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休日の朝っぱらから、俺は住宅街の一角に立っていた。
築四十年は経ってるだろう二階建ての民家。
庭の雑草は伸び放題で、窓ガラスには蜘蛛の巣がびっしり。
どう見ても廃屋だが、正面玄関だけは妙に綺麗なんだよな。
まるで誰かを招き入れるみたいに。
「佐原さん、あなた、そんな調子だとあっさり死にますよ」
背後から飛んできた声に、俺は肩をびくつかせた。
志賀さんだ。
俺たちのチームの隊長。
振り返ると、黒いスーツ姿の女性が腕を組んで立っていた。
年齢は三十代半ばってところか。
短く切りそろえた黒髪に、切れ長の目。
顔立ちは整ってるが、どこか近寄りがたい雰囲気がある。
元々は祓い屋として活動してたらしい。
それを霊異対策本部がスカウトしたって話だ。
実績も実力も、俺なんかとは段違い。
「すんません」
俺は頭を下げた。
確かに集中できてない自覚はある。
ここ最近の聖の様子が妙に気になって。
何がどう違うのか、はっきりとは言えないんだが。
前より明るくなったような、でも同時に何か危ういような。
「おう、そうだぜ佐原。集中しろよな!」
横から立島の声が飛んできた。
立島忠之。
俺と同年代の隊員で、最近チームに加わった奴だ。
茶髪を派手に逆立てて、ピアスじゃらじゃら。
どう見ても霊異対策本部の職員には見えない。
つーか、チンピラにしか見えねえ。
まあ俺が言えた事でもねえが。
偉そうに腕組みして俺を見下ろしてるが、俺は知っている。
こいつ、さっきから志賀さんの尻ばっか見てやがる。
志賀さんは確かに凄い体してる。
スーツ越しにも分かる引き締まった肢体。
特に下半身のラインは──
いや、何考えてんだ俺は。
「で、今日こそあの怨霊を仕留めるんですよね?」
立島が志賀さんに話しかける。
わざとらしく近づいて、肩に手を置こうとして──
バキッ。
鈍い音と共に、立島が吹っ飛んだ。
志賀さんの蹴りが炸裂したんだ。
「立島、場所を選びなさい。殺しますよ」
冷たい声だった。
マジで殺意がこもってる。
志賀さんの蹴りは洒落にならない。
木製バット五本を平気でへし折るって噂は本当らしいし。
でも立島はケロッとしてる。
地面を転がりながら、へらへら笑ってやがる。
こいつ、とにかく悪運が強い。
どんなヤバい状況でも生き残る。
志賀さんが「お守り代わり」として選んだのも、その辺が理由らしい。
問題は、立島がやたらと女好きでドスケベだってことだ。
さっきもきっと志賀さんの尻を触ろうとしたんだろう。
「いてて……隊長は相変わらず容赦ないっすね」
立島が起き上がりながら言う。
「でも、そこがまたゾクゾクするっていうか──」
「黙れ」
志賀さんの一言で、立島は口をつぐんだ。
◆
俺たちは民家の前に並んだ。
この家は、もう何度も来てる。
中に巣食う悪霊を祓うためだ。
タチの悪い奴でな。
民家そのものを異常領域に変えちまってる。
足を踏み入れた奴は、問答無用で呪われる。
最初の被害者は、不動産屋の営業マンだった。
物件の下見に来て、そのまま行方不明。
三日後、自宅で腐乱死体となって発見された。
死因は不明。
外傷もなく、毒物反応もない。
ただ、顔が恐怖に歪んでたって話だ。
その後も被害は続いた。
郵便配達員、近所の子供、泥棒──
この家に近づいた奴は、みんな同じ運命を辿った。
俺たちが動き出したのは、五人目の犠牲者が出た後だ。
でも、肝心の怨霊は狡猾でな。
俺たちが来るたびに逃げやがる。
おかげで完全に祓えないまま、もう一ヶ月以上も通い詰めてる。
「今日こそ決着をつけましょう」
志賀さんが言った。
「はい!」
俺と立島が同時に返事する。
志賀さんは軽く頷くと、懐から札を取り出した。
白い和紙に、複雑な文様が描かれている。
「結界を張ります。逃げ道を塞ぎますよ」
そう言って、札を玄関の四隅に貼り付けていく。
ぺたり、ぺたりと。
札が貼られるたびに、空気が変わる。
ピリピリとした緊張感が漂い始めた。
「よし、行きますよ」
志賀さんが玄関のドアノブに手をかける。
ギィ……
錆びた蝶番が嫌な音を立てた。
◆
中は真っ暗だった。
いや、暗いってレベルじゃない。
光を吸い込むような、濃密な闇。
懐中電灯の光も、数メートル先で掻き消される。
先頭は志賀さん、立島がその後ろ。
俺は殿(しんがり)だ。
「うわ、相変わらずキモい家だな」
立島が呟く。
確かにその通りだ。
何度来ても慣れない。
廊下を進む。
床板がギシギシと軋む音だけが響く。
空気が重い。
まるで水の中を歩いてるみたいだ。
と──
「うおっ!?」
立島の声。
立島が吹っ飛んできた。
志賀さんに蹴り飛ばされたらしい。
「ぎゃあああ! な、なんじゃこいつはああああ!」
立島が喚く。
だが吹っ飛んだ立島に更に吹っ飛ばされた奴がいる──白いパジャマの少年だ。
肌の色は不気味なほど白い。
「そ、それより隊長! 俺ぁ、俺ぁ、もう辛抱たまらんくて!」
何言ってんだこいつ──と思ったが、ああなるほど。
立島のやつ、志賀さんの尻を触ろうとしたらしい。
「佐原君」
志賀さんの声は冷静だった。
俺は頷いて、右手を構える。
「どけ、立島!」
叫びながら、掌から火球を放った。
オレンジ色の炎が、真っ直ぐに少年を捉える。
「ギャアアアアアア!」
少年が絶叫した。
炎に包まれ、のたうち回る。
白いパジャマが黒く焦げていく。
数秒で、少年は灰になって消えた。
◆
「おおおおい! 佐原! てめぇ俺を殺す気か──っ!」
立島が起き上がりながら怒鳴る。
顔が煤で真っ黒だ。
「すまねえ、でもお前なら大丈夫だろ?」
俺が軽く謝ると──
「まあな、俺じゃなかったら危なかったけどな!」
あっさり機嫌を直しやがった。
単純な奴だ。
志賀さん曰く、立島には強力な守護霊がついてるらしい。
どんなヤバい状況でも、大抵は生き残る。
ただし、普段の運勢は最悪なんだとか。
確かに立島は自販機で当たりが出たことがないとか、傘を持つと必ず雨が降るとか、そんな話ばっかりしてる。
そしてやけに貧乏だ。
この仕事は給料がかなり高いが、なんだかんだで出費がかさんで生活はいつも苦しそうだ。
志賀さんが急に顔をしかめる。
「……ちっ、また逃げましたか。大分高いお札を使ったんですけれどね……」
舌打ちが響いた。
そうなんだ。
この家のボスは、とにかく逃げ足が速い。
俺たちの気配を察知すると、すぐに姿を消しちまう。
もう何度もこの家に来てるが、一度も姿を見たことがない。
「くそっ、今日もダメか」
立島が悔しそうに言う。
「仕方ありません」
志賀さんは淡々としている。
「ただ、こうして定期的に訪れることで、奴の動きは封じられています」
確かにそうだ。
俺たちがマークするようになってから、新たな犠牲者は出ていない。
呪いを広げようとしても、すぐに俺たちが駆けつける。
擬似的な封印状態ってわけだ。
「でも、いつまでもこのままじゃ……」
俺が言いかけると、志賀さんが振り返った。
「焦ることはありません。奴もいずれ、痺れを切らすでしょう」
その目は、獲物を狙う肉食獣みたいだった。
◆
民家を後にして、俺たちは近くの公園で解散することになった。
「じゃあ、また来週」
志賀さんがそう言って歩き去っていく。
その後ろ姿を、立島が名残惜しそうに見送っていた。
「はあ……隊長のケツ、最高だよなぁ」
呆れるほど正直な奴だ。
「お前、いつか本当に殺されるぞ」
「大丈夫大丈夫。俺には守護霊様がついてるから」
へらへら笑う立島。
こいつの守護霊って、一体どんな奴なんだろう。
よっぽど立島に甘いのか、それとも──
「なあ、佐原」
立島が急に真顔になった。
「お前、なんか悩み事でもあんのか?」
意外な質問だった。
「なんでだよ」
「いや、今日ずっとボーッとしてたろ。隊長に怒られるくらい」
鋭い。
こいつ、見た目と違って結構観察力あるんだよな。
「……ちょっとな」
俺は曖昧に答えた。
聖のことを話すべきか迷う。
でも、立島に話したところで──
「まあ、あれだ」
立島が俺の肩を叩く。
「考えすぎんなよ。なるようになるって」
軽い言葉だが、妙に心に響いた。
◆
帰り道、俺は聖のことを考えていた。
最近の聖は、明らかに変わってきている。
浮遊霊を自分の中に取り込むようになってから特に。
あいつ、自分でも気づいてないかもしれないが。
取り込む度に、少しずつ"何か"が変わっていってる。
表情が柔らかくなった。
前より笑うようになった。
それ自体は良いことだ。
でも──
時々、聖の目を見てゾッとすることがある。
底なしの深さを感じるっていうか。
何もかもを飲み込んでしまいそうな──
俺とアリスが"監視"してるのも、それが理由だ。
監視というか見守っているというか。
アリスとも話したが、どうも聖には放っておけない部分がある。
友達だから、ってのもあるかもしれないが。
やけに構いたくなっちまう。
肩を持ちたくなる。
それは聖の人柄もあるんだろう。
ただ、本当にそれだけなのか……。
聖は俺たちの目には気づいてるみたいだけどな。
でも何も言わない。
むしろ嬉しそうにすら見える。
いや、考えても仕方ない。
立島の言う通り、なるようになるしかねえ。