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第3話 夢うつつでも

 * * *



 翔二がいざ駆天郷通いを始めると、足抜けや間夫との心中を図る遊技の噂もちらほらと耳にするようになった。

 しかし、足抜けはともかく、命を絶ってまで間夫との想いを遂げようとする気持ちは理解しかねた。

 命が終われば、心も終わる。心がなくては愛も続かない。愛ゆえに今後の愛を命と共に捨てる事など、そこまで追い詰められた経験のない翔二が理解出来ないのも、致し方ないだろう。


 今の翔二はただ、綺凛と過ごすひと時を、花の蜜を吸うように楽しむばかりだ。


 綺凛は思い描いていた遊技の在り方より、遥かに聡明で清らかだった。

 体も芸も売らない遊技──その特色によるのか、それとも綺凛が特別なのか。敵娼になる事で、他の遊技には手を出せなくなった翔二には確かめようもない。

 しかし、もし許されたとしても、綺凛以外の遊技と新たな関係を作りたいとは思えない。

 また出逢いから始めるのが面倒な事もあるし、何より綺凛の穏やかさは翔二を癒してくれる。

 綺凛以上に翔二を甘く癒せる遊技を探す事は容易ではない事も、駆天郷に足を踏み入れてみてすぐに分かった。


「たいそう頻繁にお通い下さって……私と致しましては嬉しく思いますが、学業の方は大丈夫なのですか?」

「ああ、今は夏休みだから忙しい訳でもない。来年になれば周りは就職活動を始めるが、それも俺には父の会社以外の選択肢がないから」

 ある日のこと、翔二が思い切って膝枕を頼むと、綺凛はすんなりと受け入れてくれた。

 ぎこちなく横たわると、太ももの弾力が心地よくて心がほぐれる。

 自然と翔二の口も滑らかになっていた。

 もっとも、綺凛は接客のプロだ。翔二が話してはいない事柄も、大まかには察しているだろう。

「定められた道のみというのは懊悩を伴いましょうが、定まった道がある事は人生の道しるべにもなりますでしょうね」

「……そうだな、父は見事な手腕の経営者だから」

「お世継ぎにご不安をお持ちですか?」

「まあな……俺はこんなだから」

 親が決めた許嫁は清楚で可憐な令嬢だが、翔二には女性として愛せる自信がない。そもそも、女性を愛したいという欲望がない。

 ──綺凛が男妓でなければ良かった。

 そう思うものの、男妓だからこそ綺凛にこうしてもらえている。

「──それにしても、膝枕は気持ちが良いんだな。せっかく作った綺凛との時間なのに寝落ちしそうだ」

 心にじわりと生まれた苦味を吐き捨てるように、翔二は話題を変えた。綺凛は心得て応じる。

「ならば、気持ち良く微睡みに身を任せてもよろしいかと思います。それもまた、心身を満たす贅沢な楽しみになるかと」

 間近でおっとりと語られる。心持ち瞼が重くなる眠気を感じている翔二にとっては、綺凛の誘いも説得力があった。

「それなら……俺が寝ている間、手のひらで瞼を覆っていてくれないか?真昼の日は眩しい」

「よろしゅうございますよ。私がお守り致しましょう」

 綺凛が頷き、そっと瞼を覆う。男にしては白い手で指も細い。何となく、ひんやりしていそうだと思っていたのに温かい。

「……アイマスクにしては贅沢すぎるんだろうな」

「そのような事。私は豪道様のお心を満たす為に、今こうして共にいるのですから」

「分かってる、ありがとう」

 その一言は眠気が勝っていて、口ごもるような言い方になった。


 ちなみに──ここ永華院は、色街の見世とは思えない程に徹底している。客からは、抱き寄せる事はおろか、手を握る事すら禁じられていて、好色な振る舞いは一切出来ない。


 だが、男妓が客の為に最低限触れる事は許されていた。

 色めいた事は不可能だが、癒しのひと時を提供する為ならば、男妓は往々にして客のささやかな甘えを受け入れる。

 だからこそ許された膝枕と手のひらだ。翔二は安らぎに包まれて、つかの間の眠りに就いた。



 * * *



 ……浅い眠りの中、夢を見ていた。


 一面に広がる青々とした草原。白く小さな花を咲かせ、翔二には感じられない風があるのか、ゆらゆらと踊っている。

 そして、そこには綺凛が長い髪をそのままにたなびかせ、カジュアルな洋装で立っていた。

「──綺凛」

 目の前にいる事の嬉しさに呼びかける。

「翔二さん」

 現実では決して口にしない名を、綺凛が返して鼓膜を震わせる。

 湧き起こる歓喜は大袈裟な程だった。

 迷わず駆け寄り、力をこめて抱きしめる。

 綺凛はくすくすと笑いながら、翔二の背に腕を回して抱き返してきてくれた。

 それは、どれだけ満ち足りた抱擁か。

 高められた幸福に任せ、互いの頬を寄せる。

 触れ合う頬から体温は感じずとも、触れ合えている事に喜びが募った。

「綺凛……綺凛」

「翔二さん、会いたかったです」

「俺も、この綺凛と会いたかった」

 現実の世界でも、今二人は共にいて──翔二は綺凛の存在を味わっているはずなのに、どうしてか、この綺凛こそが本物だと思えてしまう。

 夢の中、独り占め出来る、この男妓としてではない綺凛を。

「欲しかった……ずっと欲しかった、綺凛」

「私は……一人の私でしかなくともですか?」

「綺凛?」

「私は誰のものでもあり、誰のものでもない、生身の人間でしょう?」

 急に突き放すような言葉が出てきて、翔二は困惑する。しかし綺凛は涼しい顔をしていた。

 しっかりと、抱き合いながら。

 ──この綺凛は誰だ?

 心の内で問いかけても、目の前の綺凛には届かない。

 ただ、晴れやかに笑っているのみだ。

 放たれた言葉にそぐわない笑顔が眩しい。

 それが、あまりにも幸せそうで──翔二も疑問とは裏腹に満面の笑みを浮かべた。

「──どんな綺凛がいたとしても、今ここにいる綺凛は綺凛そのものだ。俺は綺凛に……」

「──抱きしめていて下さいな」

「綺凛が、そう望むなら」

「ええ。こうしていましょう。私は今、翔二さんしか見えない世界で、貴方に寄り添います」

 言っている事が支離滅裂だ。なのに、嬉しい。

 綺凛が受け入れながら拒む悲しさは、喉につかえる異物のような苦しみを味わわせても。

 ──ここでしか、ありのままでいられない。素顔を晒して寄り添えない。

 夢から目覚めへと浮上してゆく中、惜しむように綺凛を抱きしめていたのに──綺凛は笑い声の余韻を残して姿を消したのだった。



 * * *



 はっと目を覚ました翔二は、まず綺凛の姿を確かめた。

 瞼を覆っていた手のひらは畳の上に落ちている。

 そして花魁装束の膝枕。見上げれば目を閉じてうつむき、眠っている様子の綺凛。

 その、時が止まったように静かな空間。


 ──この綺凛も、綺凛だ。本物の綺凛なんだ。


 薄化粧の肌は白く陶器のようで、綺凛が生気を宿した人形にも見える。しかし、生身の人間だとも分かる。


 あまりにも静かで、彼の寝息すら聞こえなくとも。


 ──もう少し。あと少しだけ、このままで。


 今は、綺凛と二人きりの空間に酔いしれたいと願った。

 だから、眠る綺凛を起こさないように、じっとして横たわり見つめる。

 やがて綺凛も目を覚ます。

 綺凛と抱き合えた夢を見ることが出来ても、その夢は綺凛と共有出来ないものだと分かっているからこそ。

 ──綺凛との、この時間も。金で買ったものなんだな。

 対価を支払わなければ、現実の綺凛と共にあれないのだ。ほんのひと時さえも。

 ──綺凛は金で誰のものにもなる。そして誰も本当には手に入れられない。

 微睡みで見た夢は、現実の翔二の心に一滴の墨汁を落とし──その黒い染みは、どれほどすすいでも落ちないだろうと思わせた。


「……あ……豪道様……?私は……」

 ふと、綺凛の瞼が動いて、薄く開く。それはすぐに覚醒で見開かれた。

 時が、また動き出す。日の傾きから、綺凛との時間は終わると認識出来てしまう。

「……おはよう、お互いに良く寝たな」

「申し訳ございません、私とした事が、男妓でありながら寝入ってしまうとは……」

「いや、綺麗な寝顔を拝めたから──俺は満足だ」

「豪道様、ですが……」

「それより、膝枕をしていて足が痺れてないか?もう起きるから、足を伸ばして残りの時間で休めるといい」

 理解のある客を装い、翔二は鎌首をもたげた欲求を切り捨てようと努めた。

 そうしなければ、綺凛を失う事になると理解していたからこそ。

 ──あんな幸せそうな、悲しい夢を見たせいだ。

 だけどあれは夢でしかない、そう言い聞かせて。

 現実の綺凛もまた、本気で追えば突き放す事を知りつつも──目を背けて。

「……豪道様は、お優しいのでございますね」

 手の届く所にいる綺凛が、ほんのりと微笑んだ。はにかむように、うっすらと頬を染めて。

 彼がどのような客を相手にしているか、細かく把握する事など不可能だ。

 だから、翔二はことさらに柔らかく笑みを作った。

「これくらい、普通の事だろう?」

 廓には通用しない普通だと、駆天郷に慣れてきている身として分かっていても、翔二は敢えて何気ないふうを装った。


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