綾小路先生と両想いになれた奈々子。しばらく職場でもぼんやりとしてしまい、ルーティンの入金処理を失念しそうになった。
翌週のレッスン日。行きの商店街で同じ受講生の清水さんと会ったので、一緒に教室へ向かった。
「葉桜さん、綾小路先生と仲良さそうね?」
さすが主婦。勘が鋭いがまさか両想いだなんて言えない。
「あ……私の小説は自分の経験に基づいていて、皆さんの前で題材にされるのが恥ずかしくて、別の小説を提出したんです。だけど最初に出した恋愛小説のこともアドバイスいただけることになって……」
「へぇ……優しいわね、あの先生」
清水さんはぱっと見は納得してそうに振る舞っていた。絶対怪しまれているだろうなと奈々子は思う。
「あの先生、バツイチよ。だから葉桜さんと仲良くなりたいのかも」
清水さんが何故か綾小路先生がバツイチだと知っている。主婦のネットワークのようなものがありそうだ。
「それに娘さんか息子さんか……がいたような気がする」
「え?」
思わず奈々子が声をあげる。子どもがいることは先生から聞いていない。だが、年齢を考えると20代ぐらいの娘か息子がいてもおかしくないだろう。
清水さんは奈々子が明らかに驚きを見せたことで確信したのか「バツイチ子持ちって付き合うと大変みたいよ」と言っていた。
確かに付き合うということは相手の過去も受け入れるということだ。子どもがいるのであれば簡単なことではないかもしれない。しかし、自分の気持ちに嘘はつけない。きちんと向き合えば深い付き合いだってできるはずだ。奈々子は今日のレッスン後に先生に話すことを決めた。
※※※
レッスン終了後、奈々子は皆が帰るのを確認してから綾小路先生と隣同士でテーブルにつく。あの相合傘の日以降、会うのは今日が初めてでまだ付き合っている雰囲気はない。まずはお互いの連絡先交換からだった。
「奈々子さん、これからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします。綾小路先生」
「……」
「……」
急に付き合うとなると何を話せば良いのかわからなくなってしまった。
「俺はバツイチだし、この通り年も取ったおじさんだ。奈々子さんには苦労をかけてしまうかもしれないな」
「大丈夫です。私たちのペースでお付き合いしませんか? 恋愛にこれといった決まりはないと思います。あ、犯罪とか浮気とか嘘とかDVとか変な隠し事とかはダメですが」
先生はクスクスと笑っていた。笑顔がまた渋くて菜々子はトクンという音が胸の奥で聞こえてくる。
「フフ……それはダメだね。平日は奈々子さんは仕事だよな?」
「はい。先生も平日のクラスがいくつかありますよね?」
「そうだな……じゃあ2人で会うのは今日みたいにレッスン後になりそうだな。もしくは日曜かな」
奈々子は頷いた。そしてあの話を切り出す。
「先生……私は先生のことをもっと知りたいです。バツイチだとはお聞きしましたが、その……お子さんはいらっしゃるのでしょうか」
綾小路先生の顔色が明らかに変わった。やっぱり子どもがいるのだと奈々子は確信する。
「悪いな……君にいつか話さなければならないとは思っていた。高校2年の娘がいる」
娘がいる……覚悟はしていたものの、実際に本人の口から言われると一気に衝撃が走る。奈々子は黙ってしまった。
「だが向こうも忙しいみたいでな。会うのは年に数回くらいだ」
我が子を大事に思い、子どもが希望すれば会えるようにするのは当然のことである。だが奈々子にはもう少し時間が必要かもしれない。
「ごめんなさい先生……私、先生の過去も受け入れようと頑張るつもりでした。だけどすぐには難しいかもしれません。それでもいいですか? もちろん、娘さんのことは大切にしていただきたいのですが」
先生は頷いて言う。
「ありがとう奈々子さん。こんな事をすぐに理解しろなんて言わないさ。娘も大切だが俺が今一番好きなのは君なんだ。それだけは信じてほしい」
「先生……私も好きです。そうおっしゃってくださる先生のことが」
2人は教室内で唇を重ねる。甘くて時間さえ溶かすように深く染み渡る想い。奈々子は先生のこの渋い香りが好きだった。ずっとこうしていたいと思ってしまう。
そして教室を出て先生に家の中を案内される。もともと家族で住んでいたため部屋も広い。リビングやキッチン、ダイニングもリノベーションされており、ブラウン基調で様々な木の素材で集められた家具は、どれもシンプルだが味のあるものだった。寝室は布団を敷くそうだ。
この古民家で家族で過ごしていた風景が思い浮かび、奈々子は少し切ない気持ちとなった。それを察したのか先生が話す。
「これからは君もここで過ごしてくれていいから。こんな家で良ければだが」
少し遠慮してそうな先生の表情を見て奈々子は思う。切ない気持ちにはなったけれど、自分はこの家の雰囲気が好きである。それに先生と出来るだけ長い間一緒にいたい。
「じゃあ、お言葉に甘えて……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
その日はリビングのソファに2人で座って小説の話や、映画の話をした。夕食は先生が焼きそばを作ってくれた。フライパンを持つ時の腕の筋肉を見て、ついドキドキしてしまう。渋い雰囲気でワイルドに野菜や麺を炒めていく先生の姿にますます心惹かれる奈々子であった。
出来上がった焼きそばがテーブルに並んだ。
「美味しい……先生はお料理も得意なのですね」
「最低限だけさ」
「私も……また先生に作ってあげたいな」
奈々子のその言葉を聞いて、綾小路先生はパッと笑顔になった。
「奈々子さんが料理を振る舞ってくれるなんて、俺は幸せ者だな」
「そんな……先生……私も料理はそこそこです」
「楽しみにしているよ」
「はい、先生のお口に合うように頑張ります」
「ハハ……君の作ったものなら何でもいただくよ」
そう言われて奈々子は耳まで赤くなっていた。
夕食後に先生に駅まで送ってもらい、別れ際のキスをしてから奈々子は自宅へ帰って行った。綾小路先生の家で過ごしたことを思い出して顔がまた熱くなってくる。
「私が料理すると言っただけで、あんなに素敵な笑顔を見せてくれるなんて……」
奈々子はクッションを抱きかかえて鼓動が収まるのを待っていた。