◆
八田野さんの「とにかく話せ」という言葉が、頭の中でずっと回っている。
浮遊霊や怪異と話す。
それが霊媒としての第一歩なんだろう。
でも、正直言って怖い。
目に見えるようになったからといって、相手が何を考えているかなんて分からない。
裕の言うとおり、理由もなく襲いかかってくるかもしれないし。
それでも──
傘の少年とお姉さんから言われた「強くなれ」という言葉を思い出す。
あれはマッチョになれってことじゃないのは分かる。多分、異能を成長させろという意味なんだろう。
だから、やらなきゃいけない。
◆
放課後、僕は意を決してアリスと裕に相談した。
「あの、実は頼みがあるんだけど」
教室に残っていた二人に声をかける。
「なんですの?」
アリスが振り返る。
「その……浮遊霊とか怪異と話してみたいんだ。でも一人じゃ危ないから、一緒に来てもらえないかな」
僕の言葉に、二人は顔を見合わせた。
きっと断られる。
そう思って身構えていたら──
「良いですわよ」
アリスがあっさりと頷いた。
「良いぜ」
裕も即答だった。
「え、本当に?」
思わず聞き返してしまう。
「友達じゃないですか」
アリスが微笑む。
「それに、御堂君の訓練にもなりますし」
「俺も興味あるしな」
裕が腕を組む。
「聖がどんな風に話すのか見てみたい」
二人の優しさが嬉しかった。
◆
その日の夜。
夕食の席で、僕は茂さんと悦子さんに今日のことを報告した。
「友達と一緒に、浮遊霊と話す練習をしようと思うんだ」
箸を止めて僕を見つめる二人。
悦子さんの表情が、みるみる心配そうになっていく。
「大丈夫なの? 危なくない?」
「友達が一緒だから」
僕は慌てて付け加える。
「アリスは悪魔祓いができるし、裕も強いから」
茂さんは箸を置いて、じっと考え込んでいた。
重い沈黙が食卓を包む。
やがて口を開いた。
「あの鈴は持っているか?」
懐から取り出してもらった、小さな魔除けの鈴のことだ。
「うん、いつも持ってる」
僕は頷く。
「浮遊霊くらいなら大丈夫だと思うんだが……」
茂さんの声に迷いが滲む。
ふと思い出したことがあった。
「そういえば、僕に危機が迫った時に鈴が鳴るって話だったけど」
僕は首を傾げる。
「多分、鳴ってないよね?」
河童に襲われた時も、あの天邪鬼に遭遇した時も。
鈴は一度も音を立てなかった。
茂さんの表情が曇る。
「ああ、普通は鳴る。鳴るんだが──」
歯切れが悪い。
何か言いにくいことがあるみたいだ。
「危ないっていうのと、もう駄目だっていうのは似ているけれど違うんだ」
茂さんが慎重に言葉を選ぶ。
「鈴が鳴るのは『危ない』時だ。つまり、まだ回避の余地がある状況。逃げるなり、助けを呼ぶなり、何か手立てがある時に警告として鳴る」
なるほど、と思いながら聞く。
「でも『もう駄目』な時は──」
茂さんが言葉を切る。
「鳴らない。鳴っても意味がないからな」
「え、じゃあ僕は──」
血の気が引いていく。
「ああ、本当ならもう何度も死んでいる」
茂さんの声が重い。
「……まあ、それをくれた人はそう説明してくれた。俺も後から聞いた話なんだが」
それって役に立つんだか立たないんだか分からないな。
思わずそう考えてしまう。
僕の心を見透かしたように、茂さんが頷く。
「済まないな、正直、余りアテにしちゃいけないと思う」
そして続ける。
「ただまあ、それで生き残っているっていうのは、聖の異能のおかげなのかもな」
そう言って茂さんはもう一度、申し訳なさそうに頭を下げた。
◆
翌日の放課後。
僕たち三人は、学校の裏手にある小さな公園に集まった。
錆びたブランコと、ペンキの剥がれたジャングルジムだけがある寂れた場所だ。
「ここなら人も来ないし、ちょうどいいですわね」
アリスが辺りを見回す。
「それに──」
言いかけて、空を指差した。
「あそこに一体いますわよ」
僕も視線を向ける。
電線の上に、半透明の人影がぼんやりと浮かんでいた。
女性のような輪郭。
長い髪が風もないのにゆらゆらと揺れている。
「よし、じゃあ早速──」
裕が一歩前に出ようとして、アリスに止められた。
「待ってください。今日の主役は御堂君ですわよ」
「あ、そうか」
裕が苦笑しながら下がる。
僕は深呼吸をした。
大丈夫、二人がついている。
半透明の人影に向かって、声をかけてみる。
「あの……こんにちは」
反応はない。
相変わらず電線の上でゆらゆらしているだけだ。
「僕は聖っていいます。話をしてもいいですか?」
やっぱり無視される。
墨ゑの時と同じだ。
ただ話しかけるだけじゃダメなんだ。
相手のことを知りたいと思わないと。
僕はじっと人影を見つめた。
なぜここにいるんだろう。
何を求めているんだろう。
集中していると、少しずつ何かが見えてきた。
悲しみ。
深い、深い悲しみの色。
それと──
待っている。
誰かを、ずっと待っている。
その瞬間、人影がこちらを向いた。
顔はない。
のっぺらぼうみたいに、何もない。
でも確かに、僕を"見て"いる。
『だれ……?』
風鈴みたいな、か細い声が聞こえた。
「聖です」
僕は答える。
「あなたは?」
『わたし……わたしは……』
人影が困ったように揺れる。
『おもいだせない……』
記憶がないんだ。
自分が誰だったのかも分からないまま、ただここに留まっている。
「誰かを待ってるんですか?」
『そう……まってる……ずっと……』
声が震えている。
『でも、だれを……?』
切ない。
胸が締め付けられるような気持ちになる。
その時だった。
ざわり。
公園の空気が変わった。
◆
「聖、下がれ!」
裕の鋭い声が響く。
反射的に後ずさった瞬間、目の前の空間が歪んだ。
人影が──変わり始めた。
透明だった体に、どす黒い色が滲み出てくる。
まるで清水に墨を垂らしたみたいに、じわじわと汚染されていく。
『まって……まって……』
声も変わった。
風鈴の音から、錆びた鉄を引きずるような不快な響きに。
『なんで……こない……の……』
人影の輪郭が崩れ始める。
髪だと思っていた部分が、無数の触手のように蠢き出した。
『ゆるさない……みんな……ゆるさない……』
憎悪。
純粋な憎悪が、波のように押し寄せてくる。
「これは──」
アリスが身構える。
「悪霊化ですわね」
人影が──いや、もう人の形をしていない何かが、電線から飛び降りた。
ぐちゃり。
湿った音を立てて着地する。
アスファルトに黒い染みが広がっていく。
『さびしい……さびしい……だから……』
無数の触手が、鞭のようにしなる。
『みんな……おなじに……してあげる……』
来る!
本能的にそう感じた瞬間、触手が矢のように伸びてきた。
速い。
目で追えないほどの速度で、僕の胸を貫こうとする。
でも──
ごうっ!
オレンジ色の炎が、触手を焼き払った。
「調子に乗んなよ、幽霊風情が」
裕が右手を前に突き出している。
掌から噴き出す炎が、闇を引き裂いていく。
悪霊が甲高い悲鳴を上げた。
『あつい……あつい……』
でも怯まない。
焼け焦げた触手が再生し、今度は地面を這うように迫ってくる。
「御堂君、下がってください!」
アリスが前に出た。
その手には、いつの間にか透明な剣が握られている。
ペットボトルの聖水で作った、彼女の得物だ。
剣が振るわれる。
しゅっ、という風切り音と共に、触手が次々と切断されていく。
切り口から黒い体液が噴き出して、嫌な臭いが漂った。
『いたい……いたい……』
悪霊が苦痛に身をよじる。
『なんで……じゃま……するの……』
その声を聞いて、僕は気づいた。
怒っているんじゃない。
泣いているんだ。
◆
「待って!」
僕は二人の間に飛び出した。
「聖!? 何やってんだ!」
裕が慌てる。
「危険ですわよ!」
アリスも僕を止めようとする。
でも──
「この人、ただ寂しいだけなんだ」
僕は悪霊を見つめる。
どす黒い塊。
触手を蠢かせる異形。
でも、その奥に見えるのは──
「ずっと待ってたんでしょう?」
僕は語りかける。
「でも、待ってた人は来なかった」
『……』
悪霊の動きが止まる。
「記憶もなくなって、自分が誰かも分からなくなって」
一歩、前に出る。
「それでも待ち続けた」
『そう……まってた……』
声が震えている。
『でも……もう……つかれた……』
触手がゆっくりと下がっていく。
「うん、疲れたよね」
僕は頷く。
「もう、休んでもいいんじゃないかな」
『やすむ……?』
「そう。もう十分頑張ったから」
また一歩、近づく。
裕とアリスが息を呑む気配がした。
でも止めない。
僕を信じてくれているんだ。
『でも……まだ……』
「来ないよ」
僕ははっきりと言った。
「残酷かもしれないけど、もう来ない」
『……そう……なの……』
悪霊の体から、力が抜けていく。
どす黒い色が薄れて、また半透明に戻り始めた。
『もう……いい……の……?』
「うん、もういいよ」
『そう……』
小さな、安堵のような声。
そして──
人影はゆっくりと光に包まれていく。
『ありがとう……』
最後にそう言って、消えた。
後には何も残らない。
まるで最初から何もなかったみたいに。