に着くと、玄関で靴を脱いだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
リビングから悦子さんの声が返ってくる。
リビングに入ると、悦子さんがソファに座っていた。
何か訝しげな表情で僕を見ている。
心配そうな、でも少し警戒するような、複雑な表情だった。
そんなに遅くはなっていないはずだけど。
時計を見ると、家を出てから一時間も経っていなかった。
いや、でも家からスーパーまではすぐだし、往復でも二十分くらいだ。
やっぱり少し遅いか……そんな事を思っていると。
悦子さんがゆっくりと立ち上がった。
僕の方をじっと見ている。
表情はどこか険しい……気がする。
唇が薄く引き伸ばされ、僕を──いや、僕の後ろを見ている?
振り返ってみるが、そこには誰もいないし何もない。
「悦子さん……?」
なんだか不安になって声を掛けると悦子さんは──
「あ、うーん、何でもないの。ただちょっと……」
言いかけて、言葉を濁す。
「ちょっと……?」
僕が聞き返すと、悦子さんは首を横に振った。
「いえ、やっぱりなんでもないわ……」
大きく息をつきながら言う様子は、明らかに何でもなくはない。
ただ、それを確認するのはどこか憚られるものがあった。
悦子さんは少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように続ける。
「それより、その、何もなかった?」
質問が少し不明瞭だった。
何を聞きたいのか、はっきりしない。
でも僕はドキッとしてしまう。
河童のこと。
傘が勝手に動いたこと。
血の匂い。
全部が頭の中で渦巻く。
「何もなかったけれど……」
咄嗟にそう答えた。
嘘だ。
でも、本当のことを言えるはずもない。
もちろん言うべきなのは分かっている。つい最近入院したばかりなのだから。
ただ、さすがにこうも立て続けに心配をかけたくはなかった。
これも不思議だ、僕は別に悪い事をしていないのに……
悦子さんの表情が少し和らいだ。
安心したような、ほっとしたような顔。
「良かったわ」
大きく息を吐いて、悦子さんは続けた。
「さっき茂さんから連絡がきてね」
茂さんの名前が出て僕は身構える。
何か重要な話だろうか。
「今日明日のお休みはなるべく外に出ないようにって……」
「え、どうしてですか?」
思わず聞き返す。
悦子さんは困ったような顔をした。
「それが……茂さんも教えてくれなかったのよ」
肩をすくめる。
「ただ、あの人にしてはなんというか……」
言葉を探すように少し間を置く。
「焦っていた……ような気がするわ。外に出るなっていうのも、出来ればッて言う感じだったし。はっきりしないのよね」
茂さんが焦る。
それは相当なことだ。
いつも冷静で、どんな状況でも落ち着いている茂さんが。
「もしかしたらお化けに関係していることかもしれないわねぇ……」
悦子さんが付け加える。
「聖君もお願いできるかしら?」
僕は頷いた。
多分、異常領域とか怪異とか、そっち関係なんだろう。
最近は本当に物騒だ。
河童のことを思い出して、改めてそう思う。
◆
ふと、手に持った傘に視線が行く。
「悦子さん」
僕は思いついたことを口にした。
「綺麗な布巾とかありますか?」
「布巾?」
悦子さんが首を傾げる。
「傘のお手入れをしたいから」
そう言って和傘を少し持ち上げて見せた。
「あら、そうなの」
悦子さんの表情が明るくなる。
「ちょっと待ってね」
台所へ向かって、すぐに戻ってきた。
手には柔らかそうな白い布巾が数枚。
「これでいいかしら」
「ありがとうございます」
せっかく守ってくれたんだから、お手入れくらいはしないとね。
◆
部屋に入ると洗面器に目がいく。
しかしそこにクロはいない。
ただ、これはいつもの事だ。
ここ最近のクロは結構あちこち動き回っていて、ベッドの下にいたりすることもある。
いまもきっとどこかに隠れてるんだろう。
とりあえず僕は床に新聞紙を広げた。
傘が濡れているから床を汚さないようにしないと。
その上に傘を置いて、しゃがみ込む。
と、その時。
コンコンとノックの音。
「聖君、入ってもいい?」
悦子さんの声だ。
「どうぞ」
ドアが開いて、悦子さんが入ってきた。
手にはお茶のセットを持っている。
「お茶でも飲みながらやったら?」
「ありがとうございます」
悦子さんはお茶を机に置くと、僕の隣にしゃがんだ。
「和傘の手入れって難しいのよね」
そう言いながら、傘を見つめる。
「まず、濡れた状態で閉じちゃダメよ」
「そうなんですか」
「カビが生えちゃうから」
悦子さんが説明を始める。
「開いたまま、風通しの良い場所で乾かすのが基本」
なるほど。
「それから、汚れは優しく拭き取ること」
布巾を手に取って、実演してくれる。
「ゴシゴシこすっちゃダメ。和紙が破れちゃうから」
確かに、和紙は繊細そうだ。
「骨組みの部分も丁寧にね。悪い
そう言って竹の骨を一本一本、丁寧に拭いていく悦子さん。
その手つきは慣れたものだった。
「悦子さん、和傘使ったことあるんですか?」
「昔、おばあちゃんが使ってたのよ」
懐かしそうに微笑む。
「子供の頃、よく手入れを手伝わされたわ」
そんな話をしながら、二人で傘の手入れをしていると。
「あっ」
悦子さんが小さく声を上げた。
同時に、首元にひんやりとした感触。
「わぁっ!」
思わず声が出る。
振り返ると、そこにはクロがいた。
小さくなったクロが、僕の首筋にぺたりと張り付いている。
「いないと思ったら天井にいたのねぇ」
悦子さんが笑いながら言う。
「ごめんね、クロ。放っておいて」
僕が謝ると、クロはぷるりと震えた。
怒ってはいないみたいだ。
悦子さんが立ち上がる。
「そうだ、クロちゃんにもご飯あげないとね」
そう言って部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
手には小さなビニール袋。
中にはパンの耳が入っている。
「はい、クロちゃん」
悦子さんが一本取り出して、クロの前に差し出す。
クロは恐る恐るといった感じで触手を伸ばす。
ゆっくり、ゆっくりと。
まるで警戒しているみたいだ。
そしてパンの耳を受け取ると、すぐに体内に取り込んだ。
「あら、今度は受け取ってくれたのね」
悦子さんが嬉しそうに言う。
「前は全然受け取ってくれなかったのに」
そうだったのか。
「最近は少しずつ慣れてきたみたいね」
悦子さんがクロを見つめる。
僕は少し考えてから、口を開いた。
「クロ」
クロが僕の方を向く。
少なくとも、そんな気がした。
「悦子さんも茂さんも、僕の──」
言いかけて少し悩む。
でも言うことにした。
「僕のお父さんとお母さん、みたいな人なんだ」
ちょっと恥ずかしい。
でも本当のことだ。
「僕だけじゃなくて二人のことも守ってね」
クロに向かってそう言う。
すると悦子さんが「あら」と言って笑った。
優しい笑顔だった。