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第8話 散歩

「おはよう、奈々子」

 奈々子よりも早く起きていた綾小路先生……哲郎のいつもの渋い声がした。

「お、おはようございます、哲郎さん……寝坊しちゃった」

「いいんだよ、今日は日曜だろう?」

 そう言って哲郎は起き上がった奈々子の頭を撫でた。優しく手で触れられ、奈々子は心拍数が上がって一気に目が覚めた。


「朝食あるから。ゆっくりおいで」

「はい……」

 ダイニングにはごはんと味噌汁、焼き魚。レトロな雰囲気の部屋に和食という組み合わせがお洒落に見える。そこに腕まくりをして黒のエプロンをつけた哲郎がいるだけで、絵になる。


「哲郎さん、朝から準備してくださってありがとうございます。いつも適当に済ましていたから、こんなに美味しそうな朝ごはん……嬉しい」

「フフ……今日は奈々子がいるから特別。俺だって1人の時は適当さ」

 特別という言葉に胸が躍る。奈々子は味噌汁の香りに癒されながら哲郎とゆったりとした時間を過ごしていた。


「少し散歩にでも行くか」

 朝食が済み、片付けも一通り終わったところで奈々子は哲郎と一緒に近所を散歩した。寂れた商店街があるだけのこの地域は人も少なくて静かな場所。住宅街を抜けると河川敷が見えてきた。


「この河川敷に繋がっていたんだ」

 奈々子の自宅の最寄り駅付近にも河川敷がある。哲郎がおもむろに奈々子の手を取って坂を下りていく。こういうさりげない心遣いに、奈々子はまた哲郎のことが好きになるのであった。

 遠くで家族連れの声が聞こえてくる。初夏を感じる爽やかな風が吹き、空はよく晴れて僅かな雲がゆったりと流れている。


 その場に座ってしばらくこの雰囲気を味わう。何も話さなくても2人の間には穏やかな空気が流れ、身体が少しでも触れるとふわりとした優しい匂いがして心地良い。

「奈々子はさ」

 唐突に哲郎が話し出した。

「プロの小説家になりたいと思ってる?」

「私は……まだそこまでは」

 正直、失恋後の心の整理も兼ねて執筆を始めたのだ。プロという気持ちは湧かない。


「まぁ……そうだよな。書籍化自体が難しい時代だからな」

「私はただ恋愛経験を整理したかっただけでした。今は……哲郎さんの教室に行って皆さんの素敵な小説を読んで、別のジャンルも書いてみたいと思ったのです。でも商業作品としては成立しないレベルです。あと今の仕事を辞めてまで、とは思えない。趣味だからこそ続けられるのかも」


 哲郎が微笑んでいる。渋みのある笑顔に奈々子はまたドキドキしてきた。

「あ……私は……」

 奈々子が頬を染めている。

「今は……哲郎さんと一緒にいることが幸せです……小説も執筆しつつ、貴方とも過ごしたい。わがままですかね……」


 フフッと哲郎が笑い奈々子の肩を引き寄せた。

「俺だって今は自分が執筆するよりも若い人たちを応援したい。だが……君だけは特別だ」

「哲郎さん……」

「俺も若手を育成しつつ、奈々子と一緒にいたい」

 ぎゅっと抱き寄せられ、哲郎の渋い香りを感じながら奈々子は「嬉しい……大好き」と言いながら川辺を眺めていた。


 しばらく経った後、2人で河川敷を散歩しながら沢山の話をした。奈々子の話を何も言わずに聞いてくれる哲郎。ある程度聞いてくれると共感した上で、自分の考えを言ってくれる。人生経験の豊富な哲郎の言葉一つひとつが、奈々子にとっては新しくて懐かしい気持ちにもなる。


 ずっと一緒にいられたらどんなに良いだろうか。

 そんな事も考えてしまうほど奈々子は哲郎に惚れ込んでいた。



 ※※※



 哲郎の家に戻ってきた2人。気づいたら15時になっていた。

「奈々子は明日、仕事だろ?」

「はい……」

 月曜日が来るのが辛い人も多いが、今の奈々子には更に辛いものであった。

「あと少しだけ、ここにいてもいいですか?」

 気づいたら口が勝手に喋っていた。自宅に帰ってしまえばすぐに月曜日が来るような気がした奈々子。次の土曜までがまた長いのだ。


 哲郎は奈々子に近づき耳元でそっと言う。

「好きなだけいてくれたらいいさ」

 奈々子は顔を真っ赤にして哲郎の袖を掴む。そして彼を見上げて目を閉じた。やがて2人の唇は重なり、ソファに溶け込むように沈んでゆく。


 好きで、好きで……離れたくない。

 そんな気持ちを表すかように奈々子は哲郎の背中に手を回す。無意識のうちに肌が重なり豊かな香りに包まれる。奈々子の目には光るものが溢れていた。

「哲郎さん……私は……こんなに幸せになって良いのでしょうか?」


 本当は不安だった。また前と同じように捨てられたらと考えてしまったらどうしよう。前も幸せの絶頂の時に彼から別れを切り出された。嬉しい気持ちが大きいほどそれが壊れた時になかなか立ち直れなくなる。

 そう奈々子は思っていた。だから哲郎に聞いた。こんなに今が幸せであっても、自分を突然手放すことはないのかと。


「奈々子……俺だって不安だった。君はこんなおじさんをいつまで受け入れてくれるのかって。俺たちは似たもの同士だな」

 哲郎が奈々子の頬に手を添える。彼の大きめの手から全てを包み込むような安心感が伝わってくる。奈々子も哲郎の顔に手を添えて言った。

「私が哲郎さんから離れられるわけないじゃないの」

 少し泣きながらであったが奈々子が笑顔を見せる。


「……明日仕事だけど、ここにいられたらいいのに」

「……」

「そろそろ帰ろうかな……」

「奈々子」

 静かに哲郎が彼女を呼ぶ。



「この家に……住まないか?」


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