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第2話





 少女は朝日に手を翳し、天望デッキから関東平野を見下ろした。



 天、と書いたのは誤字ではない。ここは地上三百五十メートルの空。五メートルを超える巨大なガラスが三百六十度張り巡らされた、世界で最も高いタワー。



 つまり、スカイツリーである。


 ここは、少女にとって特別な場所だった。どれほど昔日に霞もうとも色あせる事のない、母との最期の思い出。その思い出を噛みしめるようにデッキの縁にある手すりを撫ぜて、ゆっくりと外周を回っていた。


「……」


 平日の十時過ぎという事もあり、人はそれほど多くはなかった。それでも、眼下を見下ろせばぞくぞくと人がこのタワーの足元に集ってきているのが見え、少女は歩く速度を少しだけ上げる。


 少し歩くと、天望デッキ内にあるカフェに行きついた。

 カフェと言っても、そこには椅子などはなく、映画館のようにカウンターから商品を注文する形式の店である。

 その店の裏を通る事は出来ないので、少女は足早に店前を通り過ぎ、歩いた先にあった長椅子に腰かけた。



「はぁ…」



 ここに来たことに、特に意味はなかった。父の死体から目を背け、警察に通報する事も、誰かに助けを求める事も何故かできず、ただ記憶の奥にいる母へ助言を求めるようにここに辿り着いていた。


 もっと、考えようはあっただろう。自分の置かれた状況に、推察を落とす事だって。

 それが出来ないのはきっと、考えればすぐに答えに辿り着くと何よりも本人が気付いていたからだ。

 そんな自分自身にもう一度溜息を零していると、誰かが少女の隣に座った。


「寒いね」


「…え?」


 己に話しかけられたのだと、認識するのにしばしの時間を要した。

 素っ頓狂な声を上げつつ、ちらりと横目で隣を見ると、そこには小さな女の子がいた。はぁ、と両手を口元に近づけて息を吹きかけ、あからさまに寒そうにしている。


 言われてみれば、寒いような、寒くないような。空調は効いているはずだが、確かにその子の吐く息はわずかに白く、気霜になっていた。


 改めて女の子を見ると、その長い髪が目についた。長いストレート髪は腰下まで伸びて、華奢な子供をより神聖にみせる。服装は白く、なるほど、その薄い服ならば寒いだろうと納得の格好であった。

 その特徴的な出で立ちに目を奪われていると、女の子も少女を見遣り、目があう。

 返事を返さないわけにもいかず、咄嗟に言葉を紡いだ。


「えっと…そう、だね?君は、迷子?」


 聞くと、女の子は小首を傾げて不思議そうに瞬きをした。


「…?うーん、まぁ、そうなるの、かな?」


 要領を得ない返事であった。

 何故話しかけられたのか、何故不思議そうにされるのか。お互いに首を傾げる、奇妙な空間がそこにはあった。


 結果、その微妙な空気に押されて少女はキャッチボールを返せなかった。ただチラチラと幼気な子供を盗み見るだけの、不審者の如きムーブしかできない。


 何とか場を持たせよう、と少女は意気込み、会話の種を絞り出す。


「…普通、こういう所来たら、みんな下を見ると思うんだけど、君はさっきからずっと空ばかり見てるよね。どうして?」


 そう、この子供を一目見た時から少女は違和感を感じていた。悴んだ手を吐息で温めるその一瞬も、この子の視線は空に首ったけだった。

 だから聞いてみたのだが、やはり女の子は不思議そうに眉にしわを寄せて首を傾げる。一通り悩んでから、可愛く苦笑した。


「お姉ちゃん、変なの」


 お姉ちゃん、という一言に、思わずときめく。知らない女の子にいきなり言われるとは予想もしていなかった。しかし当の本人は気にもしておらず、おかしそうに笑っていた。


「えっと、君のご両親はどこにいるの?」


 クスクスと笑い続けられると流石に気恥ずかしく、話題を変えようと質問を投げた。と、同時に自身が巻いていたマフラーを女の子の首に掛ける。


 女の子は質問の内容に驚きながらも、マフラーを脱いだことで露わになった少女の首元を見た。己の首を見られ、少女は咄嗟に自分の首を撫でる。マフラーで隠していたのは当然、消える事のない首を括った痕だった。


「そっか…お姉ちゃん、本当に、覚えてないんだ」


「…え?何のこと?」


「ううん、何でもないよ。あっ、名前言うの忘れてたね。私の名前は國原椛」


「ナギちゃんか。うん、よろしく。私の名前は──」


 少女は女の子が差しだした手を躊躇なく取り、手を握る。その、直後だった。


「自ら首を括る程に辛く苦しい人生を生きてきたのに、全部忘れてもまた私にマフラーをかけてくれるなんて…優しいんだね、楓等お姉ちゃん」


 どうして、首を吊った事を知っているのか。何故、名乗る前に名前を知っているのか。

 そんな疑問を、呑気に考える暇はなかった。



「──ッ!?うっ!げほっ!うぅぐぅ!?」



 息を吸おうとした瞬間、肺に突き刺さる不快感に咳き込んでいた。気管支に飲み物が入ったような、むせる感覚に抗えずに椅子から崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。


「がはっ!すぅ、う、はぁぁ!うぅ、な、にこれ!?息が、出来ない!?」


 咳き込んでも咳き込んでも、肺に溜まる不快感は増すばかりで呼吸が出来ない。反射で起こる咳にこれほど恐怖を抱いた事はなかった。


 ふと、自分が先ほどから咳と共に吐き出しているものを見る。


「うぅぅ、み、水?げほっ!なん、で?」


 あっという間に、ペットボトルでも倒したみたいに地面が水浸しになっていた。それが全て己が吐き出した水だと気付き、咳き込みながらも立ち上がる。

 すると、椛は変わらず微笑みながらすぐ後ろに座っていた。この異常事態に何一つ怯まない姿に、堪らず恐怖して一歩退く。


「苦しい?」


 平然と笑いながら立ち上がり、楓等へ近づいた椛から逃げるように背を向けて走り出す。

 これは、椛の仕業なのか?確証なんてなかった。しかし、逃げなければ殺される。そんな漠然とした予感から、一目散に天望デッキを走り抜けた。


「死ぬのが怖いの?変なの、もう死んでるのに」


 後ろから聞こえた彼女の言葉にわずかに振り返ると、椛は追いかけてなどいなかった。


 やはり不思議そうに、首を傾げるばかりで。


 死んでいる?誰が?私が?


 確かに首を吊ったが、死ぬ前に助かった。だから生きてここにいる。そのはずだ。

 これが死ぬ前の夢だとでもいうのか?ならばあの子は死神?


 頭を一所懸命に働かせて考えてみても、楓等の思考はもはや死んでいた。自分が今走っているのか、歩いているのか、止まっているのかさえわからないほど呼吸困難によって朦朧としながら、手すりに倒れ込む。


 後ろを見ると当然、椛はいなかった。ただ何事かと一般客が胡乱な目で楓等を見ているだけだ。突然走り出し、終始咳き込む姿は尋常ではないだろう。


「うっ、げほっ、かほっ!」


 しかしそれでも、依然呼吸はできないまま。苦しさに胸を抑えて蹲っていると、エレベーターの到着音と、駆動音が聞こえた。


 朦朧とする視界でエレベーターを見ると、丁度開くところであった。スカイツリーのエレベーターには案内のスタッフが一人、常に乗っている。

 その人に言って、救急車を呼んでもらおうと立ち上がったが、開いたエレベーターから漏れ出したのは煙だった。


「…ッ!?」


 肉や内臓を焼いたような、粘っこく油っぽい匂いに顔を顰めながら煙が晴れるのを待つ。

 煙が晴れた先には、焼けた人間が二人いた。

 一人はエレベーターの奥に倒れ込み、余程高い温度で焼かれたのだろう、真っ黒に焦げた死体の周りも黒い墨で染まっている。

 もう一つの死体は、立っていた。同じく黒く焼けているが、奥の死体とは違い長いコートを羽織っている。煙も上がっていない。


 その立ったままの死体は、おもむろに左手を上げて楓等に手掌を向けた。



「よう」



 死体が、喋った。


「え?」


 次の瞬間には、死体の左手から火炎放射のように炎があふれ出し、楓等を押しつぶして焼いていた。爆発のような圧倒的火力は、瞬時に天望デッキのガラスを吹き飛ばし、そこにいた楓等ごと空へ叩き出す。


「なん、でッ!?」


 浮遊感。そして確信。


 死んだ。


 三百五十メートル落ちれば、人は死ぬ。残酷なのは、その高さゆえに死の恐怖を存分に堪能する時間的余裕が与えられていた事。


 加速的に遠のいていく空と、煙が上がる天望デッキを見つめながら零れる己の涙を追い越して落ちていく。


 思慮を尽くしてこの数分に何が起こったのか、自分の死因を探っていると、羽織っていたジャケットの内ポケットから何かが零れる。


 それは軽く、楓等の落ちる速度の方が速いので、まるで宙に浮いているかのように距離が離れていく。


「…ボールペン?」


 見覚えのないボールペンだった。それがどこまでも離れていく様子を見ながら、楓等は思い出す。



「あっ、そうだ」



 頭から落ちた彼女の頭蓋が、地面と接触する寸前。



「私が殺したんだ」



 言い終えた時には、楓等の身体は水滴のように弾けた。









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