「最近葉桜さん、綺麗になったわね」
職場の先輩にそう言われて奈々子は慌てる。
「いやっ……そんなこと……ないですっ」
綾小路小説教室に通うようになってから確かに身だしなみには気をつけるようになったが、そこまで変化があるのだろうか。
「明日土曜日だしね、早く終わらせちゃいましょう」
「はい」
はぁ……やっと明日先生に会えるんだ。
そう考えるとつい笑みがこぼれてしまう。この一週間、先生とはメールをたまにする程度だった。「メールが苦手でな。話した方が早いだろう?」とも言っていた綾小路先生。だが特に電話することもなく、次のレッスン日が迫っていた。
私は先生に直接会いたい……あの渋くて素敵な笑顔と隣にいる時に漂う香りと温かさ、そばにいるだけで安心できるおじさまなのだから。
※※※
今日のレッスンでは大学生の西川くんの小説を題材に皆で意見交換をした。西川くんの異世界ファンタジー小説を奈々子は頑張って読もうとしたが、異世界系が読み慣れておらず、意味の分からないカタカナ言葉に苦戦していた。
「あの……私はこういう作品に読み慣れていなくて……まずは用語がわからないのです……あとは主人公ってどうして転生する必要があるのでしょうか」
綾小路先生が言う。
「そうだな。西川くんの小説は、独特な世界観を持っていて面白いね。まさか主人公がRPGゲームの世界に転生するなんてな。ただ、葉桜さんのように、異世界ファンタジーに慣れていない読者にとっては、専門的な用語やカタカナが多いと少しハードルが高いかもしれない。西川くん、もう少し読者に優しい説明を加えるか、あるいは用語集みたいなものを付けてみたらどうだろう? あとは主人公が転生した背景をもう少し追加するとさらに受け入れられやすくなると思うよ」
綾小路先生の言葉に、西川くんは「確かにそうですね」と少し考え込むように頷いた。教室の中では、他の受講者たちもそれぞれの感想を述べ始めた。清水さんは「戦闘シーンの描写の迫力があって良かった」と褒めていた。
奈々子はノートにメモを取りながら、異世界系の小説を読むのも悪くないかもしれないと思い始めていた。少しずつでも慣れていけば、西川くんの作り上げた世界をちゃんと楽しめる気がした。レッスンはそんな風に、みんなの意見が飛び交う和やかな雰囲気で進んでいった。
終了後、いつものように他の受講生が帰るのを待ってから奈々子は先生と一緒にリビングに向かった。
「コーヒーでも淹れるよ。座ってて」
キッチンで綾小路先生がドリッパーでコーヒーを淹れている。ドリッパーを使っているだけで絵になる渋さ。コーヒーにも彼の渋さが抽出されているかもしれない……と考えてしまい、奈々子は恥ずかしさのあまり目線をキッチンからテーブルに向けた。
「砂糖とミルクはどうする?」
綾小路先生の落ち着いた声が聞こえてきた。奈々子は慌てて姿勢を正し、「あ、ミルクだけお願いします」と答えた。先生は小さく頷き、コーヒーをカップに注ぎ終えると、静かにリビングに戻ってきた。
ふたつのカップをテーブルに置き、先生は奈々子の向かいに腰を下ろした。湯気が立ち上るコーヒーの香りが部屋に広がり、どこか懐かしいような安心感を奈々子にもたらしている。
「今日の授業、どうだった?」
先生が穏やかに尋ねると、奈々子は少し考えてから口を開いた。
「すごく面白かったです。特に最後の議論の部分……皆の意見から新しい視点が見えてくるのが新鮮で。私も異世界系を読んでみたくなりました」
先生は微笑みながらコーヒーを一口飲んだ。その仕草さえも、どこか洗練されていて、奈々子はまたしても内心で感嘆してしまう。
「それは良かった。君たちの考えが交錯する瞬間が、俺にとっても楽しみなんだよ」
奈々子は、その一言が自分に向けられたものだと感じて、胸が少し温かくなった。そしてコーヒーカップを手に持ち、湯気を眺めながら少しだけ緊張をほぐした。先生の言葉が頭の中で反響している。
「俺は……君の発言はいつも印象に残ってるんだ」
先生が奈々子をまっすぐに見つめた。突然の言葉に、奈々子は驚いてカップをテーブルに置く。少しだけコーヒーがこぼれてしまい、慌ててハンカチで拭こうとしたが、先生が先にティッシュを差し出してきた。
「あ、ありがとうございます……」
奈々子は顔を赤らめながらティッシュを受け取り、テーブルを拭いた。
「気にしなくていいよ。それより、君が言ってくれたおかげで『意見の違いから生まれる価値』っていう考えが皆に伝わったんだ」
先生の声は穏やかだが、その言葉には確かな重みがあった。奈々子は照れくささと嬉しさが混じった気持ちで、つい目を伏せてしまう。
「そんな、大したことじゃないですよ。ただ私は異世界系が分からなかっただけなんです。思ったことを口にしただけで……」
「いや、謙遜しなくていい。思ったことを言葉にするって簡単なようで難しい。それを自然にできるのは君の強みだ」
綾小路先生はそう言うと、再びコーヒーを口に運び、静かに微笑んだ。奈々子はその言葉を胸に刻みながら、自分でも気づかなかった一面を指摘されたことに驚いていた。
コーヒーを飲んだ後にソファに座っていると奈々子はうとうととしてきた。綾小路先生の温かみのある部屋は彼女の心を落ち着かせる。
ああ……今週は仕事で追い込まれていたんだっけ。そう思いながら奈々子は先生の肩に頭を乗せてぼんやりしていた。
「フフ……奈々子さんはお疲れだな」
スースーと奈々子は寝息を立ててソファで眠ってしまった。
※※※
ハッと目を覚ますと外はすっかり夜になっていた。眼鏡が外されてブランケットがかけられている。
「うそ……私ったら何してんのよ……やだ……」
「奈々子さん、起きたかい?」
そこにはお風呂から上がったばかりで濡れた髪をタオルで拭いている綾小路先生がいた。紺色のパジャマが似合っており、前髪も顔にかかっていてさらに大人の色気が増している。
「お腹空いただろう? この時間だから軽めの方がいいかな?」
そう言って奈々子にお茶漬けを持って来てくれた。鮭茶漬けを美味しくいただいて奈々子はさらにリラックスしてしまいそうだった。まるで家にいるような気持ちだ。
「ごめんなさい……こんな時間まで……」
「フフ……俺の家でそこまでゆっくりしてくれるなら、嬉しいよ」
先生の笑顔に奈々子はまた胸がドキドキしてくる。
やっぱり先生のこと……好きだなぁ。
「奈々子さん……」
綾小路先生の低い声が奈々子の耳元で囁く。
「今日、泊まっていく?」