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第三章

第1話「良くある光景」

 ◆


 喉が乾いた雑巾のように張り付いていた。

 体中の水分が干上がっていくような感覚──腹が減ったとか、そういうレベルの話ではない。


 水だ。とにかく水が欲しかった。


 埃まみれの毛布を蹴飛ばし、柏木雄大はのろのろと体を起こす。

 ひび割れた天井が目に入った。ここがどこだったか、彼は一瞬忘れていた。


 ──ああ、そうだ。昨日見つけたビルの中、潰れた事務所の……


 三ヶ月前まで柏木はどこにでもいるただの大学生だった。

 それが今では、こんな瓦礫の街でネズミのように隠れて暮らしている。


 あの紫の光が空を覆ってから何もかもがおかしくなった。


 いまはもう昼も夜もなかった。

 いつだって空には気味の悪い紫色の空が広がっている。


 西の方には例の『塔』が突っ立っていた。

 柏木はその『塔』を努めてみない様にしながら、歩を進めていた。


 目的地は南池袋にある旧豊島区役所だ。


 ・

 ・

 ・


 やがて、目的の建物が見えてきた。

 バリケードでガチガチに固められて、上には見張りが立っている。

 柏木が近づくと見張りはすぐに警戒した様子を見せた。


「誰だお前!」

「た、助けてくれ! 水を、水を少しでいいんだ!」


 柏木は必死で叫んだ。声が情けなく裏返る。

 バリケードの上に立つ見張りの男は、柏木の姿をゴミでも見るような目で見下ろした。


 男から見て、柏木は如何にもひ弱い。

 見た目だけの話ではない。

 この時代を生きるために必要なが欠けている。

 資源を食い潰し、いざという時には足手まといになるだけだ──そう考えた男だが、念のために確認をする。


はあるのか?」

「……異能か? いや、ない……」

「なら話は終わりだ、消えな」


 そこで話を切り上げても良かったが、なんとなく後味が悪く感じた男は吐き捨てるように続けた。


「どうしても仲間が欲しけりゃ、他をあたれ。新宿に行きゃお綺麗な理想を語ってる連中がいる。渋谷に行きゃただ群れてるだけのガキ共がいる。どっちもお前にゃお似合いだろ。さっさと失せな」


 男にとって、これは慈悲だ。

 助かるための指針を与えているのだから。

 もっとも、当の柏木にはとてもそんな風には思えなかっただろうが。


 扉が閉まる。


 柏木は全身から力が抜け、地面に吸い寄せられるような無力感で思わず膝をついた。


 ややあって。


「……畜生がッ!」


 ようやく出たのは、そんな悪態だけだった。

 腹の底から黒くて熱い何かがせり上がってくるような感覚。


 ──ふざけるな。偉そうにしやがって


 ──新宿? 渋谷? 馬鹿言え、行けるわけねえだろ


 ──そこら中に化け物がうろついてるってのに。電車もねえ、車もバイクもああいう力のある連中が独り占めしやがって。結局、力のない奴はこうやって死ねってか


 ──ちくしょうが


 だが悲嘆にくれていてもただ死ぬだけだ。

 そこは柏木も分かっていた。


 ──もういい。あいつらなんかに頼るかよ。……そうだ、この近くにスーパーがあったはずだ。あそこなら何かあるかもしれねえ


 池袋にはいくつもの大型スーパーがある。

 もっとも、めぼしい食品などは全て奪われてしまっているだろうが──それでも、缶詰一つ、ペットボトル一本くらいは残っているかもしれない。


 そう考えた柏木は再び歩き出した。


 ◆


 柏木がたどり着いたのは、池袋駅東口すぐの所にある大型のディスカウントストアだ。


 店内は案の定ひどい有様だった。棚は倒れ、床はガラスの破片とヘドロみたいな液体でぐちゃぐちゃだ。

 生鮮食品コーナーからは吐き気を催すほどの腐臭が漂ってくる。


 だが柏木は必死だった。


 乾物と缶詰の棚へ向かう。


 棚はほとんど空だったが、ひっくり返った棚の裏に一つだけ缶詰が転がっているのを見つけた。桃の缶詰。


「……あった!」


 声が震えた。たった一つの缶詰。その重みが今の柏木には命の重みそのものに感じられた。


 ──これで少しは


 リュックにそれを大事にしまい、今度はバックヤードの扉に手をかけた。

 陳列されていない商品が残っているかもしれない、そう考えたのだ。


 その瞬間、カサ、と。

 すぐ頭の上で何かが擦れる音がした。


 柏木の心臓が凍りついた。


 全身の血が逆流するような感覚。

 ゆっくりと、首が軋むような音を立てて上を向く。


 天井。

 そこに人間ほどの大きさの、蜘蛛の様な化け物が張り付いていた。

 女の上半身が背中から生えていて、長い髪がだらりと垂れている。


 そんな化け物が柏木を見ている。


 足が動かない。

 声も出ない。

 恐怖で体が石になったみたいだった。


 垂れた髪の隙間から無数の赤い目が覗いた。

 顔だけじゃない。胸にも、腹にも、赤い目がびっしりとついてその全てが柏木を見ていた。


「……あ……」


 化け物の口がゆっくりと開く。

 そして真っ暗な咥内から先端が尖った管のようなものが伸び、それが柏木の額にゆっくりと──


 柏木が最期に想ったのは家族のことでも友人たちの事でもなかった。


 ──ああ、桃の缶詰、食べたかったな……


 ただそれだけだった。

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