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第6話「日常㉗(御堂 聖、お姉さん)」

 ◆


 黄金色の稲穂がどこまでも続いている。

 風が吹くたびにさわさわと音を立てて──その音が妙に心地いい。


 空は真っ赤に染まっていて、太陽が地平線に沈もうとしているところだった。

 ノスタルジックな光が世界を包んでいる──なんて言葉が浮かんでくるけど、実際のところ、この場所に懐かしさを感じるのは変な話だ。

 ここへはまだ数回しか来ていないし、なんといってもこれは夢なのだから。


 夢。


 そう、夢なのだ。起きたらすっかり忘れてしまうんだけれど……。


 最初にこの夢を見たときはここには稲穂だけが広がっていた。

 でも今は違う。


 遠くに古びた木造の平屋があって、その横には真っ黒な水を湛えた池がある。


 人影もちらほら見える。農作業をしているような、ただ突っ立っているような、よくわからない影たち。

 よくある農村、原風景のような感じだけれど、なんか微妙にずれている気もする。


 そんな事を考えながらぼんやりと景色を見ていると──


 頭に何か触れた。

 髪を梳く細い指。

 振り返らなくても分かる。


「聖君、ここも大分にぎやかになってきたわね」


 お姉さんが隣に立っていた。

 夕日に照らされた横顔は、相変わらず綺麗で。

 なんというか、神々しいとしか言いようがない。

 女神様みたいな? ……なんてね。


「うん……ここってもしかして」


 もう分かってるけど、一応聞いてみる。


「そうね。ここは聖君の中よ。最初は私一人だけだったけれど──」


 お姉さんは人影のほうを見た。

 あの影はきっと、浮遊霊とか最近力を貸してくれるようになった怪異とかなんだろう。

 ただ、少し気になる事があった。


「お姉さん、その……人が増えるのって、嫌じゃない?」


 恐る恐る聞いてみた。お姉さんは首を横に振る。


「別に、嫌じゃないわ。ここは広いもの」


 本当にそう思っているみたいだった。

 むしろ楽しんでいるようにも見える。


「それに」


 お姉さんが僕の瞳を覗き込んできた──悪戯っぽい笑みを浮かべながら。


「どんなに人が増えたって、聖君の"一番"は私でしょう?」


 顔が熱くなった。

 心臓がどきりと跳ねる。


 お姉さんは満足そうに微笑んで、それから──僕の顎に手を添えて、顔を近づけてきた。


 血のように赤い瞳が間近に迫る。

 何が起きるのか理解できないまま、僕はただ固まっていた。


 唇に柔らかくて温かいものが触れた。


 最初は軽く触れるだけだったのに、すぐにお姉さんの唇が僕の口をこじ開けるように押し入ってきた。


 体が動かない。


 金縛りみたいに、まったく動けない。

 熱くて湿った何かが口の中に入ってきて──お姉さんの舌だと気づいたときには、もう遅かった。


 舌に絡みついて、口の中を舐め回される。


 僕は脳が痺れるような感覚で何も考えられなくなった。


 くちゅ、という水音が、やけに大きく響いた。

 それから唾液が混じり合う音。


 生々しすぎて、でも嫌じゃなくて、むしろ──


 お姉さんの腕が腰に回って、ぐっと引き寄せられる。

 密着した体から熱と柔らかさが伝わってきて、体の芯が溶けそうだった。


 息ができない。

 苦しいはずなのに、もっと深く求められとも思ってしまう。


 どれくらい経ったのか分からないけれど、お姉さんがゆっくりと唇を離した。

 僕とお姉さんの間に銀色の糸が引かれている──


「っ……ふう。あら、聖君、そんなに顔を赤くしちゃって」


 恍惚とした表情のお姉さんは、僕の唇に残った唾液を指で拭うと、その指をぺろりと舐めた。


「お、お姉さん!? え、えっと、いまのは……」


 声が上ずってしまう。

 しどろもどろになる僕を見て、お姉さんは楽しそうに笑った。


「加護のようなもの、かしら。少し物騒だから」


 物騒? 外の世界のことか。確かに物騒だけど、キスと何の関係があるんだ。


「今のところ、私はあまり目立ちたくないの。私が出ていったらそれこそバレちゃうわ」


 バレるって誰に? 都庁の"アレ"と関係があるのか。

 疑問ばかりが浮かんでくるけど、聞く時間はなかった。


 周りの景色が色を失い始めていたのだ。

 夕焼けも稲穂も、全部モノクロームに変わっていく。


 夢が終わるんだ。


「大分長い時間逢えたわね。でももう少し長く話せると嬉しいわ。頑張ってね、聖君」


 お姉さんは最後に僕の頬に軽くキスをして──


 ・

 ・

 ・


「っ!! あ、朝か……なんか変な夢を見た気がする……」


 デジタル時計が午前六時三十七分を示していた。体を起こす。


「今日も探索……は、どうしようかな。まだ物資もあるし」


 昨日の食料を思い出す。数日は持つだろう。無理に危険を冒すこともない。


 そう考えていると、お腹の上に黒い塊が乗ってきた。


「クロ」


 クロはぷるぷる震えながら体を擦り付けてくる。

 構ってほしいんだろう。

 最近お留守番ばかりだったから寂しいのかもしれない。


「ねえ、クロ。今日はどうしようか……」


 クロのひんやりした体を両手で伸ばしたり丸めたりしながら、僕は布団の中で再び微睡み始めた。

 結局その日は、クロと戯れているうちに一時間以上も布団の中にいることになった。

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