◆
家に着くと、玄関から悦子さんの料理の匂いが漂ってきた。
今日は何を作っているんだろう。
「ただいま」
靴を脱ぎながら声をかける。
「おかえりなさい」
リビングから悦子さんが顔を出した。
エプロン姿で、手には木べらを持っている。
「そういえば今日は茂さんがお客さんを連れてくるみたいよ」
何気ない調子で言われて、僕は手を止めた。
「お客さん?」
茂さんが仕事関係の人を家に連れてくるのは珍しい。
霊異対策本部の仕事は機密が多いから、普段は家に持ち込まないようにしているはずだ」
僕は首を傾げながら二階へ上がる。
クロは洗面器の中で、ぷるりと震えて出迎えてくれた。
◆
夜八時過ぎ。
玄関のチャイムが鳴った。
誰が来たのか気になって、僕はリビングへ降りていった。
茂さんの隣に、見慣れない男性が立っている。
スーツ姿。
小太りの体型。
年齢は六十代くらいだろうか。
頭髪は綺麗に剃り上げられていて、つるりとした頭皮が照明を反射している。
そして何より印象的なのは、その目だった。
大きい。
異様なほどに大きくて、ぎょろりとしている。
「聖、紹介しよう」
茂さんが僕に向き直った。
「異能の開発に関わる部署に勤めている
八田野と呼ばれた男性がにこやかに手を差し出してきた。
「やぁ、初めまして、聖君。八田野といいます。茂君から君の事を視てくれ、と言われてねぇ」
その大きな目に見つめられて、僕は思わず後ずさりそうになった。
瞳孔が妙に開いているような、そんな違和感がある。
「は、はじめまして」
なんとか挨拶を返して、差し出された手を握る。
ひんやりとした、湿った感触だった。
八田野さんは僕の手を握ったまま、じっと見つめてくる。
いや、見つめているというより、何かを探っているような──
「ほうほう、これはこれは」
急に八田野さんが顔を綻ばせた。
「いやぁ、才能ってやつなのかねぇ」
手を離して、満足そうに頷いている。
「とりあえず、座りましょうか」
茂さんに促されて、みんなでダイニングテーブルに着いた。
悦子さんがお茶を淹れてくれる。
「あの、八田野さん」
僕は恐る恐る口を開いた。
「僕をみるって、どういう……」
「ああ、そうですねぇ」
八田野さんはカップを手に取りながら答える。
「君の霊媒体質について、もう少し詳しく調べてみたいと思いましてねぇ。それと訓練方法についてもアドバイスできればと」
霊媒体質。
茂さんから聞いた、僕の異能のことだ。
「訓練って、どんなことをすれば」
「まずはねぇ」
八田野さんがカップを置いた。
「相手を理解することから始めないといけません」
相手?
「怪異や妖怪、そういった存在とねぇ」
ぎょろりとした目が、また僕を見つめる。
「彼らは人間とは違う理で生きている。その理を理解し、受け入れ、そして対話する。それが霊媒の基本ですよ。ま、基本とはいっても、それが全てではあるんですがねぇ」
◆
八田野さんの話は続く。
「とにかくね、色々と話すことですよ」
お茶を一口飲んで、八田野さんは言った。
「時には痛い目もみるかもしれないけれどねぇ」
そう言いながら、急に人差し指を立てる。
そして、その指で宙をくるくるとかき混ぜるような仕草をした。
何をしているんだろう。
「"
八田野さんが呟いた瞬間──
指先の空間が、墨を流したように黒くにじんだ。
まるで透明な水の中に、一滴の墨汁を垂らしたような。
とぷん。
水音のような、それでいて水とは違う不思議な音と共に、何かが飛び出してきた。
「うわっ!?」
思わず椅子ごと後ろに下がる。
目の前を、真っ黒い魚が泳いでいた。
空中を。
まるで水の中を進むように、ひれを動かしながら。
「ほほほ、そんな風に驚いてくれると妖怪冥利に尽きるのではないですかねぇ、墨ゑや」
八田野さんが愉快そうに笑う。
「あらまあ」
悦子さんも目を丸くしている。
でも怖がってはいない様子だ。
「妖怪……?」
僕は恐る恐る聞いた。
「うむ、墨ゑは妖怪ですねぇ。影魚という」
黒い魚──墨ゑは、僕の顔の前をゆらりと通り過ぎていく。
鱗一枚一枚が、濡れた墨のような光沢を放っている。
「尾張水異記という奇談集がありましてねぇ」
八田野さんが語り始めた。
「そこにこうあります。『尾張藩の若侍、島田某は、立身出世を強く望み、日夜武芸に励んでいた。ある夕暮れ、城の堀端を歩いていると、水面に見たこともないほど立派な鯉の影が悠々と泳いでいるのを見つける』」
墨ゑが八田野さんの周りをゆったりと回遊する。
まるで話を聞いているかのように。
「『なんと見事な……あやつを釣り上げ、殿に献上すれば、必ずや覚えもめでたくなろう』島田は来る日も来る日も堀に通い、その影の主を釣ろうと試みた」
八田野さんの声が、どこか芝居がかってきた。
「しかし、餌に食いつくことはなく、影はただ島田を嘲笑うかのように泳ぎ続ける。何日も経ったある日、日が落ちて自分の影が長く水面に伸びた時、ついに影魚と自分の影が重なった」
なんだか不穏な流れになってきた。
「島田は、何かが自分の中から抜け落ちるのを感じた。翌日から、島田はぱったりと道場に姿を見せなくなった。出世への望みも、武芸への情熱も綺麗に消え失せ、一日中、縁側でぼんやりと空を眺めて過ごすようになったという」
八田野さんが話を終えると、部屋に沈黙が降りた。
「なんだか……怖いですね」
僕が呟くと、八田野さんはまた笑った。
「ええ、そうそう。妖怪は、怪異はおっかないのですよ。でもねぇ」
人差し指を立てる。
すると墨ゑが、その指の周りをくるくると泳ぎ始めた。
「怖がってばっかりでもねぇ、仲良くはなれませんわな」
「仲良く──」
「ええ、仲良く。きっかけなんてなぁんでも良いんですよ、見た目が気に入ったとか、考え方が好きになったとかね。単なる取引関係でも良い」
八田野さんの目が、また僕を見つめる。
「そこから始めて、仲良くなっていく。そうしたらね聖君。彼らは力を貸してくれますよ、たんまりねぇ」
にたり。
八田野さんの笑みが、どこか不気味に歪んだ。
◆
「さて」
八田野さんが身を乗り出した。
「墨ゑとコミュニケーションをとってみなさい」
え?
「ほら、話しかけてみて」
促されて、僕は空中を泳ぐ黒い魚を見上げた。
「えっと……こんばんは?」
墨ゑは僕を一瞥もせず、悠々と泳ぎ続ける。
「あの、僕は聖っていいます」
反応なし。
「魚……じゃなくて、影魚さん?」
やっぱり無視される。
困って八田野さんを見ると、彼はにやにやと笑っているだけだった。
「もっと頑張って」
それだけ?
仕方なく、また墨ゑに向き直る。
「綺麗な色ですね」
お世辞を言ってみる。
でも墨ゑは相変わらず、僕の存在なんてないかのように泳いでいる。
「空を飛べるなんてすごいです」
「どこから来たんですか?」
「八田野さんとはどうやって知り合ったんですか?」
次々と話しかけてみるけれど、墨ゑは全く相手にしてくれない。
僕は段々と焦ってきた。
「駄目みたいです」
諦めかけた時、八田野さんが口を開いた。
「聖君、君はねぇ、ただ話そうとしているだけでしょう?」
「え?」
「相手のことを分かろうとしていますか? 相手のことを知りたいと願うことが大切なんですよぉ。ほら、人間はね、アレでしょう? 相手の事を聞くより、自分の事を話したがる生き物でしょう? ただほらぁ、相手が義務やお義理で
八田野さんが言っている事はなんとなくわかる。
「まあその辺は
確かに僕は、ただ一方的に話しかけていただけだった。
墨ゑが何を考えているのか、どんな存在なのか、本当に知ろうとはしていなかった。
◆
僕は改めて墨ゑを見つめた。
今度は話しかけるのではなく、ただじっと観察する。
黒い体。
でも単純な黒じゃない。
角度によって、青みがかったり、紫に見えたりする。
まるで夜の海のような、深い色だ。
どうやって生まれたんだろう。
なぜ八田野さんを選んだんだろう。
そもそも、どうして空中を泳げるんだろう。
疑問が次々と湧いてくる。
分からないことばかりだ。
でも、だからこそ知りたい。
この不思議な存在のことを、もっと理解したい。
その瞬間だった。
墨ゑが、ふわりと向きを変えた。
そして僕の顔の横を、ゆっくりと泳いでいく。
ひんやりとした感触が頬を撫でた。
そして──
頭の中に、何かが流れ込んできた。
断片的なイメージ。
古い記憶の欠片のような。
城の堀。
夕暮れの水面。
オレンジ色に染まった空を映す静かな水。
ああ、それと──
孤独。
長い、長い時間。
誰にも見つけてもらえない寂しさ。
そうか、君は──
パン!
鋭い音が響いて、僕はハッとした。
八田野さんが柏手を打っていた。
「随分ふかぁくまで入り込んでましたねぇ」
にたりと笑う八田野さん。
「やっぱり儂よりずっと素質がありますよぉ」
◆
僕はまだ頭がぼんやりしていた。
さっきの感覚は何だったんだろう。
「今のは……」
「墨ゑの記憶ですねぇ」
八田野さんがあっさりと答える。
「彼らと深く繋がると、時にはそういうものが見えることがあります」
墨ゑは再び八田野さんの周りに戻っていた。
でも、さっきとは違う。
なんとなく僕のことを意識しているような気がする。
「でも気をつけなさい」
八田野さんの表情が、急に真剣になった。
「人間同士だって距離感ってのは大事でしょう? ましてや相手は怪異だ、妖怪だ。深く入り込みすぎると魅入られてしまいますよぉ──こぉんな風にねぇ」
そういって八田野さんは左目に指を伸ばし──抉り取った。
ぽろりと零れる眼球
義眼。
でも、空っぽの眼窩には肉も何も見えない。
リビングには照明だってあるのだから、穴の内部は少しは見えるはずだ。
だけど何も見えない。
何かが詰まっているのだ。
黒い何かが。
「影ですな。墨ゑにね、喰われてしまって、こんなものを詰め込まれてしまいましたよ! 儂の事がよほど好きなようで──ふふ、ふふふ!」