背後に、ぴたりと張り付くような気配がした。
咄嗟に振り返るが、そこには猫飼の姿はない。
代わりに電柱の影が、不自然な歪みを帯びていた。
風も吹いていないのに、まるでそこだけが脈打つように揺らいでいる。たとえ風が吹いていたとしても、風で揺れる影を正常とは言い難い。
管方の心臓が、いやな音を立てて打ち鳴る。
足を踏み出しかけた途端、ずるりと、這うようにこちらへと迫ってくる気配が押し寄せる。
息が詰まり、全身の筋肉がこわばる。
息を呑み、堪らず駆け出す。
再び、夜の街を全速力で。
猫飼を探して。
(とりあえず猫飼さんの元にまた行けば、なんとかなるはずだ……!)
頭の隅でそう考えながら、階段がある道は意図的に避けた。この街の一部の住宅街は入り組んでいる。路地は曲がりくねり、見通しは悪い。
小さな靴音が、冷えたアスファルトに弾ける。
湿った夜気が、顔に貼りつき、呼吸を重くした。
このままでは追いつかれる。そんな焦りが背中を叩き、管方は無我夢中で走った。
管方の脳裏に、考えて走っているのだから、これは無我夢中と言えるのだろうかと、どうでもいい疑問が頭をよぎった。
(もしかして──)
走りながら、管方の脳裏にひとつの考えが閃く。
管方は頭に浮かぶこの街の記憶を頼りに、次の角を曲がった。
何度か角を曲がり、たどり着いた路地の奥、道が途切れ無機質なブロック塀に阻まれる。
追ってくる足音が、じわじわと、しかし確実に近づいている。
気配は膨れあがり、彼のすぐそこに迫っている。
足音が近づいてくる。
管方は、恐る恐る顔を後ろに向けようとした。
そのとき、凍りついた空気を柔らかな声が切り裂く。
「振り返るな。」
それは、猫飼の声だった。
彼女は、確かに後ろに立っている。
街灯の光も届かないその一角は、路地の闇が深く沈み込んでいた。
未だ気配はまだそこにあり、まるで空気が粘つくように重く、管方の背後にまとわりついている。
猫飼の声だけが、その重苦しい空間に一筋の光のように響き、緊張と恐怖の中でかすかな安心感を管方にもたらした。
彼女の足音は聞こえず、ただその存在が空気を変えるような静かな圧迫感を放っている。
「オオカミが子ウサギを追い詰めたんじゃあない。猟師が、間抜けな獲物をはめたのさ。そうだろう? 管方君。」
猫飼の声は、夜の闇に溶け込むように柔らかく、それでいて鋭い響きを持っていた。
彼女の問いかけには、どこか楽しげな調子が含まれているが、その声にいつものような軽やかな雰囲気は見当たらなかった。
管方は息を整えようと肩を上下させながら、振り返るのを我慢して前を向いたまま小さく頷いた。
「ええ、まあ、おかげさまで?」
管方は調子良く返そうとするが、その声はほんのわずかに震えている。
管方の視線はブロック塀の冷たい表面に固定されたまま、背後の気配と猫飼の存在を感じながら動けずにいた。
「おっと、逃がさないよ」
猫飼の声が聞こえたと同時に、無数の足音が響き始めた。
まるで闇の中から無数の人集りが一斉に動き出したかのように背後の暗闇から、乾いたアスファルトを叩く音が背後から鳴り響く。
「夜に足音を鳴らして迫り、恐怖感を煽るだけの怪異、だったかな」
彼女の言葉と共に足音が変化し、まるで苦しくもがいているかのように弱々しくなる。
「おかしいね、君のような怪異が人を襲うとは」
猫飼の声には、ほのかな驚きと冷たい鋭さが混じっていた。
彼女の言葉が闇に響くと、足音がさらに弱まり、まるで何かに締め付けられるようにピタリと止まる。
路地に不気味な静寂が戻り、管方の背後に漂っていた重苦しい気配が、かすかに薄れていくのを感じた。
「おや? なにか……」
猫飼の声が途切れ、一瞬の間が生まれる。
街灯の届かない閉鎖的な暗闇に、緊張感だけが漂う静寂が続いた。
「まあいい」
猫飼の声が再び響き、その一言で静寂が破られる。
路地の闇はまだ深いままだったが、確かにその背後の気配はぴたりと止んでいた。
「よし、振り返ることを許可しよう。」
猫飼の言葉に、管方は一瞬身体を硬くした後、ゆっくりと振り返った。
振り返った先には暗闇が広がり、わずかに彼女の背後から差し込む街灯の淡いオレンジ色の光が、猫飼の姿を浮かび上がらせていた。
彼女の白銀の髪は闇の中でほのかに輝き、墨色のドレスは夜の闇に溶け込んでいる。
彼女の華奢なシルエットは、異質な美しさを放ちながらも、怪異ハンターとしての静かな威圧感を漂わせていた。
「はぁ、事前に説明くらいしてくださいよ」
暗闇の中で、猫飼の唇がわずかに弧を描いた。
街灯の淡い光が彼女の顔を照らし、鋭い眼差しの中に一瞬の愉悦が閃く。
「敵を騙すには味方からさ。それに、君は私の意図に気づいてくれた。それでいいじゃないか」
猫飼の言葉が夜の空気に溶けると、彼女の瞳が一瞬、鋭く光った。
彼女の唇には、先程の笑みの余韻が微かに残り、どこか試すような、だが同時に信頼を秘めた眼差しが管方を見つめる。
「逆に僕が気づかなかったら、どうするつもりだったんですか」
管方はため息まじりに肩をすくめ、呆れたように尋ねる。
猫飼は、階段を1人では下れない。
そのことを踏まえたルートを進み、なおかつ彼女の『人は必死に走っている時、他のことを考える余裕はない。それは逃げている側も追っている側も同じだ。』という、彼女の言葉から意図を汲み取らなければならなかった綱渡りのような危ない作戦に管方は冷や汗をかいた。
そして猫飼はその言葉に、ふっと目を細めると、ほんのわずかに首を傾げ、考え込むような仕草を見せる。
「その時は、その時だ」
猫飼はやがて小さく肩を竦め、あっさりと言い放った。
淡い街灯の光が、彼女のほとんど無表情に近い微笑みをぼんやりと照らしていた。
「……さあ、協力を感謝するよ。管方君。君を家に送ろう」
猫飼が優しくそう伝えると、二人は並んで路地を抜け出した。
街灯の灯りが、まばらにアスファルトをぼんやりと照らしている。
閉ざされたシャッターや、静かに眠る住宅の並びが、夜更けの静寂に溶け込み、かすかな風が路地裏に溜まった紙屑を転がしていった。
ふたりの足音だけが、ひっそりとした夜の街に響いている。
ふいに、横を歩く猫飼が振り向きもせずに口を開く。
「ところで、もし君が良ければなんだが」
猫飼はふと足を緩め、隣を歩く管方に目線を向けた。
夜風に揺れる白銀の髪が、街灯の下で静かに光を帯びる。
管方は立ち止まり、少し身構えるように猫飼を見た。
夜の静けさに包まれた街並みの中で、二人だけが切り取られたように時間が緩やかに流れる。
遠くで自動販売機の駆動音が微かに唸り、冷たい空気が頬を撫でた。
「どうしました?」
管方が尋ねると、猫飼はほんの一拍、間を置いた。
やがて、猫飼は再び管方に向き直り、いたずらっぽく片眉を上げて言った。
「君、夏休みは暇なんだろう?」
猫飼が悪戯っぽく笑う。
少年の顔を覗き込むように、軽く身体を傾けた。
「どうかな、この夏の間。私の助手にならないかい?」
淡々とした声音で、猫飼はそう告げた。
今の彼女は表情こそ乏しいが、その瞳は管方を興味深そうに見つめていた。
「えっと……いやぁでも」
管方は困ったように言葉を濁し、足元を見つめて目をそらした。
彼は小さく唸るような声を漏らし、右手で後頭部を無意識にかきながら、どう返事をすべきか逡巡している。
猫飼の申し出は唐突で、さらにはただならぬ何かを含んでいる気配があった。
簡単に引き受けてしまっていいものかと、迷いが管方の胸に渦巻く。
「給与も出るぞ」
猫飼は言葉を続けながら、首をわずかに傾げた。
その仕草には、どこか軽い好奇心が混じっているようにも見えるが、彼女の表情は依然として無表情のままだった。
「ぜひ、よろしくお願いします」
管方の言葉を聞き、猫飼は満足そうに微笑んだ。
その微笑みは、まるで最初からこうなることを知っていたかのようなもので、計画通りに物事が進んだことを楽しんでいるかのようだった。
「いい心意気だね、管方君」
猫飼はそう言うと、再び歩き出す。
管方も、それに従い再び夜の帰路を歩んだ。