◇◇◇
コンクリートの床に、生々しい血の跡が点々と続いている。
祟 麗華は壁に片手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら通路を歩いていた。
歩いている、というよりは、崩れ落ちそうになる体を意志の力だけで引きずっていると言った方が正確なのだが。
左腕はあり得ない方向に折れ曲がっている。
骨が皮膚を突き破り、その先端が白く覗いていた。
腹部に穿たれた傷はさらに酷かった。
巫女装束を模した衣服は赤黒く染まり、その裂け目からは臓物の一部がぬらりとした光を放ちながらはみ出しかけている。
右手で必死に押さえているが、指の隙間から絶えず温かいものが溢れ出し、足元に血溜まりを作っていた。
呼吸のたびに口の端から血の泡がこぼれ落ちる。
肺も傷ついているのだろう。ひゅー、ひゅー、と喉の奥から鳴る不快な音は、壊れた
久我山を退けるための代償を支払ったという事だ。
麗華は歩き続ける──やがて、通路の突き当たりに巨大な金属製の扉が見えてきた。
『神の間』の入り口。
扉を抜けるには生態認証を突破しなければならないが──麗華が
そうして麗華は最後の力を振り絞り、重い体を引きずるようにして扉の隙間を抜けた。
§
扉の先は広大な空洞だった。
ドーム状の天井は遥か高く、闇に溶けている。
中央に鎮座するのは黒曜石を削り出したかのような巨大な岩であった。
幾重にも巻かれた注連縄が、その禍々しい気をかろうじて抑え込んでいる──様に見える。
「……はぁ……っ、は……」
麗華は這う這うの体で磐座の前にたどり着き、岩に縋り付く。
ひやりとした岩の感触が燃えるように熱い体には心地よかった。
そして岩の奥から伝わってくる霊的な波動をその身で感じ取る。
どくん、どくん、と。
目覚めは近い。
だがまだ完全ではない。
少なくとも、今の麗華にはそう思えた。
「……よかった……」
掠れた声。
「まだ……間に合った……」
麗華は腹の傷を押さえていた右手を離し、血に濡れた掌をゆっくりと磐座の表面に押し当てた。
そして折れた左腕のことは意にも介さず、もう片方の手も岩に添える。
麗華は深く、深く息を吸い込んだ。
口から漏れる血の泡もそのままに、震える唇から紡がれるモノは──
祝詞。
忌祓いの巫女として生まれた彼女だけが知る、古の言の葉。
神の荒魂を鎮め、和魂へと回帰させるための聖句。
「──高天原に神留り坐す……」
か細い声が響き始める。
麗華の全身から淡い光が立ち上った。
それは彼女自身の生命の輝きだ。
その全てを、この儀式に注ぎ込む覚悟だった。
──私の命と引き換えにしてでも、この神を再び眠りにつかせる
祟の巫女としての、最後の務めを果たさんという麗華の覚悟。
声は徐々に力を増していく。
麗華の意識は、己の内なる神へと、そして眼前の巨岩の奥底に眠る荒ぶる神へと深く深く沈んでいった。
◆◆◆
時はやや遡る。
首相公邸、執務室。
氷室 兼続は闇に沈む都市の夜景を背に静かにお茶を啜っていた。
彼の前には壮年の秘書官が直立不動の姿勢で控えている。
「──以上が、霊異対策本部からの報告です」
秘書官の声は抑揚がなく事務的だ。
「都庁周辺の霊波レベルは依然として高い数値を維持しておりますが、封鎖区画外への影響は限定的との見解です」
「そうか」
氷室はカップを置くと、こともなげに言った。
「久我山は上手くやっているかね」
「はっ。監視班からの報告では先ほどお嬢様と接触。現在、お嬢様の侵入を阻止すべく交戦中とのことです」
その言葉に氷室はふ、と息を漏らした。
それは嘲笑のようでもあり、感嘆のようでもあった。
「首尾よくいけば、それに越したことはないが……」
氷室は椅子を回転させ、執務机に向き直る。
「たとえ久我山が麗華に敗れたとしても、それはそれで構わん」
秘書官の眉が僅かにぴくりと動く。
「……と、申しますと?」
秘書官が恐る恐る尋ねる。
主君の真意を測りかねているようだった。
氷室は答えなかった。
代わりに、全く脈絡のない問いを投げかける。
「君は料理をするかね?」
「は……? い、いえ、嗜む程度で……」
唐突な質問に秘書官は戸惑いを隠せない。
氷室はそんな秘書官の様子を面白がるように見つめながら、続けた。
「良い料理というものは何事も下拵えが肝心だ。素材の持ち味を最大限に引き出すためには、適切な下処理が欠かせん。血抜きをしたり、筋を切ったり──時には味を染み込ませるために、しばらく寝かせる必要もある」
氷室の声はどこまでも穏やかだった。
だがその言葉が何を指しているのか、秘書官には理解できた。
「久我山は優秀な男だ。私の意図を正確に理解している。彼がもし麗華に敗れるようなことがあっても、それはそれで構わん」
氷室は指で机を軽く叩いた。
「それは最高の素材を最高の状態に仕上げるための、実に結構な“下拵え”になるだろうからな」
秘書官はもはや何も言えなかった。
ただ背筋を冷たい汗が伝っていくのを感じるだけだった。
◇◇◇
祝詞はまだ続いている。
麗華の唇から紡がれる古の言の葉は、清浄な霊力となって巨岩へと流れ込んでいた。
儀式は順調に進んでいる。
そのはずだった。
だが、違和感。
──おかしい。これは、これはまるで……
自身の霊力がまるで乾いた大地に注がれる水のように、惜しみなく磐座へと浸透していく。
その感触は確かにある。
しかし一向に手応えがないのだ。
本来であれば彼女の霊力が浸透するにつれて、磐座の奥から発せられる荒ぶる神の“気”は徐々に鎮まっていくはずだった。
荒々しい波動が凪いだ水面のように穏やかになっていく。
そのはずだった。
しかし。
神の気は鎮まるどころか、むしろ活性化しているようにさえ感じられた。
脈動はより力強く、その波動は歓喜に打ち震えているかのようだ。
まるで、
麗華の霊力を貪欲に喰らっている。
──まずい
背筋に氷を差し込まれたような悪寒が走った。
これは鎮めの儀式ではない。
まるでこちらの力を餌にして、相手をより強く目覚めさせているだけではないか。
罠だ──そう感得する。
麗華は祝詞を詠む唇を固く結び、儀式を中断しようとした。
岩に注ぎ込んでいた霊力の流れを無理やり断ち切ろうとする。
しかし、もう遅かった。
「……あ……っ!」
声にならない呻きが漏れる。
霊力の流れを止めることができない。
磐座が巨大なポンプのように麗華の体から霊力を強制的に吸い上げ始めたのだ。
全身の血管から血を抜き取られるような、凄まじい虚脱感が彼女を襲う。
意識が急速に遠のいていく。
視界が白く霞み、体の感覚が麻痺していく。
もはや麗華は自身の意志とは無関係に、ただ霊力を供給するためだけの管と化していた。
◆◆◆
秘書官を去らせた後、氷室は執務机に置かれた一つの写真立てを無表情に見つめていた。
色褪せた写真の中には三人の男女が微笑んでいる。
若い頃の氷室。
その隣で幸せそうに寄り添う彼の妻。
そして氷室の腕に抱かれたまだ幼い少女。
おかっぱ頭の愛らしい少女だった。
屈託のない笑顔で父を見上げている。
氷室はその写真から視線を動かさない。
何を思うでもなく、ただじっとその光景を眺め続けていた。
ややあって──氷室はゆっくりと立ち上がった。
そしておもむろに窓際へと歩を進める。
分厚いカーテンを開けば──。
闇に沈む東京の夜空を一本の巨大な光の柱が切り裂いていた。
禍々しい紫色の光が夜空を貫いている。
まるで地獄の底から天上の神々へと叩きつけられた、巨大な怨念の杭のようだった。
光の柱が発する波動が空気を震わせ、窓ガラスをびりびりと微かに震わせている。
光の柱が見える方角はいうまでもない──新宿、東京都庁のある方角であった。