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第4話 雨の中、そして

「先生は、これまでどのような執筆人生を歩んで来られたのですか? 書籍化もされたとホームページには書かれていたのですが」

「奈々子さんになら……話しても良いかな」


 こうして綾小路先生は自分のことを話し始めた。

「30代で一度だけ公募からの書籍化を経験したんだ。あまり売れなかったがな」

 彼の書籍化された「日曜21時45分の約束」は主人公の男臭さが特徴であり、途中で物語が激しく展開していくものの優しい終わり方をする恋愛小説である。今ではどこにも売っておらず、奈々子はフリマアプリで購入して読んでいたのだ。


「拝読しました。主人公とヒロインの秘密の関係が丁寧に描かれていて感動しました。だけどまさか親友が裏切るとは思っていませんでした……一気読みしちゃった」

 そう奈々子が言うと先生は「ありがとう、嬉しいよ」と渋い笑顔を見せた。


「日曜21時45分の約束」以降は編集者として働きながらも趣味で小説を投稿し続けていた。公募がそれ以降通ることはなかったが、仕事と公募の両方に取り組んで家庭を蔑ろにしてしまい、妻は家を出て行きそのまま離婚。その後50代で教室を開いたのであった。

 彼がバツイチだったことは知らなかった。てっきり奥様がいると奈々子は思っていたが、確かにこの家には先生以外の人の気配がないのだ。


 ということは……奈々子はごくりと唾を飲み込む。


 私の先生への気持ちはこのままでも良いのかな……?


 さらに今はあまり更新されていないが、先生の投稿サイトのページを教えてもらった。投稿された小説は現代ドラマ、ミステリーや恋愛小説など、身近でありながらも彼のオリジナリティが光るものである。


 しかし世間ではラノべが流行っており一定数の読者はいるものの、そこまでの人気はなかった。

 奈々子は夢中で先生のページを読む。無駄がなく、それでいてどこか色気を感じさせる文章。革ジャンの擦れる音やタバコの煙が漂う情景がさりげなく描かれ、読者に「大人の余裕」を感じさせる。言葉選びもシンプルだけど深みがあり、一文一文に人生の重みが宿っているような印象である。


 また恋愛小説も人間関係に複雑な感情や過去の傷を織り交ぜて描かれている。純粋なラブストーリーや若さゆえの衝動ではなく、熟練した大人の冷静さと熱さが共存するような世界観。

 奈々子は同じ恋愛小説を書く者として綾小路先生に憧れを持つ。そして彼とならこういった大人の恋愛が出来るのではないかとさえ思った。そのぐらい、綾小路先生のおじさまとしての渋さと格好よさ、人間的な器の大きさは彼女を虜にする。


 随分時間が経ってしまい外が急に暗くなってきて……雨が降る。

「あれ、今日の予報は晴れだったよな? 奈々子さん、帰れるかい?」

「あ……傘を持ってきていないのですが……何とか」

「心配だから駅まで送るよ。俺の傘に入るか?」

 驚きながらも奈々子が頷く。玄関へ行き綾小路先生は紺色の傘を持ち、2人は傘の下で肩を寄せ合った。雨音の中、先生のジャケットから漂うかすかな渋い香りに、奈々子の胸が高鳴った。


 ここで彼女は不思議に思う。普通は自宅に傘はビニール傘も含め複数あるはずだが、どうして相合傘なのだろうか。

「……この方が小説っぽくないか?」

「……あ、確かに。やだ……先生ったら」

 奈々子は笑った。その笑顔を見た綾小路先生が彼女を見つめる。視線に気づいた奈々子も彼を見つめる。


 少し暗くて狭い傘の中……貴方の顔がこんなにも近くにあるなんて。陰影で貴方に余計に色気を感じる……だめ……好きになっちゃう……先生……

「私……先生のこと……初めて会った時から気になってしまって……」


 自分でも信じられなかった。雨の中、講師に向かって何を言っているのだろうか。

「奈々子さん……俺も君の小説を読んで心打たれたよ」

「私も先生の書籍を読んで……心が動きました。だけどそれだけじゃなくて、教室で指導を受ける時も、レッスン後に2人で話す時も……ずっと先生は私の特別なんです……」


 その言葉に、綾小路先生は初めて言葉に詰まった。雨が傘を叩く音だけが響く中、彼は小さく息を吐いて言った。

「奈々子さん…… 君は俺を良く書きすぎだよ。あの恋愛小説の続き、前回改めて持って来てくれた原稿で主人公が新たな恋をしていたが……これは俺のことか?」


 実は、奈々子は綾小路先生に出逢ってから彼への想いを作品として綴るようになった。それを当初提出した恋愛小説の続きとして綾小路先生に渡したのであった。

「あ……わかりましたか……?」

「そんな目で見られると危ないな。俺だって奈々子さんの作品を読むたびに、徐々に君自身のことが気になっていたのだから……こんなおじさんだがな」


 奈々子が勇気を出して言う。

「先生、私……物語だけじゃなくて現実でも、先生と一緒にいたいです」

 綾小路先生が傘の中で奈々子の肩をぐっと抱き寄せる。男らしい強い力を感じて奈々子は心臓が飛び出そうになった。



「もう一緒にいるだろう? この傘の中でな」



 先生はそう言って傘で周りから見えないように……そっと奈々子の唇に自分の唇を重ねた。ゆっくりと奈々子の眼鏡を外していく。

「綺麗な目だ」と言われて彼女の瞳が潤んでくる。

 雨音が少しずつ弱まっていくまでの長い間、ずっと傘の中で抱き合いキスを繰り返していた。


 やがて雨が止んだがまだ2人は傘の中にいる。おじさま特有の渋い味わいと幸せな気持ちを噛み締めながら、奈々子は目をトロンとさせている。相合傘でこんなに情熱的になれるなんて初めて知った。雨は冷たいはずなのに傘の中は熱くてほてってしまいそうだ。でももう雨が止んでしまったからこの時間も終わりだろうか。


 奈々子はそう思っていたが、

「しばらく傘をさして乾かしておかないとな」と先生が低い声で囁き、再び奈々子を抱き寄せて深い口付けをした。



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