少女はブローチを上着に付け、甲板の喧騒を後にして船内の通路へと足を踏み入れた。
朝の陽光が小窓から差し込み、錆びたパイプと木の床を淡く染めている。
蒸気と油の匂いが鼻先をかすめ、遠くから船員の笑い声がくぐもって響いた。
彼女の白い髪が肩に揺れ、ルビアの「好きに見て回るといいよ」という言葉を胸に、彼女は古びた手すりを握り、静かな好奇心を瞳に宿して歩き出した。
最初にたどり着いたのは、図書室。
重い木の扉を押し開けると、埃っぽい空気が鼻をくすぐり、革装の古書や羊皮紙が詰まった書棚が壁を埋め尽くしていた。油ランプの薄暗い光が、擦り切れた地図や手書きの巻物を照らしている。
「なにか探し物?」
女性の声がした方を振り返ると片眼鏡を掛けた女性が穏やかに微笑んでいた。
少女は小さく首を横に振る。
「そう、なにかあったらいつでも声をかけてね」
次に、医務室の扉をそっと叩いた。
部屋には、薬瓶が並ぶ棚と木箱が置かれ、消毒液と薬草の匂いが漂っていた。
「遊びで来るところじゃないよ、用がないなら出ていきな」
医務室から出た少女が貨物倉へと続く階段を下りると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。
広大な倉庫には、木箱に詰まった食料や調査用のロープ、測量器などが積み上げられていた。
「ん?見ない顔だな。あれか、記憶がないっつうヤツの」
「は、はい。」
彼女は小さく息を吞み、男の視線にたじろぎながら答えた。
屈強な男が、木箱の陰から顔を出し、少女のブローチに目を留める。
「こんな所で何してんだ?迷子か?」
「あ、あの、いえ、見学を」
男は片眉を上げ、慌てて首を振る少女を見て木箱に寄りかかりながら笑った。
すると、彼女のお腹が小さくグウと鳴り、静かな空間に響く。
少女の頬がぱっと赤くなり、彼女は両手でお腹を押さえ、視線を足元の床に落とした。
「食堂なら、今、嬢ちゃんが来たその階段を登って、右に突き当たりまで進んで、左だ」
男は太い指で通路の方向を指した。
少女は顔を上げ、恥ずかしそうに何度も小さくお辞儀をして彼女は男に背を向け、急ぎ足で階段の方へ戻る。
階段を上る彼女の足音が、蒸気装置の低いうなりと混ざり合い、遠くに消えていった。
食堂の扉を開けると、パンの香りやこんがりと焼けた何かの香ばしい臭いが溢れ出した。
木の長テーブルには、少人数がまちまちと座り食事をしている。
少女が戸口で立ち尽くすと、船員がブローチを見て「あ、ようやく来たわね。ルビアに言われて来たんでしょう?」と気さくに手を振った。
少女は遠慮がちにテーブルに腰掛け、渡されたパンの温もりに指先を温めた。
「それにしても遅かったわね。もしかしてルビアったら、伝え忘れてたのかしら。ちゃんとあなたの食事を用意して待っていたのよ?」
その船員はしばらく食事をする少女を見届けながら、途中で用事があると言ってその場を去っていった。
食事を終えた少女は食堂の温かな喧騒を背に、通路をさらに進んだ。
少女の鈍色の瞳には、静かな好奇心が宿っていた。
通路の先で、大きな開かれた門が目に入ったが、頭上に掲げられた「獣人区域」と刻まれた掛け看板には気付かず、彼女はその門を通った。
空間の幅が広く、周りの物も少し大きく感じるようになり、独特な匂いが流れ出してきた頃。
すれ違う船員が獣人ばかりなことに気がついた少女は、船員たちの奇妙な視線に気まずくなり足を早めた。
人通りが少なくなった廊下の端で、少し開けたスペースにいくつかのテーブルが並べられている場所に少女はたどり着いた。
テーブルには、たった一人だけ座っている人物がいた。
その人物は獣人の女性だった。
しかしルビアのような獣人とは違い、毛皮で肌が見えず、口元には唇がない犬や狐のような鋭い顔立ちだった。
「どうしてこんな所に、こんな小さい子がいるのかな?」
「あ、え、えっと、見学……」
獣人女性の声は低く、どこか探るような響きを帯びている。
少女は小さく息を吞み答えた。
「ふぅん、それで、何を見学しに来たの?獣人が珍しい?だから観察しに来たの?」
獣人の女性はゆっくり立ち上がり、少女に近づいてきた。
彼女の足が床板を重く踏み、毛皮が擦れる音が静かな空間に響いた。
「それとも、獣人は恐い?」
獣人の女性は少女のすぐそばまで迫り、すぐ側まで顔を近づけた。彼女の金色の目が鋭く輝き、少女の息遣いを感じ取るようにじっと見つめた。
少女の喉が締まり、口から漏れる声は言葉にならない。
「私みたいな、獣の血が濃い獣人は恐い?」
彼女は少女の耳元で囁き、声が低く唸るように響く。
少女の背筋に冷たいものが走り、彼女の瞳が恐怖で揺れた。横に顔を傾けると、女性の開いた口の隙間から鋭い牙が存在を主張していた。
「獣の血が濃いから、本当に獣みたいでしょ?」
その声は甘く、底知れぬ脅威を帯びていた。
「爪も、牙もある。分かる?この牙は、獣と一緒。肉を貪るためにあるの」
彼女は囁き、少女の顔のすぐ近くで牙を見せつけるため口を開いた。
少女の心臓が早鐘を打ち、恐怖が胸を締め付け少女の鈍色の瞳が震えている。
「アケラビ、よさないか。客人だぞ」
低く落ち着いた声が部屋に響き、獣人の男性が廊下を歩いてきた。
彼もまた獣の血が濃く、全身を濃く赤い毛皮が覆っている。大きな体躯が部屋の空間を圧し、しかしその目は穏やかだった。
少女は彼の声に小さく肩を跳ねさせ、後ろに視線を上げた。
「んー?ああ、あんたか。何?あんたの子供?子供のおもりくらいちゃんとしな」
獣人の女性、アケラビは少女からゆっくり離れると、男の方を呆れたように見据えた。
彼女の金色の目が軽く細まり、口元に皮肉な笑みが浮かべている。
「すまない。君を獣人区域で見かけたと報告を聞いて迎えに来た。君、ここは、獣人専用という訳では無いが、仕事や何か用がない限り、立ち入らない方がいい。」
獣人男性は穏やかに話し、少女に歩み寄る。
少女は彼を見上げ、緊張がわずかに和らいだが、胸の奥には張り付いた恐怖がまだ残っていた。
「じゃないと恐いお姉さんに食べられるからねえ」
アケラビはテーブルに腰をかけ、少女を煽るように言った。彼女の牙が再び垣間見え、金色の目がいたずらっぽく細まった。
少女の心臓が再び跳ね、彼女は無意識にブローチを強く握った。
「すまないね。彼女は人間があまり好きではないんだ。過去に少し……」
獣人男性は静かに言いかけたが、アケラビが鋭く遮った。
「人の過去を他人にペラペラ喋るつもりなわけ?本人の前で?いい性格してるね」
彼女は低く唸り、男を睨んだ。
男性は小さく咳き込み、少女に視線を戻した。
「すまない。とにかく、僕に着いてくるんだ。いいかい?」
「は、はい」
彼の声は穏やかだが、どこか急かすような響きを帯びていた。少女は小さく頷く。
男性の大きな背中に続き、彼女は獣人区域の重い空気を後にした。