(忠勝、負けるでないぞ!)
家中一同の無言の圧が忠勝にかけられる。並々ならぬ圧と、それをしっかり受け取った忠勝の熱気で人々の興奮はさらに増してゆく・
(あああ……た、たたたたた戦うのがわしでなくて、よかった)
家康がそっと胸を下ろしたのは内緒である。
どのくらい時間が経っただろうか。
その場にいる家康だけでなく、日本全国津々浦々の大名たちの秘めたる複雑な想いをのせた忠勝の槍が煌き、蜜柑の刀が根元からぽっきりと折れた。
「ややっ? 蜜柑、やはり無銘の脇差を使ってござったか……?」
「……ふふ、どうかな?」
「たたたたた忠勝、油断してはならぬ、何か策かもしれぬぞっ!」
家康が忠告したときには、忠勝の動きは若干緩やかになっていた。あれほど激しかった殺気もきれいさっぱり消えている。
この男、闘志に火が付くのも早いのだが、消えるのもまた早い。
それを熟知しているのだろう蜜柑は、その機を逃さずぱっと大きく飛び下がって間合いを外した。あろうことかその場に片膝をついて、忠勝の前で無造作に白い首筋を晒した。
そうなると不思議なもので、槍を繰り出そうとしていた忠勝の手が止まった。
「うぬ、蜜柑! 立て、立たぬか! 勝負は終わっておらぬぞ。おれはまだ……」
蜜柑は、綺麗な顔を不敵に歪めて、笑みを浮かべた。
「恐れ入った、本多殿! それがし、只今これより剣術の修行に出て参る。しからばこれにてごめん!」
一瞬の後。
おのれ蜜柑、と本多忠勝はその場で顔を真っ赤にして唸っていた。
「どうしたのじゃ、忠勝」
「逃げられた! もうしわけござりませぬ!」
「逃げた!? どどどどどどうやって逃げたのじゃ?」
「蜜柑め、刀は折れたように見せかけただけ、我らは彼奴の奇妙な術に嵌ったのでござる!」
忠勝は、折れた刃のかけらを拾い、家康の鼻先に突き付けた。
「なんじゃ?」
「殿、とくとご覧あれ!」
ぐしゃ、と忠勝はそれを握りつぶした。
「……ど、どどどどどどういうことじゃ! なにゆえ、紙の刃なのじゃ! た、たたたたたたしかに鋼がぶつかり合う音がしておったであろう!」
「はい。打ち合うた感触も、たしかに通常の刃でござりました。断じて紙などではなく……」
一同、しーんと静まり返った。
「面妖なこともあるものよのう……」
ぽつんと家康が呟き、奇術か妖術かと、一同が首をかしげている処へ、血相を変えた小姓が走ってきた。
「皆様方に申し上げます。一大事でござります!」
「どどど、どうしたのじゃ!」
「畏れながら申し上げます。殿のお部屋から『唐の頭』が、本多様のお部屋から『蜻蛉切り』が、消え失せました。どちらも只今蜜柑様が持って行かれたものと思われます」
「そっ、そそそそその証拠は!」
「餞別として頂戴しておく、と一筆……」
小姓が、さっと紙きれを差し出す。間違いなく、蜜柑の筆跡である。
この短時間で一体どうやって奪って行ったのか、などと聞いても仕方がない。
家康は、怒り狂う忠勝を宥めながら、また柑橘家へ頭を下げねばならぬのを、ひっそりと嘆いていた。