通常レッスンの後に特別に自分の恋愛小説のアドバイスを受けることになった奈々子。今日の綾小路先生はお洒落な眼鏡をかけており、文豪のようでとてもよく似合っている。いつも前に立っている先生がテーブルの隣の席に座っており、少し寄ると身体が触れそうな距離感。ふわっとおじさま特有の渋みのある匂いがして、奈々子の心拍数がさらに上がる。
「全て読んだのだが……別れの瞬間の空気感が特にリアルだな」
別れ……奈々子は過去の恋愛を思い出し俯く。
「先生……聞いてくださいますか?」
「ん? 俺でよければ」
奈々子は27歳から29歳の間の2年間、職場恋愛をしていた。相手の男性は奈々子の先輩にあたり、営業部のエースで爽やかな笑顔、社内での人気も高かった。
仕事でやり取りをする中で仲良くなり意気投合して付き合うようになった。まるで彼との楽しい思い出が蘇るように奈々子は綾小路先生に話していた。
デートした箇所もたくさんありそれぞれの場所で小さくても忘れられない思い出がある。しかし奈々子が29歳の時のクリスマスに別れを切り出されたのだ。予約困難なレストランを半年以上前におさえて、同じように予約困難なホテルも予約していた。奈々子はきっと彼からプロポーズされると思っていたが、レストランで彼から「別の子を好きになった」と聞かされた。新入社員の可愛いらしい受付の女性だ。
目の前が真っ暗になった。大好きだった。いつも彼とのデートが楽しみで、忘れられない出来事ばかり。奈々子はその場で泣いた。たくさん泣いた。そしてせっかく高級ホテルを取ったので最後の思い出として、ホテルで一夜を共にした。涙を流して抱き合った。
それから一年後の12月、ようやく吹っ切れた奈々子は小説の執筆を始めたのだ。自身の心の整理も兼ねて。
「そうだったんだな……話してくれてありがとう」
綾小路先生は渋くて優しい声で言う。
「この別れのシーンで主人公が涙を流す描写や、それでも彼と最後の一夜を共にする描写で……もう少し彼女の内面を見せてみたらどうだ? 読者にその痛みを渡すんだ」
「内面……そうですね」
「心の吐露だよ。君が感じたこと……全部ぶつけてみて」
奈々子は彼との別れを思い出す。胸が張り裂けそうになるほど辛かった。あの2年間は何だったのかと思った。そういった気持ちを文章に表せば良いのだ。
「あの……先生。私の描く主人公は……弱すぎますか?」
奈々子は思い切って聞いてみた。自分の経験を元に書いた作品である。主人公の女性に目立った特徴がないのだ。
すると先生は穏やかに答えた。
「弱いんじゃない。人間らしいんだよ。奈々子さんの書くものには、本物の感情がある……それが強みだ」
「先生……!」
奈々子はぽろぽろと涙が頬を伝って来るのを感じた。彼との別れを思い出したことと、そして綾小路先生に言われた言葉の感動が合わさって感情が抑えきれない。
綾小路先生は肩を震わせる奈々子の背中をゆっくりとさすってくれた。一瞬ピクンとなった彼女だが徐々に先生の手からの温もりが背中に伝わってくる。
ドキドキもするけれど今はほっとする……先生と一緒にいると。やがて2人はしばらく見つめ合っていた。どうして目を逸らせないのか2人とも分からなかった。ただ今はこうして先生の隣にいたいと奈々子は強く思った。
※※※
その後のレッスンで奈々子の別の作品を題材に、現代ドラマの書き方を指導された。綾小路先生はまずその自然な会話の流れを褒めた。
「日常の中にあるリアルな言葉遣いがいいね。君の強みがしっかり出ている」
渋い笑顔で言われて奈々子はまた心ときめく。教室にも穏やかな空気が広がっていたが、先生はすぐに表情を引き締める。
「あとは……ドラマとしての緊張感が少し足りないかな」
奈々子は少し緊張しながら頷いた。確かに、現代ドラマは身近な出来事が元になっているため、自分でもストーリーが平坦に感じることがあったのだ。そこが難しいところである。
「現代ドラマでは、キャラクターの内面や葛藤をどう見せるかが大事。例えば、この主人公が抱える悩みをもう少し具体的に掘り下げてみてはどうかな?」
奈々子の作品の主人公は家庭や職場の人間関係で板挟みになっているという設定だ。先生はホワイトボードに簡単な図を描きながら言う。
「ここで小さな出来事を起こして、感情が動く瞬間を作ると、読者が引き込まれるかもしれないな」
ノートにメモを取りながら、奈々子は頭の中で新たなシーンを想像し始めた。レッスンが終わる頃には、物語に新しい息吹を吹き込むアイデアが浮かびかけていた。
「先生、ありがとうございます」
レッスン終了後、先生にお礼を言いに行く奈々子。
「奈々子さんは現代ドラマも書けるんだな。素晴らしい」
「いえ……」
2人きりの時だけ綾小路先生は奈々子を名前で呼ぶ。それがくすぐったくて心地良い。その後、奈々子の恋愛小説の続きについて話し合い、この恋愛小説については一通りアドバイスを受けることができた。
「本当にありがとうございます……私、嬉しいです……」
奈々子が先生を見つめる。再び時間が止まるような感覚があった。今日の先生も髪を無造作に分けているのが似合っており、目尻に少しだけある皺でさえ渋みを醸し出している。
少し時間があったので奈々子は思い切って尋ねてみた。
「先生は、これまでどのような執筆人生を歩んで来られたのですか? 書籍化もされたとホームページには書かれていたのですが」
綾小路先生は少し表情が曇ったが、すぐに言う。
「奈々子さんになら……話しても良いかな」