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第7話 『落ち着かない日々の予感』

「もー!心配したんだからね!?」 


 家に辿り着くと、玄関の前には腕を組んで立つ妹の姿があった。

 街灯の明かりに照らされた彼女の顔は、不機嫌を隠そうともしていない。


 その声音には、怒りだけでなく、心配の色も滲んでいる。


「ごめん」


「こんな時間まで何してたの!アイス買いに行っただけだよね?どこまで買いに行ったらこんな時間になるの」

「いやあ、ちょっとそこまで」


 管方が苦笑しながら曖昧に返すと、妹はさらに一歩詰め寄った。

 彼女の視線がじっと管方を見据える。

 さっきまで怪異と対峙していたときよりも、よほど居心地が悪い。


「せめて、電話には出てよ!どうせまたマナーモードにしてたんでしょ!」


 図星を突かれた管方は言葉に詰まり、目を逸らすしかなかった。

 それを見た妹は、深いため息をつく。


「ああ、ごめん。ほら、いきなり外で自分のスマホから音が鳴ったらびっくりするからさ……」


 言い訳を口にしながら、管方は気まずそうに頬をかいた。

 管方は、その言い分が苦しいものだと分かっていた。しかし、あまりにも現実離れした出来事をどう説明すればいいか、言葉が見つからない。


「はあ、とにかく、こんな時間まで何してたわけ?」


 妹は容赦なく本題に踏み込んできた。腕を組んだまま、探るような鋭い視線を向けた。


「それは、えっと……」


 管方は視線を泳がせながら口ごもる。

 あれこれ言い訳を探すように目線を宙に彷徨わせていたそのとき──。


「私が、彼を呼び止めてしまったんだ。すまないね」


 背後から静かな声が響いた。

 振り返ると、いつの間にか猫飼がすぐ後ろに立っていた。

 相変わらず無表情に近い微笑みで、妹に視線を向けている。


「……だ、誰、ですか?」


 妹は戸惑いながらも、警戒を滲ませた声で問いを返した。

 目の前にいる見知らぬ女性、その白銀の髪と無機質な雰囲気が、彼女の不安をより強めているようだった。


「なんで猫飼さ……」「管方君。そう、彼とは旧友の仲でね。久々に彼を見かけたものだから、私が呼び止めてしまって、そこから昔話に花を咲かせてしまい、気が付けばこんな時間だったんだ。」


 思わず口をついて出た管方の言葉を、猫飼が穏やかな声で遮る。

 猫飼は微かに口元を緩めながら、自然な演技で感情を込めて話す。その物腰は落ち着いていて、説明にもどこか説得力があった。


「そうなの?お兄ちゃん」


 妹はまだ少し不審そうな表情を浮かべながら、兄の顔を見上げる。


「あー、そうなんだよ。つい話し込んじゃってさ。時間が過ぎるのって早いよなぁ」


 管方は愛想笑いを浮かべながら、猫飼の物語にそれとなく話を合わせた。


「彼の帰りが遅くなってしまったのは私の落ち度だ。彼をあまり責めないでやってくれ」


 猫飼は軽く頭を下げるような素振りを見せながら、静かにそう付け加えた。


「ま、まあ、そういう事なら、仕方ない、けど……けどちゃんと連絡は返せるようにしてよね」

「分かった、気をつける」


 妹はようやく気持ちを落ち着けたのか、小さくため息をついて言った。


 管方は素直に頷き、胸を撫で下ろすように笑った。あまりに非日常的な夜だったが、こうして日常に着地したことに、少し安堵を覚えていた。


「それで……えっと、もしかして泊まっていく。感じ?」


 妹が猫飼をちらりと見上げながら、恐る恐る管方に問いかけた。


「ああ、いや。私は彼を家に送り届けに来ただけさ。彼は頼りないからね。」


 猫飼が即座に、管方の返答よりも先に答えた。

 口調は淡々としているが、どこか本気とも冗談ともつかない含みがある。


「なるほど、わざわざありがとうございました」


 妹はその答えに妙に納得したように頷いた。兄のに関しては全面的に同意しているらしい。


「いやいや……さて、私は迎えが来ているのでね、そろそろ行くよ。おやすみ、管方君。」


 猫飼はふと管方の方へ振り返り、ごく自然な調子で声をかける。

 その声色には、どこか友達同士の別れ際に似た軽やかさがあった。


「あ、うん、おやすみ猫飼……ちゃん?」


 管方は咄嗟にその演技に付き合い言葉を返そうとしたが、最後の呼び方で明らかに自分でも違和感を覚えた。


「本気かい?」


 猫飼が片眉を上げ、呆れたような表情で問い返す。


「あ、いや、おやすみ猫飼」


 管方は慌てて言い直し、今度は無理のない調子で言葉を返した。


「……ああ、ではまた」


 猫飼は静かに頷くと背を向けて歩き出し、その姿はすぐに夜の街の暗がりへと溶けていった。

 どこか浮世離れした彼女の佇まいは、去り際まで現実と幻想の境を曖昧にしていた。


「へえ、それでえ?あの人とどういう関係なの?もしかして彼女さん?」


 猫飼の姿が見えなくなったのを確認すると、妹はすぐさま声のトーンを切り替え、興味津々といった様子で管方に身を寄せてきた。


 その顔には好奇心がありありと浮かび、口元にはにやけた笑みすら浮かんでいる。


「ただの昔の友達だって言ってただろ?」


 管方は肩をすくめながら、あっさりとした調子で返した。


「まあ、そうだよね、にぃの彼女にしては美人すぎるもん」

「僕に美人な彼女はできないみたいな言い方はやめてくれ。名誉毀損で訴えるぞ」


 妹は悪びれもせず笑った、愉快そうに管方の顔を覗き込む。


「そもそも毀損される名誉があるの?」

「特にない」


彼女にとってはその反応すら面白かったようで、ますます愉快そうに笑っている。

 そんな様子に、管方はため息をつきながらも呆れたような笑みを浮かべた。


「ま、いいや、ほら、早く入ろ」

「そうだな」


 妹は軽く笑いながら玄関の扉に手をかける。

 追及はそこで打ち切るつもりのようだったが、表情にはまだ少し興味が残っている。


「そういえばアイス、たぶん溶けてる。」

「もういいから。車とかにひかれてなくてよかったよ、はぁ」


 管方は靴を脱ぐと、手に持っていたビニール袋を軽く持ち上げ、すっかり冷たさを感じられなくなった中身を確かめるように一瞥した。

 キッチンの冷凍庫を開けると冷気がふわりと顔に触れ、それが心地よく感じる。

 袋ごと中に押し込むと、扉を閉めて、ゆっくりと背を伸ばした。


 玄関から階段に向かう足取りは、普段よりもずっと重たかった。

 まるで今日一日の出来事が、足首に鉛のようにまとわりついているかのようだ。


 二階の廊下に辿り着くと、管方は自分の部屋の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけた。

 扉は何も言わず、音も立てずに、すんなりと開いた。暗がりの中に、自分だけの空間が静かに待っている。


 はずだった。


「……え?」


 部屋の扉を開けた瞬間、管方は自分の目を疑った。

 淡い琥珀色の光に包まれたその空間は、壁際に本棚が並び、中央には大きな黒革のソファが据えられている。天井からは優しく揺れる吊り下げ灯が下がり、空間全体に穏やかな静けさと異界の気配が漂っていた。


 そして、そのソファには見覚えのある銀髪の少女が、足を組みながら背もたれに体を預け、まるで何事もないかのようにくつろいでいた。


 彼女は管方に気づくと、ちらりと視線だけを向けた。


「おや、おかえり管方君」


 まるで最初からそこに住んでいたかのような自然さだった。管方は開いたままの扉に立ち尽くし、ただただその光景に呆然としていた。


「いつの間に僕の部屋は改装工事されたんですかね」


 管方はため息まじりにそう言いながら、異空間と化した自室の中を呆れたように見回した。


 目の前に広がるのは、昼にも訪れた猫飼のセーフティハウス。

 天井の高い書斎のような空間であり、彼の生活感など一切見当たらない。


「ついさっきかな。この方が、出勤が楽でいいだろう?」


 猫飼はソファに腰かけ、膝の上に開いた古びたハードカバーの本を優雅に読みながら、こちらを一瞥もせずに答えた。

 銀の髪が肩でさらりと揺れ、どこか満足げな気配を漂わせている。


「あの、僕の部屋は?」


 管方が肩を落としながら尋ねると、ようやく猫飼は本から視線を上げ、首を傾けた。


「ああ、ここは君の部屋だったのかい。悪いね。どこか空いている部屋か、普段使わない部屋はあるかい?」


「2階の、誰も使ってない物置があるので、そこに繋げてください」


 疲れたようにそう答えると、猫飼は満足そうに小さく頷いた。


「仕方ないね。扉を閉じてくれ、戻しておくよ」


 その言葉に、管方はようやく扉の取っ手に手をかけ、静かに部屋の扉を引き寄せる。


「はい、おやすみなさい、猫飼さん」


 管方は扉を閉めた後、しばらくその場に立ち尽くした。

 部屋が本当に戻っているのか、不安と興味がせめぎ合う中で、彼は再びゆっくりと取っ手を回し、扉を開ける。

 そこにあったのは見慣れた、自分の部屋だった。


 しかし、くつろぐ前に物置部屋を確認しておこうと廊下を進み、家の奥にあるその部屋へ向かった。

 廊下の突き当たり、小さな窓から月明かりが差し込む中、彼は物置の前に立った。


 息をひとつ整え、管方は取っ手を回し扉を押し開けた。


「いでっ」


 扉の向こうから鈍い衝突音とともに、短い声が飛び出す。

 驚いて手を引き、再びゆっくりと扉を開くと現れたのは見慣れた白銀の髪の人物だった。


「あ、すみませ……扉の前で何してるんですか」


 そこにいたのは、やはり猫飼だった。


「……いやなに、君が扉を開けるだろうから驚かそうと思ったのだが、まさか内開きとは」


 彼女は頭を押さえながら、どこかバツの悪そうな顔でぼやいた。


「ほんとに何してるんですか」


 管方は思わず眉をひそめたが、猫飼は気にも留めず平然と話を続ける。


「まあまあ、とりあえず部屋はここでいいのかな」


 管方は頷き、視線を猫飼から部屋の中へと移す。


「大丈夫ですけど。万が一、何かの理由で僕の妹が物置部屋を尋ねることがあった場合、大丈夫なんですかね」


 管方は少し身を乗り出し、真剣な面持ちで猫飼に問いかけた。

 彼の中には、この部屋が特別な場所へと繋がっているという現実に対する、ある種の危機感があった。


 それに対し、猫飼は一拍の間を置き、どこか楽しげな調子で答える。


「それは安心したまえ。ここに来られるのは私が招待した者か、私に深く縁のある者だけさ。君の妹が迷い込むことはないだろう」


 猫飼は落ち着いた声でそう答えると、ゆったりと片手をひらりと動かした。


「便利ですね」


「そうだろう」


 少し誇らしげな口調で返す猫飼に、管方は小さく笑って肩をすくめる。

 しかし体力の限界を感じていた管方は、その話を終わらせることにした。


「じゃあ、おやすみなさい」


「うむ、良い夜を」


 猫飼も頷きながら軽く片手を上げ、その言葉を返した。

 扉をゆっくりと閉めると、廊下の空気がふっと静まり返る。言葉の余韻だけが、夜の空気に溶けていった。


 管方は自分の部屋へ戻り、ゆっくりとベッドへ身を沈める

 マットレスが身体を受け止める感触に、今日一日の疲労が一気に押し寄せた。


「住み込みで働くとは言うけど……まさか職場の方から住み込んでくるとは……」


 天井をぼんやりと見つめながら、そんなぼやきを口にしたそのまま、彼の意識は徐々に暗闇へと沈んでいった。

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