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僕は息を殺しながら店内を進んでいた。
割れたガラスが床に散らばり、足を踏み出すたびにじゃりじゃりと小さな音が立つ。
ここは池袋駅からすぐ近くのディスカウントストアだ。
ペンギンのマスコットで有名な──
こういう大型のお店には案外食料が残っている事が多い。
もちろんすっからかんという可能性はあるけれど……。
池袋は人が多いから大変だっただろう。
ただ、いまの池袋はすっかり様変わりしてしまっている。
一言で言えばゴーストタウンだ。
“あの日”以来、東京全体がそうなってしまった。
ポストアポカリプスものの映画や漫画で見たような、完全に崩壊しきった廃墟というわけじゃない。
ビルも道路も、まだ形だけは残っている。
けれどそこに人の気配はなかった。
沢山の人が死んでしまった──いや、殺されてしまったのだ。
そして僕みたいに生き残った人たちも身を潜めて息を殺している。
三ヶ月。たった三ヶ月で、僕たちの日常は跡形もなく消え去った。
◆
僕は缶詰が並んでいたはずの棚へ向かった。
案の定、棚はほとんど空っぽだ。
誰かがごっそりと持ち去った後なのだろう。それでも諦めきれず、ひっくり返った棚の裏や、散乱した商品の山を一つ一つ確認していく。
──うーん、何も残ってないか。
バックヤードならまだ何かあるかもしれない。
僕は従業員専用と書かれた扉に手をかけた。
ゆっくりと音を立てないように開く。
中は薄暗くカビ臭い匂いがした。
一歩、足を踏み入れた瞬間、別の匂いが鼻をついた。
腐敗臭とは違う──もっと生々しい、鉄錆びたような匂い。
血の匂いだ。
僕はその場で足を止め、即座に身を屈めた。
傘を握る手に汗が滲む。
通路の奥、積まれた段ボール箱の陰に誰か倒れていた。
──人だ
僕は壁を背にゆっくりと近づく。
僕と同じくらいの歳だろうか。
大学生のような服装の男の人がうつ伏せに倒れていた。
近くには桃の缶詰が転がっている。
でも血を見る限り、まだ乾ききっていない。
それはつまり──
──死んでから、そう時間は経っていない
そういうことだ。
誰かが、あるいは何かがこの人を殺したのだ。
──もしかしたら生きているかもしれないけれど……
そう思った僕だが顔を見てすぐに撤回する。
男の人の眉間に大きな穴が一つ、ぽっかりと開いていた。
銃創じゃない。もっと大きい。
縁は焼けただれたようになっていて……
──完全に水分が抜けちゃってるな
そう、まるで何か太い管を突き立てられ中身を吸い出されたかのようだった
──人間の仕業じゃない
僕は静かに立ち上がった。
ここから立ち去らなければ。
この人を殺した「何か」が近くにいるかもしれない。
そう決めた瞬間だった。
背後から音が聞こえたのだ。
僕は振り返らない。
ただ動きを止め、全神経を聴覚に注いだ。
じゃり、という僕自身の足音とは違う。
もっと湿った、粘着質な音。
ぺた、ぺた、ぺた……。
来たか。
心臓の鼓動は速くなるが、パニックにはならなかった。
パニックになればあっという間に死んでしまう。
──音は……床を歩く音じゃない。もっと高い場所から聞こえる。天井だ
僕も人から聞いた話だけれど、怪異はこうしてわざと人を怖がらせる事が多いという。
そうしたほうが
最悪過ぎる趣味だと思うけれど、別の側面から見れば、そういう習性はある意味で猶予をくれていると見る事もできる。
僕は振り向きざまに和傘を広げた。
瞬間、体の中からごっそりと何かが引き抜かれていくのを感じる。
視界がぐらりと揺れ、全身に力が入らなくなるような強烈な虚脱感。
──この感じだとあと三、四回が限界かな。まあでも、仕方ない
そして──
◆
僕は壁に手をついて大きく息をしながら蜘蛛女の死体を眺めていた。
全身を襲う、鉛のような倦怠感。
血の気が引いて目の前がチカチカする。
この感覚には今も慣れることはない。
でも──
ふわりと頭を撫でる優しい感触があった。
見上げなくても分かる。
僕のすぐ隣にお姉さんが立っていた。
「いい子ね、聖君。傘の子とも少しは仲良くなれた?」
「うん……でもやっぱりまだ……」
僕は力なく答えた。
傘の子──付喪神というらしい。
彼は確かに力を貸してくれる。
でもそれは僕の何かを対価にしているようで、力を借りるとこうして酷く疲れてしまう。
「大丈夫よ。最初の頃に比べたら随分進歩したじゃないの。私ともこうして──話せるようになったし」
お姉さんは楽しそうに笑って、僕の髪を優しく梳いてくれる。
「そうだね……。ねえ、お姉さん、もっと長く一緒にいてくれないの?」
僕はずっと胸の中にあった願いを口にした。
お姉さんがこうして姿を見せてくれるのはいつもほんの僅かな時間だけだ。
「私はいつでも聖君と一緒よ?」
お姉さんは困ったように微笑んだ。
「でも……こうして触れたりするには、まだもう少し聖君が成長しないとね。昔ならともかく、今は聖君と繫がったから。“この場所”だからこうして話せるけれど、本来ならあっというまに干からびちゃうのよ?……さあ、そろそろ時間ね」
そう言ってお姉さんの姿は、陽炎のように揺らめきながら薄れていった。
もちろん離れていったというわけではない。
僕の内へと戻っていったのだ。
僕は深く溜息をついて、再び床に散らばった蜘蛛の怪異の死骸を眺めた。
正直こうして手にかけるのは余り気分の良いものではない。
だけどもっと憂鬱な作業がこの後に待っている。
僕は意を決して、腰のポーチから小さなナイフを取り出した。
このナイフで、これから肉を切り分けるために。
なぜ切り分けるかって?
食べるためだ。
“あの日”以来、缶詰や乾パンといった保存食は、命を繋ぐための貴重なカロリー源になった。
でも、それだけでは生きていけない。
タンパク質が、脂質が、圧倒的に足りなくなる。
だから、僕は、いや、僕たち都民は、こうして怪異を食べて生きている。