「小説ってのはな、自分の生き様なんだよ。君たちの経験を言葉にすれば、きっと世界で一つの物語が生まれる」
何て素敵なおじさまだろう……貴方から目が離せない。
※※※
「よし! 今日の目標完了!」
奈々子は目標の2000字を執筆してPC前でふぅと一息ついていた。彼女は営業事務員として勤務している傍ら、小説投稿サイトに自作の小説をアップしている。もともと文章を書くのが好きであったが、自身の過去の恋愛経験をもとにオリジナルの恋愛作品を生み出している。
どんなに辛い恋愛経験も文章にすれば良い作品に変わり、自身も心の整理ができて前に進めるようになった。30代に入ったばかりの彼女、黒髪のセミロングヘアに眼鏡をかけている。まだまだこれから多くの経験を積み、心を揺さぶられる小説を書けるだろう。
「書けたのはいいんだけど……あぁやっぱりアクセス数は少ないな」
彼女が書くのは現代恋愛。今の流行は異世界ファンタジーであり、恋愛も異世界のものが人気である。奈々子にとっては恋をしている時のワクワク感や切なさ、ほろ苦い思い出であっても作品化すれば「ごく普通」のものとなって埋もれてしまう。
「だけど現代恋愛でも人気のあるものはあって、それはとても読みやすいし面白いんだよね。私の書く文章はどこか拙いんだよな。語彙力皆無……どうすれば表現力が身につくのかな」
奈々子はいつも見ているSNSを開いてみた。すると通知があり、自作を読んでくれた人の感想が書いてある。
『薄っぺらい文章で小説とはいえないし、一人称視点と三人称視点がごちゃ混ぜとなっている。基礎からやり直した方がいい。評価はつけたくないが仕方ないので一つだけつけました』
「ああ……やっぱり私は基礎ができていないんだ」
彼女はため息をつく。だが一方で、
『素晴らしい作品ですね。感情移入しました。応援しています』
といった通知もあるのが不思議である。いずれにしろ、どこかで基礎から勉強し直したいと思う奈々子。動画を見たり、ネットを検索してみるが内容は分かるものの、自分の作品にどう落とし込めば良いのかが分からない。
「誰かに読んでもらいたいなぁ。こういうSNS上ではなくて直接読んでもらってその場で教えてもらいたい……小説教室って行くべきかな」
彼女は早速、地元付近の小説教室を検索した。
※※※
4月のある日、奈々子は寂れた商店街を抜けた先にある古民家の前までやって来た。そこに「綾小路小説教室」の黄ばんだ小さな看板がある。見た目は古民家だが、本当にこのような目立たない場所で教室が開講されているのだろうか。
1ヶ月ほど前に彼女がネットで検索をしたところ、隣の駅から少し離れた場所に「綾小路小説教室」を見つけたのだ。
『趣味で楽しみたい人もお気軽にどうぞ。4月スタートのクラスにつき受講生を募集中』
しかし口コミを見る限りでは、駅前の小説教室の方が元有名小説家が講師とだけあって人気がありそうだった。一方の綾小路先生は、昔一度だけ書籍化した作品があったがそれ以降は本業の編集者として勤務し、退職して教室をオープンさせたとのこと。
今後本気で公募突破を目指すなら駅前の教室の方が良いだろう。しかし奈々子は昨年12月から執筆を始めたばかりの初心者であり、そもそもの基礎が足りないと思っている。ホームページに記載された温かみのある文章や、懐かしさの残る雰囲気の教室写真。これらを見て綾小路小説教室に通うことを決めた。
まさかその時は、あのような出逢いをするとは思ってもいなかったが。
さて、古民家のインターホンを鳴らして中へ入る。リノベーションされており、部屋はアンティーク調のテーブルと椅子が並んだレトロな雰囲気であった。こういうお家に住んでいる先生はどんな人だろう。4月スタートのクラスには奈々子を含めて参加者は4人であった。大学生や主婦、定年退職した人がいる。
そして講師である綾小路哲郎が「やぁ、こんにちは」と挨拶した。軽くパーマをかけたミディアムショートで50代の色気漂うおじさま。前髪も自然に分けていてお洒落である。濃紺のシャツにベージュのチノパンを合わせており、シャツは第一ボタンを外している。奈々子は一目見て先生の魅力に取り憑かれてしまった。
「葉桜さん? 葉桜奈々子さんはいるか?」
名前を呼ばれたことも忘れており、慌てて返事をする奈々子。
「小説ってのはな、自分の生き様なんだよ。君たちの経験を言葉にすれば、きっと世界で一つの物語が生まれる」
綾小路先生の少し低めの声は、言葉に重みを与えていた。ゆっくりと丁寧に話すその語り口に、誰もが自然と耳を傾けてしまう。奈々子はそれ以上に、先生のことが気になってしまった。
何て素敵なおじさまだろう……色気もあるし言葉の一つひとつに説得力がある。そして貴方の眼差しが温かくて安心するの……どうしよう、貴方から目が離せない。
「では今日は1回目なので、皆さんの自己紹介をしましょう。そしてご準備いただいた小説の1話を読んで感想を伝え合いましょう」
奈々子は持参した作品の1話を他の受講生たちに読んでもらった。
「身近な話ですね。恋のもどかしさがあって共感します」と主婦の人が言う。
「わかりやすいけれどもう少し主人公のことを書いた方が2話に繋がると思います」と大学生。
奈々子は言われたことをメモしていく。そして最後に綾小路先生も感想を話してくれた。
「そうだな。分かり易い文章ってのは書けそうでなかなか書けないから、そこは良い点だな。あとは読者を惹き込ませるようなエッセンスがあると良いね。それが主人公の特徴だったり過去だったりするのかな。俺も恋愛小説は書いたが、女性目線だとこういう考え方があるのかと勉強になるよ」
「あ……ありがとうございます……」
まさか先生にここまで言っていただけるとは思っておらず、奈々子は嬉しく感じた。一人称視点や三人称視点などは修正したがそれ以外の文章の拙さが気になっていたのだ。だが、先生に「分かり易いのが良い点」と言われ、ほっとしていた。
他の受講生たちも一通り感想をもらい、和気あいあいとした雰囲気で一回目のレッスンは終了した。
「次回から基本的な書き方や俺の経験を踏まえたレッスンになるからね。よろしくな」
皆が帰って行く中で奈々子はしばらく先生をじっと見つめていた。
「あの……ありがとうございます。私……本当に初心者で、でも先生も他の皆さんも温かくて……頑張れる気がしました」
「そうか、それなら良かった。ねぇ葉桜さん」
「はい」
「……いい恋愛、してきたんだね」
奈々子は顔が熱くなってきた。
「そんな……恥ずかしいです、先生」
「恥ずかしくとも何ともないさ。自らの恋愛を元に文章を作る葉桜さんは……素晴らしい作家になれる」
低く渋い声で囁くように言われて奈々子は頬を赤らめる。
「綾小路先生……また次回もよろしくお願いします」
そう言って彼女は教室を後にする。桜の花びらが舞う中、奈々子はドキドキしながら少し早足で歩いて行った。