メープルシロップみたいな、甘みが広がる。
けれど樹の蜜特有の、えぐみも甘みの奥にある。
すぐに、そのえぐみがうっ血して固まった、血の臭いだと理解した。
「か…はぁぁぁぁ…っ!?」
臭くて、不味くて、吐き出そうと試みても、そのために必要な空気が肺にない。呼吸で空気を取り込もうとしても、咽頭が閉鎖しており何も吸えない。
結果咽頭の間隙を縫ったのは、隙間風の笛鳴りのような、甲高い唸り声だけだった。
激しい首への圧迫感に、わけもわからずもがく。瞼の間から見えたのはいつもの自室。しかし、景色が高い。まるで天井に張り付いているかのような景色と、首への圧迫感から、自身が首を吊っていることに気付いた。
一瞬見えたはずの景色も、刻一刻と瞼が重くなっていく。景色が黒く歪んで、意識が再び遠のいてしまう。瞼が落ちきれば死ぬ。足を必死に振り回すが、何に当たる事もなく宙を踊るばかり。
両手で首に掛かる縄を掴もうとする度に、深く肉に食い込んだ縄に届かず爪が首を掻き切った。
苦しい。痛い。苦しい。苦しい。なんで?どうして?死ぬ。
目玉が勝手に上を向き、堕ちる寸前。
ぶちっ、と上から音が鳴り、落ちた身体が受け身も取れずに地面に打ち付けられた。
「っはぁぁ……」
地面に打ち付けた頭と食い込んだままの頸を撫で、顔を上げた。天井に括ってあったのは、縄ではなくネクタイだった。
「なんで…私、こんな事を…?」
記憶がなかった。自殺を図るような心当たりなどなく、理解が追い付かない頭は自室を見渡す。立ち上がりながら、早鐘を打つ胸を抑えて意味もなく数歩歩いた。
代り映えのしない部屋である。椅子が倒れているのは自殺のための台にしたからだろう。それは紛れもなく、自らが足場にして蹴り飛ばしたからこその惨状であり、他者に自殺に見せかけて殺されかけていた可能性を希釈する。
整理整頓された部屋は几帳面で、少し武骨さを感じさせる。けれど、ベッドとサイドテーブルに置かれたぬいぐるみの数々が、微かに女子の部屋らしさを醸し出していた。
そんな几帳面な部屋のベッドには、似つかわしくなく高校の制服とブレザーが乱雑に置かれていた。
「普段の私だったら、ハンガーにかけるはず。電気もつけずに…私、何かを忘れてる…?」
ドアの近くの姿見に近づき、自分の全身を見た。
下着の上からシャツだけを羽織っているが、そのシャツはボタンを掛け違えている。リボンは緩んで垂れ下がり、ブラジャーの緩さからブラジャーのフックまでも掛け違えている事に気づいた。
学校から帰ってきて自殺を図ったのか、学校にいくための支度途中に自殺を図ったのか。いずれにせよ、制服を脱いだか着たか、その二つのシチュエーションどちらかで事は起こったのだろう。
深く食い込み、くっきりと痕が残っている首を撫でて少女は必死に遡及した。
「そもそも、今日は何日だっけ?…二十四日、クリスマスイブだったような」
部屋を見渡し、机に置かれていたスマホを手に取って時間と日付を確認する。
「…え?十二月、二十七日?…三日、空いてる」
すぐに少女は毎日ログインしているソシャゲを起動した。毎日欠かさずログインし、通算連続ログイン日数九百日を超えているゲームを開くと、連続ログインは三日前から途絶えていた。
「どういうこと?三日間、私は何をしてた?毎日欠かさずにログインし続けてきたゲームにも触れずに…最後の記憶、どこで記憶が途絶えた?」
いくら考えても何も思い出せず、少女はラインを開く。生憎な事に普段から連絡を取るような親しい友人はいない。それでも、覚えのないトークが一つあった。
「…父さん?」
父との、ラインだった。
そこに至った瞬間、首が猛烈に痛み、呼吸が苦しくなる。
「…あれ?あれ?私…何、したっけ?」
スマホを落とし、わずかに頭を抱えた。
パチパチとラムネのように記憶が爆ぜ、思い出そうとする意志とは無関係に本能が追憶を妨害する。何度も何度も歯を食いしばり、目を瞑って思い出そうとするが、思い出せるのは感情だけだった。
愛情、恐怖、寂寞、無念、諦観、憎悪、嫌悪、厭悪、罪悪感。
溢れ出る感情に息が出来ず、自分の胸を繰り返し殴った。
「かっ、くぅ…ふぅぅ」
殴り続けて、やっと空気が喉を通り始める。一杯一杯に呼吸を繰り返し、冷えてきた頭を抱えて少女は振り返り、ドアノブに手をかけた。
引いて開け放ち、廊下に立つと眩しさに目を細める。
遮光カーテン越しに自室に差し込む日差しから、察してはいたが今は朝であるらしい。
廊下には燦燦とリビングからの日差しが差し込み、暗い自室から天国にでも来たかのようだった。眩しさに目を細めながら、真向いの父の部屋へ一歩近づく。
鳥が歌い、冬の寒さを晴朗な日差しが温める心地の良い朝に。少女はその扉を開けた。
「──あぁ」
全ては察していた通りだった。何故か全てをわかっていて、それでも開けなければよかったと後悔に蹲る。
開けた瞬間に、臭いが鼻についた。腐敗と汚物。
開けた瞬間に、景色が目についた。死肉と朱色。
開けた瞬間に、感傷が肌についた。絶望と渇望。
「おぇぁぁぇ…」
三日前、自分が何を思ったのか。何をしたのか。依然思い出せないまま。
勝手に溢れ返ったのは、汚物だけだった。一つだけ理解できたのは、父は死に、そして自分が自殺をしたこと。
きっとこの二つは同じ事で、同じ思いで。
父の部屋には一歩だって踏み込めないまま、その朱い部屋に汚物だけを吐き散らかして、記憶に蓋をするように扉を閉めた。