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第2話 始まりの言の葉

 綺凛が見世に出るようになったのは、駆天郷に売られて四年が経ち、十六歳になった時だった。


 念の為、日本には少年少女を守る法律がある。だから十八歳に満たない綺凛は水揚げも出来ない。

 永華院は心を売る見世とはいえ、男童から男妓になるには水揚げされる事が必須なので、まだ未成年の綺凛はあくまでも男童として客を取るようになった。


 駆天郷にある見世の大半は、各々がウェブサイトを使っている。サイト上で宣伝も遊技の予約も行なうのだ。これは日本語版のみに留まらず、各種言語にも対応している。

 それだけ、日本独自の「八百万の神」という存在が作った遊郭は、観光地としても注目を浴びているのだ。

 しかし駆天郷は色郷。男女の欲が集まる場なだけあってトラブルも起こる。そうした時、八百万の神は奇跡のように姿を現し、遊技を守る事も「さすがは神の恩恵を受ける色郷だ」と評判になっている。

 ちなみに、神というもの見たさで故意に遊技や見世へ狼藉を働いた輩は、神罰がくだり出禁になるだけでなく、脳から駆天郷の存在まで消されてしまう。


 おかげで、当時まだ少年だった綺凛も煌びやかに着飾った姿で、注目の新人としてサイトに掲載されて見世で客を取り始めても、貞操の危機に遭わずに済んだ。

 もちろん、永華院の売りにする特色も彼を守る一因ではある。

 まやかしの心を売る──その加減の難しさ、ともすれば客が本気になる危うさ。

 それは常に付きまとうが、十二歳で駆天郷の永華院に売られた綺凛は、男童として先輩遊技のもとで、四年にわたって永華院ならではの接客を見てきていた。

 十六歳になり、いざ見世に出る事になれば、その客とのやり取りの生々しさには衝撃を受けたものだったが、それも持ち前の美貌と落ち着いた声音で売れっ子になるにつれて、客あしらいに慣れる事が出来た。


 サイトでは、新人紹介の頃から今に至るまで、常に綺凛が大きく掲載されている。

 着付けとヘアメイクをしてもらい、プロのカメラマンに撮影させた、もの柔らかで心を奪うような微笑みに僅かな憂いが見え隠れする綺凛の姿は、見る者が憧れを抱かずにはいられない。


 翔二が綺凛を初めて予約したきっかけも、永華院のサイトだった。


 当時の翔二は、十九歳の大学生だった。九つ上の兄である登一は許嫁と結婚して四年が経っていたが、一向に子宝に恵まれず──検査の結果、登一の不妊症が判明した。

 そうなると、跡目を継ぐ子を残せるのは翔二だけとなる。

 だが、翔二は自分が男性にしか恋情を持てない事を自覚し、煩悶している真っ只中だった。

 それでも家の存続の為に、翔二にも見合い話が寄せられて、彼の意思に関係なく家同士の話し合いによって許嫁が決められた。

 佐竹薫──翔二より二歳年下の女性は、たおやかな雰囲気の愛らしい令嬢だった。

 彼女は不快に感じる要素など何もない。美しさも可愛さも分かる。

 ……しかし、結ばれたいとは、どうしても思えなかった。薫を前にして、何の欲求も起こる事はなく──翔二は憧れていた存在への憧憬と思慕を肥大させるばかりで、己の心がおぞましくさえ感じていた。


 そんな翔二に、登一が永華院のサイトを教えたのだ。


「ここなら、望む心を作って売る代わりに、体は売らない見世だから、性病の心配もないし、遊ぶついでにカウンセリングを受ける感覚で、お前の話も聞いてもらえるんじゃないかな」

 登一は、翔二の性向を理解した上で、そう勧めてきてくれたのだ。

 女性を置く見世を勧めれば、女性の魅力も分かるようになれるかもしれなかったのに──翔二に無理は強いなかった。

 そんな兄だから、翔二は慕わずにいられないというのに。

「──ほら、この子なんてどうだろう?まだ男童だけど、大々的に売り出されてるくらいだ。きっと話を聞いて癒すのが上手いんだよ」

「……綺凛?名前も着物も男っぽさがないんだな」

 昔の花魁を思わせる装いをした綺凛は確かに美しかったが、髪を長く伸ばしていて、薄化粧を施している。

 体つきと鋭角的な顔立ちで男性だと分かるものの、写真の佇まいはいかにも女性っぽく見せているようで、そのバランスは中性的だ。

 ──それにしても。こうして肩を寄せ合い、同じ画面を見ているだけでも、翔二の心は妖しくざわめくというのに、登一には決して気取られてはならない事が胸を苦しくさせる。


「──決めた。この綺凛っていう男童を予約して会ってみる」

 そう決心したのは、ざわめきを振り切る為と、他でもない兄が勧めてきてくれたからだった。

「そうか。初会はお茶を飲みながら会話するだけらしいから、気楽にな」

「兄さん、ありがとう」

「……でも、初会の予約が一か月待ちなのか。かなりの人気があるんだな」

「それだけ接客が上手いって事じゃないのかな。多分、良い話し相手になってくれると思うから」

「翔二がそう思うなら、駆天郷を検索した甲斐もあるけどな」

 正直に言えば、綺凛とかいう男童には期待半分程度の感情しかない。サイトの写真は美しいが、どうせ加工して綺麗に見せているだけだとも思っていた。

 それでも、望む心を売る見世というものに、作りものの心でも自分をなだめてくれるのならと、淡い希望がある。


 だから、予約して待ち──初会を迎えた時の衝撃は忘れようもない。


「豪道様、お初にお目にかかります。綺凛と申します。──私を駆天郷での敵娼と定めますかは、豪道様のお心次第となります」


 現代の色郷だとは思えなくなるような、平安時代の女房装束を纏って正装した綺凛が、うやうやしくお辞儀をする姿の優美さ。

 そして何より印象的なのは、儚げでありながら、凛として澄んだ眼差し。気高いとは、このような姿の事かと思われる。

 金で買われているのに媚びる素振りを微塵も見せない綺凛と向き合ってみて、こうした遊びが初めての翔二には、何もかもが想像と真逆だと驚きをもって感じさせた。


「……今までに、初会をして敵娼に決めなかった客はいるのか?」

 翔二が思わず口にした言葉は、遊技に対して失礼なものだった。しかし、綺凛は動じたり眉をひそめたりもしない。

「私にはおりません。いずれは、どなたかが最初で最後のお客となるのでしょうが」

「……そうか」

「豪道様には、迷いがあられるようにお見受け致します」

「それは仕方ないだろう、何しろ男妓を買うのは生まれて初めてだ」

「左様でございますか。私が豪道様の初めての相手を務めます事には、楽しんで頂けますよう心配りに励まねばと思われますね」

 そう言った綺凛は、朝露に濡れた花が昇る日を受けて輝くような、誰しもが見惚れずにはいられない微笑みを浮かべた。

「……そんな顔も出来るんだな」

「どのような顔でございましょう?」

「柔らかくて親しみのある笑顔だ。俺はサイトの澄ました写真しか知らなかったから」

「……あの姿は、見世を飾る為のものでしかございませんよ。偽りなき私は、豪道様の目の前におります通り」

「──まやかしでなく、か?」

「初会で虚飾の姿をお見せする程、永華院の男妓は愚かではございませんゆえ」

「なるほど。野暮な事を聞いて済まない」

「いいえ、謝られず。ここは遊郭の見世。どなたでも気になる事でございましょう」

 綺凛の言葉遣いからは、もの慣れた感じが伝わってくる。それでいて声音には男童の初々しさがあり、アンバランスなようでいて、却って可愛げがあって親しみやすいと思わせる。

「──豪道様、次は貴方様のお話を聞かせて下さいませ。初会は互いを知る為のものでございます。私が貴方様に尽くせるように」

「尽くす?」

 おうむ返しに訊くと、綺凛はにこりと笑んだ。人に懐いた猫を思わせる笑顔に、翔二は思わず目を奪われた。

「はい。──私が貴方様と共にある時、私の持てる力全ては貴方様の為に使うべきもの。それが永華院の定めでございます」

「……俺は、兄の勧めでここに来た。──憧れてやまない兄の勧めでだ。綺凛も兄の目にとまったから予約した」

「兄上様をお慕いしておられるのですね」

「慕う、か。俺にも、この心がどんな意味を持った心なのか分からない。ただ、後ろ暗いものだと感じてしまうんだ。兄はただ一人、男しか愛せない俺を理解してくれているのに」

 思わず本音を吐露してしまったのは、これが金で買う事で守られた場だからなのか?

 それとも、綺凛の心意気に触れたからなのか。

 翔二には判別がつかなかった。けれど、胸につかえていた苦しい心を言葉に出して、何とはなしに息が楽になるような感覚をおぼえた。

「後ろ暗いと思われる必要など、どこにございましょうか?兄上様をお慕いする事、憧れる事には悪意などございませんから……純粋な好意とは、心に夢を持つ事と同じでございます」

「夢……?」

「はい。望みを持って生きる糧です」

 言い切った綺凛の笑顔を、翔二は一生忘れられないと思った。

 清々しく、真っ直ぐで──淀んだ心を洗ってくれる美しい言葉を口にした、心の片隅で渇望していたものを差し出した笑顔。


 これを機に、翔二は綺凛の敵娼となり、駆天郷通いを始める事となった。


 駆天郷が桃源郷などではなく、遊技にとっては苦界だと、それを感じ取る余裕もなく。


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