「この家に……住まないか」
哲郎からそう言われた奈々子。彼女の目から涙が滝のように溢れる。
「奈々子? 悪い……急にこんなことを言ってもな」
「ううん、嬉しいの……だって私、この家にいる方がよく眠れたんだもの。隣に哲郎さんがいてくれたから」
奈々子が哲郎の頬にキスをする。哲郎がはにかむように笑っている。
「俺も嬉しい。君がずっと隣にいてくれるのなら」
再び唇を重ね、2人は余韻に浸りながら時間が経つのを忘れて愛し合っていた。
※※※
それから少しずつ荷物を運び、時々哲郎の家に泊まりながら数週間ほどかけて奈々子の引っ越しが終わった。
「今日からよろしくお願いします……哲郎さん」
「フフ……最近ほとんどうちにいたじゃないか」
「そうだけど……一応荷物運び終わったから」
空き部屋があったためそこに奈々子のハンガーラックや収納ケース、デスクを置かせてもらった。
「綺麗に片付いたな」
「この家だから、何だかお洒落にみえない?」
「相変わらず褒めてくれるんだな」
奈々子が哲郎の小説教室に行こうと決めたのも、部屋の雰囲気が気に入ったからというのが理由の一つでもある。
「あ、もうすぐ教室始まっちゃう。どうしよう。鞄持ってなかったら不自然かな?」
今日は土曜日であった。
「受講生と講師の間で何かあるというのは……他の皆も気を遣うだろうな」
奈々子は頷き、いつもの鞄にノートと筆記用具や原稿を入れて、教室に一番乗りで入る。何事もなかったかのように哲郎と雑談している風を装っていると、清水さんがやって来た。
「こんにちは。あら葉桜さん今日は早いのね!」
「こんにちは清水さん。ちょっと早く来ちゃいました」
毎週これだとおかしいかもしれない。たまに時間をずらして教室に入ろうかと思う奈々子であった。
今日は定年退職した小野寺さんが書いたミステリー小説を皆で読んだ。舞台は昭和の終わりの寂れた古書店。失踪した書店の主人の謎を追うものである。
「わぁ、続きが気になりますね! 全体の哀愁漂う雰囲気が好きです」と清水さんが絶賛した。清水さんはいつも褒め上手である。受講生たちの作品の良い箇所を見て自分の言葉で話しているのがよくわかる。
落ち着いた静かな文体に奈々子も引き込まれるように読んでいた。地の文章がしっかりしているとはこういうことか、と思いながら「文章がとても綺麗です。私もセリフ以外の文章や表現力をあげたいです」と言った。
哲郎も話す。
「小野寺さん、まずはこれだけの構成力をお持ちであることが素晴らしいです。読みやすい文体でありながら、じわりと情景が染み込んでくる。港町の湿った空気や古書店の埃っぽさまで感じられたよ」
小野寺さんは照れくさそうに笑い、軽く頭をかいた。
「ただ、書店の主人が失踪するきっかけですね。あそこは物語の核になる部分かと。今のままでも充分に成立しているが、あと少し……感情の深掘りがあると、もっと心に残るはずだな。例えば彼が何を恐れていたのか、何を諦め、何にしがみつこうとしたのか」
「はい、頑張ります」
さらなる感情の深掘り……奈々子もメモを取る。小野寺さんの作品でさらに、ということであれば自分の作品はもっと掘らなければならないなと思い、軽く俯く。
「感情に共鳴するのが物語の本質だ。登場人物の感情を自分なりに考えて深掘りしていくことが大事になってくる。人物の背景を考えることや、人物の素質が分かるきっかけとなる出来事を書いてみること……そこから感情へ繋げる。そうする事で読んだ後の余韻が残りやすいんだよ」
受講生たちに向かって渋い笑顔で話す哲郎を見て、奈々子はまた胸の奥でトクンという音が聞こえる。いけない……大事な内容なのに哲郎ばかり見ていてメモを忘れてしまうところだった、と奈々子は焦る。
レッスンが終わり、皆が帰った後に奈々子が言う。
「ミステリー小説が書ける人って頭の回転が早そうですよね。尊敬します」
「フフ……伏線を散りばめる作業もあるしプロット段階でしっかりと軸を決めておくことが必要だからな。他のジャンルでも同じことが言えるけど、継ぎ足しながら展開させるのが難しいからな。ミステリーは」
「真相を決めておかないといけないのですね。私には無理だ……」
奈々子がため息をつくと哲郎が彼女に近づき髪を撫でる。
「君のミステリーなロマンスも見てみたいな」
「え?」
「何故愛する彼女が失踪したのか……君ならどう考える?」
哲郎の顔が近くて奈々子の頬が染まっていく。
「ありきたりかもしれないけど、別の男性のところに行ったとか……?」
それを聞いた哲郎が奈々子を強く抱き寄せる。
「何だろう……すごく心配になった」
「やだ……哲郎さんたら。私が失踪して他の人のところに行くとでも思ったの?」
哲郎のそういうところがますます愛おしく感じる奈々子。彼に抱かれて首筋にキスをされる。
「きゃっ……あ……」
奈々子は力が抜けていき、哲郎に身を預ける。彼の勢いが止まらない。哲郎の温もりと心地良さに酔いながら奈々子は甘い吐息を漏らす。
哲郎が奈々子の眼鏡を優しく外してくれた。
2人の時間は始まったばかりである。