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部室に残されたのは僕とアリス、それに福々先輩と数人の部員だけだった。
みんな祟部長の言葉を消化しきれていないような顔をしている。
「じゃあ僕も帰るかな」
福々先輩が立ち上がる。
いつものんびりした調子だけど、どこか上の空のような感じだ。
「みんなも気をつけて帰ってね」
そう言い残して部室を出て行った。
残った部員たちも一人、また一人と帰っていく。
気がつけば部室には僕とアリスだけになっていた。
窓の外は夕日で赤く染まっている。
「私たちも帰りましょうか」
アリスが立ち上がりながら言った。
「うん、そうだね」
僕も鞄を手に取る。
二人で廊下に出て、並んで歩き始めた。
放課後の校舎は静まり返っている。
部活が中止になっているせいで、いつもの賑やかさがない。
僕たちの足音だけが廊下に響いていた。
「部長の話、どう思う?」
僕が口を開いた。
「都庁から邪気が出てるなんて」
アリスは少し考えるような素振りを見せてから答えた。
「祟部長が嘘をつくとは思えませんわ」
その言葉には確信がこもっていた。
「それに、わたくしも昨夜感じました。街全体を覆う不穏な気配を」
階段を下りながら、アリスは続ける。
「ただ、その源が都庁だったとは……」
言葉を濁す。
何か思うところがあるのかもしれない。
昇降口で靴を履き替える。
外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
まだ寒さは残っているけど、どこか春の匂いがする。
「それで、準備って何をすればいいんだろう」
僕が呟くと、アリスが振り返った。
夕日を背にしたアリスの表情は、いつもより真剣だった。
「力を身につけることですわ」
「力?」
「ええ。自分の身を守り、大切な人を守るための力」
アリスの言葉は単純明快だった。
でも──
「そんなこと言われても……」
僕は肩を落とす。
「僕には異能なんてないし」
校門を出て、いつもの通学路を歩き始める。
商店街の入り口まで来たところで、アリスが立ち止まった。
「今できないのなら、鍛えてできるようになるしかありませんわ!」
急に声を張り上げたアリス。
「え?」
「それにわたくし、御堂君には素晴らしい力があると思いますの」
アリスの瞳がまっすぐに僕を見つめている。
エメラルドグリーンの瞳が夕日を反射してきらきらと輝いていた。
「素晴らしい力って……」
僕は戸惑う。
「だって僕、何もできないよ?」
「それは違いますわ」
アリスは首を横に振る。
「御堂君は気づいていないだけです」
そう言って、アリスは再び歩き始めた。
僕も慌てて隣に並ぶ。
「トレーニングをしましょう」
「トレーニング?」
「ええ。異能を開花させるためのトレーニングですわ」
商店街を抜けて、住宅地に入る。
夕方の静かな道を二人で歩きながら、僕は考えた。
「トレーニングって言っても、ネットとかに書かれてることは大体試してきたんだけど」
「どんなことを?」
アリスが興味深そうに聞いてくる。
僕は少し恥ずかしくなりながら答えた。
「えっと、念動力の練習とか」
小学生の頃からやってきたことを思い出す。
「スプーン曲げとか、紙を念力で動かすとか」
アリスが小さく頷く。
「それから透視の練習も」
中学の時に夢中になったことだ。
「トランプの裏を当てるやつとか、封筒の中身を当てるとか」
「他には?」
「予知夢の日記をつけたり、瞑想したり……」
数え上げればきりがない。
どれも結果は出なかったけど、やれることはやってきたのだ。
アリスが立ち止まった。
ちょうど小さな公園の前だった。
「座りましょうか」
ベンチに腰を下ろす。
「御堂君」
アリスが真剣な表情で僕を見つめる。
「異能にはタイプがありますの」
「タイプ?」
「ええ。例えばスペイン語を覚えたいのに中国語の勉強をしても、スペイン語は覚えられないでしょう?」
なるほど。
なんとなく言っていることは分かる。
「じゃあ、僕がしてきた練習は……」
どんなタイプの異能を覚える練習だったんだろう。
アリスが説明を始めた。
「一般的に、そういった練習はサイオニックと呼ばれる系統のトレーニング方法ですわね」
サイオニック。
聞いたことがある気がする。
「念動力とか透視とか、精神の力で物理現象に干渉する能力の総称です」
アリスの説明は分かりやすい。
「御堂君はサイオニックとは相性が悪いかもしれない──ということになりますわね」
相性が悪い。
だから何年やっても結果が出なかったのか。
「じゃあ、僕は……」
少し落ち込んでしまう。
でも、ふと思いついたことがあった。
「裕みたいに火とか出せたりするようになるかな?」
期待を込めて聞いてみる。
アリスは少し考えてから答えた。
「発火や凍結、あとはクラスにもいますが相沢さんのような発電、そういった異能をキネティックと呼びます」
キネティック。
なんだか格好いい響きだ。
「エネルギーを生成・操作する系統ですわね」
「僕もそっちの才能があるかも?」
希望を持って聞く。
「もしかしたらそちらの系統である可能性もありますが──」
アリスが言葉を切る。
「ありますが?」
促すと、アリスは少し迷うような表情を見せた。
夕日がアリスの横顔を照らしている。
整った顔立ちが、光と影のコントラストで一層美しく見えた。
「わたくしの予想では、もっと別の系統である気がしますわ」
「別の系統?」
「そう、例えばソーサリーだとか」
ソーサリー。
魔術という意味だろうか。
「それってどんな……」
僕が聞きかけた時、公園の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。
夕飯前の最後の遊びを楽しんでいるらしい。
平和な光景だ。
昨夜の騒動が嘘みたいに思える。
「ソーサリーは少し特殊ですわね」
アリスが説明を再開する。
「儀式や呪文、道具を使って超自然的な現象を引き起こす系統です」
なるほど、確かに魔術っぽい。
「でも、それって勉強が必要なんじゃ……」
「その通りですわ」
アリスが頷く。
「知識と技術が必要です。でも──」
また言葉を切る。
今度は何か別のことを考えているような表情だ。
「御堂君の場合は、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「いえ、まだ確証はありませんわ」
アリスは首を振った。
そして立ち上がる。
「とにかく、まずは基礎からやってみましょう」
「基礎?」
「はい。どの系統にも共通する基礎訓練がありますの」
僕も立ち上がった。
公園を出て、再び歩き始める。
「例えば?」
「まずは瞑想ですわね」
「瞑想はやったことあるよ」
僕が言うと、アリスは微笑んだ。
「どんな瞑想を?」
「座禅みたいな感じで、目を閉じて呼吸に集中する……」
「それも大切ですが、異能開発のための瞑想は少し違いますわ」
へぇ、そうなのか。
「どう違うの?」
「目的が違いますの」
アリスが歩きながら説明する。
「一般的な瞑想は心を落ち着けることが目的ですが、異能開発の瞑想は──」
言葉を選ぶように少し間を置く。
「自分の内なる力を感じ取ることが目的ですわ」
内なる力。
そんなものが本当にあるのだろうか。
「具体的には?」
「まず、自分の体の中を流れるエネルギーを意識します」
アリスが立ち止まって、僕の方を向いた。
「今、ここで試してみましょうか」
「え、ここで?」
道の真ん中で瞑想するの?
「簡単なものですから」
アリスは僕の正面に立った。
「目を閉じて」
言われた通りに目を閉じる。
「深呼吸を三回」
ゆっくりと息を吸って、吐く。
一回、二回、三回。
「今度は、自分の心臓の鼓動を感じてください」
と言われても、心臓の鼓動を感じるっていうのは案外難しい。
よっぽど緊張したりしてないと……
「本当に心臓の鼓動を感じる必要はありませんわよ。まああくまでイメージですわ。そして、その鼓動が血液を全身に送っているのを想像してください」
心臓から血が流れていく様子を思い浮かべる。
「血液と一緒に、何か温かいものが流れているのを感じませんか?」
温かいもの?
集中してみるけど、よく分からない。
「分からないです」
「では、別の方法を」
アリスの声が近くなった。
目を開けると、アリスが僕の手を取っていた。
柔らかくて、少し冷たい手。
「私の手から何か感じますか? 分かりやすく
急に恥ずかしくなってきた。
でも、集中しなきゃ。
アリスの手の感触に意識を向ける。
すると──
「あ……」
微かに、本当に微かにだけど、何か感じる。
ピリピリとした感覚。
静電気みたいな、でももっと優しい何か。
「感じましたわね?」
アリスが嬉しそうに言う。
「これが霊力ですわ──まあ呼び方は色々あります。単に“力”と呼ぶことも多いですわね」
霊力。
こんな感覚だったのか。
「誰もが持っているものです。ただ、普通は意識しないだけ」
アリスが手を離した。
途端にあの感覚も消えてしまう。
「今の感覚を覚えておいてください」
「うん」
でも、もう薄れかけている。
掴みどころのない感覚だ。
「練習すれば一人でも感じられるようになりますわ」
アリスはそう言って再び歩き始めた。
住宅地を抜けて、大通りに出る。
車の音がうるさくて、さっきまでの静寂が嘘みたいだ。
「他にはどんな訓練があるの?」
僕が聞くと、アリスは指を立てて数え始めた。
「呼吸法、イメージトレーニング、エネルギー循環法……」
次々と挙げていく。
「その辺はあとでまとめてメッセージします。それから、自分に合った触媒を見つけることも大切ですわね」
「触媒?」
「異能を発動させやすくする道具や物質のことです」
なるほど。
「裕の場合は?」
「おそらく特に必要ないタイプでしょうね。キネティック系は触媒なしで発動できることが多いですから」
信号で立ち止まる。
赤信号を待ちながら、アリスは続けた。
「でも、ソーサリー系なら触媒は必須ですわ」
「例えばどんなもの?」
「水晶、札、杖、指輪……人によって様々です」
信号が青に変わった。
横断歩道を渡りながら、僕は考える。
もし僕に異能があるとしたら、どんな触媒が合うんだろう。
「そういえば」
ふと思い出したことがあった。
「この前、変な傘をもらったんだ」
「傘?」
アリスが興味を示す。
「和傘なんだけど、なんか不思議な感じがして」
昨日の出来事を思い出す。
河童を──
いや、今は考えないようにしよう。
「今度見せてくださいな」
「うん、いいよ」
しばらく黙って歩いた。
夕日が建物の向こうに沈もうとしている。
空がオレンジから紫へと変わっていく。
「御堂君」
アリスが急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「あのですね」
珍しく言いよどむアリス。
「私でよければ、トレーニングのお手伝いをしますわ」
意外な申し出だった。
「え、でも、アリスも忙しいんじゃ……」
「大丈夫ですわ」
アリスは微笑んだ。
「それに、一人でやるより二人の方が効率的です」
確かにそうかもしれない。
「本当にいいの?」
「もちろんですわ」
アリスの笑顔は優しかった。
「お友達じゃないですか」
友達。
その言葉が嬉しかった。
「ありがとう、アリス」
「お礼を言われることではありませんわ」
そう言いながらも、アリスは嬉しそうだった。
「じゃあ、明日から始めましょうか」
「明日?」
「善は急げと言いますでしょう?」
確かに。
祟部長も時間がないようなことを言っていたし。
「分かった。よろしくお願いします」
僕が頭を下げると、アリスは「はい、こちらこそ」と笑顔を浮かべた。